江角家住宅
Ezumi



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出雲市指定文化財 (平成13年1月12日指定)
島根県出雲市斐川町原鹿640-1
建築年代/明治31年(1898)
用途区分/農家(大地主)
指定範囲/主屋
公開状況/公開 【原鹿の旧豪農屋敷】
島根と鳥取の県境に聳える船通山を源とする斐伊川が中国山地を抜けて出雲平野へと流れ下ると、それまで北西方向に進んでいた川筋は大きく東へ蛇行し、広大な氾濫原を形成しながら最終的には宍道湖へと注ぎ込む。斐伊川は本来、出雲平野の西に在る神西湖を経由して日本海側の大社湾に流れ込んでいたらしいが、江戸時代初期の寛永年間に発生した大洪水の後は現在の東に向かう流れへと変化し、宍道湖畔を中国山地の鑪製鉄によって流出した鉄穴砂で少しずつ埋立てるかのようにして現在の簸川平野を形成するに至るのである。そしてこの流変によってもたらされた鉄穴砂と真砂土が交じり合った広大な土壌では、当初においては汽水湖であった宍道湖の塩分を含んでいたため、除塩による土壌改良を施す必要から木綿栽培が行われるようになる。江戸中期の宝暦年間以降、現在の平田市周辺で木綿栽培が俄に盛んになり、河内木綿と並ぶ名産品として雲州平田木綿の名が全国的に知れ渡るようになるには、こうした背景があったのである。しかし明治期に至ると輸入綿の関税撤廃により価格競争で敗退、また外貨獲得のため国策として輸出用に生糸栽培が奨励されるようになると綿花栽培はあっという間に廃れ、除塩が完了した土地には代わって米作が行われるようになる。現在に至る大穀倉地帯の始まりである。
さて当住宅は、宍道湖に滑走路が突き出す無謀な埋立工事の末に開港した出雲空港から西へ約6km程の簸川平野の只中に所在する豪農屋敷である。当家は斐伊川を挟んだ対岸の平田灘分村の豪農・江角家から18世紀初頭に分家し、江戸時代に平田川の改修に伴って平田市から原鹿の地に移住したという。屋敷の一部が斐川町坂田から移築されて「出雲文化伝承館」として公開されている「坂田江角」と共に、県内有数の豪農「原鹿江角」として知られ、昭和21年の農地解放時には田128.9町歩、畑57.6町歩で計186.5町歩の田畑を有し、501戸の関係小作を有する県下7番目の大地主として記録されている。分家当初には現在地の北700mの位置にあった原鹿中組に居を構えていたが、明治20年(1887)の大水害で被害に遭ったため、明治30年(1897)に原鹿島田の現在地に移転したとの事である。主屋は伝統的、且つ非常に端正な建前で、入母屋造桟瓦葺の単層平入の間取りは横3列×縦4列の整形12間取というとてつもない大きさである。但し通常であれば建造物としての威容を誇ることを意図するのであれば、横方向(桁行)を長く取って屋根棟の長さを強調することが江戸期の民家における家格の演出方法であるが、当住宅の場合は縦方向に部屋を4間も並べて奥行き(梁間)を深く取っている。広大な平野部に在って初めて可能なことではあるが、県下有数の豪家でありながら主屋を前にして立った時に、意外にも人を威圧するような風情を感じることが少ないのは、こうした建前によるものである。これについては、屋敷廻りを厚く防風林で囲っていることからも判るとおり、風の強い地域であったため、建物が最も安定する正方形に近い形となることを意図したとも考えられるし、分家住宅として世を憚った故とも考えられなくもない。いずれにせよ通常であればその規模からして棟高となる建前を四方に長大な下屋を葺き下ろすことで母屋部分を小さく収め、棟の低いどっしりとした形に仕上げている。ひょっとして母屋を小さくすることで建物の軽量化を図り、沖積層の軟弱地盤に対応した為なのかもしれない。いずれにせよ、いろいろと想像が働いてしまうのは、当住宅が簸川平野に一般的な農家建築とは大きくかけ離れた規模と外観を呈しているという証左なのである。また内部については、前述の通り整型の間取りで、且つ部屋境に余計な柱などが一切立たず開放的な風情であるが、一方で欄間などは多用せず土壁で部屋境を仕切るのは、山陰地方特有の夏の暑さを凌ぎ、冬の底冷えに対処するための工夫であろう。主屋の建坪は約350㎡もある巨大な建造物ではあるが、土間上の架構を除けば、内外共に実に軽快な建前である。ところで地元自治体が発行する当住宅のパンフレットには屋根の妻壁に「水返し屋根」が重なり二層になっていることが特徴で江戸時代末期の建築様式と記述されているが、この一事を以って建築様式とするのは無理があるような気がする。また水害に遭って移転した際に江戸の材を使ったことが判明したことから近世の屋敷構えを残す出雲地方では数少ない豪農屋敷であるとも書かれているが、私の印象としては名実ともに限りなく近代和風建築の域にあるものである。江戸期は、未だこのような巨大地主の存在は無かった時代である。当住宅の存在は、あくまでも近代に至って土地の集積が爆発的に進行したことで初めて可能になったものである。あくまでも個人的な見解ではあるが、当住宅の価値は、明治期に至って広大な簸川平野において木綿栽培から米穀栽培に転換したことにより巨大地主が突如として勃興し、従来とは異なる規模と合理性を兼ね備える形で家作がなされるようになった点にあると考える。そして、その後においては水稲耕作技術を発展させることによって土地の生産力を上げ、引いては小作料収入の増大化を図ることにのみ励行したため、先進地帯の大地主層に見られるような資本主義の発展に伴う産業資本への転進を怠る結果となり、戦後の農地改革においては全てを失うことになるのである。その意味では出雲という悠久の歴史が育まれた地域にありながら、明治中期から昭和初期という短い期間に一瞬の光芒のように現れた民家建築なのである。

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