宗岡家住宅
Muneoka



 
大田市指定史跡 (平成5年3月17日指定)
島根県大田市大森町ハ164
建築年代/天保9年(1838)
用途区分/武家(同心・15俵1人扶持)
残存建物/主屋・離れ・土蔵
公開状況/非公開
慶長5年(1600)の関ヶ原合戦に勝利した徳川家康は、直ちに豊臣方大名の領地の接収を開始する。いわゆる太閤蔵入地と称される土地で、西軍総大将の毛利氏との共同経営がなされていた石見銀山も当然ながらにその対象となり、接収役として現地に派遣されたのが彦坂元正と大久保長安であった。当時の幕府内における立場は彦坂が代官頭、大久保は代官という役職ではあったものの、大久保は家康に仕官するまでは甲斐・武田家の蔵前衆として鉱山採掘にも携わったことがあり、実務経験を買われての派遣であったと思われる。毛利家支配の時代にあっては、石見銀山の直接的な管理は、毛利輝元配下の銀山六人衆と呼ばれた面々が取り仕切っており、当家の祖である宗岡弥右衛門もその一人であった。大久保は接収後も彼らを引き続き地役人として召し抱え、石見銀山の経営・管理に当たらせることとしたが、特に宗岡と同僚の吉岡隼人を重用し、慶長6年(1601)に大久保が「石州並諸国金銀山奉行」に就任すると、彼らを直属の銀山附地役人として石見銀山の管理のみならず、吉岡を伊豆、宗岡は佐渡の鉱山開発にも携わらせた。両者は徳川家康にもお目見得して、吉岡は「出雲」、宗岡は「佐渡」の官途名を拝領するとともに、宗岡は佐渡・相川金銀鉱山の差配を命ぜられ、 慶長8年(1603)に佐渡に派遣されると、当地で病没する慶長18年(1613)まで相川鉱山の開発・経営に目代として大きく関わったという。ちなみに大森町内に残る彼の墓所は「宗岡佐渡の墓」として市の史跡に指定されているが、これは後年に子孫となる8代目・長蔵が建立したもので本墓は佐渡・沢根郷の専得寺に現存している。
さて当住宅は宗岡佐渡の末裔が住した武家屋敷で大森銀山町の中程に所在する。屋敷は表通りから少し奥まった位置に有り、敷地も決して広くはない。主屋の規模も小振りなもので、石州赤瓦の桟瓦葺き切妻造の平屋建で正面に式台を構えるが、内部においては土間と整形四間取の床上部から成る簡素な建前である。然るが故に住宅前に立てられた案内看板の解説によって宗岡家の由緒を知ったところで、多くの方は幕府に対する勲功に比して余りに粗末な住居であることに違和感を抱かれるのではなかろうか。「神君・家康公から直に褒賞を受けた人物の末裔の家なのに足軽並みの住居であるのは何故なのか」、多少の民家好きであれば素直な疑問が沸々と湧き起こるはずである。建物が初代の頃の建築ではないのは理解できるが、当住宅が建てられた幕末、天保9年(1838)までに一体何があったのか。灰色の脳細胞が動き出す瞬間である。
当家初代・弥右衛門がこれほどまでの活躍振りであったにも関わらず、彼が病没すると2代目・喜兵衛は佐渡から石見国大森に帰参している。現地に残れば佐渡相川金山の山方役として実質的な運営・差配を担えたかもしれないのに、である。ここからは推測の話となるが、これにはやはり初代・弥右衛門の死去した慶長18年(1613)に突如として勃発した「大久保長安事件」が関係していると思わざるを得ない。すなわち石見大森銀山、佐渡相川金山の開発に止まらず全国各所の検地や街道整備に尽力し加判役(老中)にまで昇進していた大久保長安も同年に死去しており、その直後に長安の不正蓄財が露見したことに始まる大久保一族に対する大粛清事件である。幕府草創期の大功労者であるにも関わらず長安に対する家康の怒りは凄まじく、彼の葬儀を認めないばかりか全財産を没収し、7人いた息子達は諸共に切腹の咎を受け、大久保家は絶家している。宗岡家の石見大森への異動と大久保長安事件を関連付ける証拠は無いが、初代・弥右衛門時代に受けていた知行は500石。石見大森に帰参した2代目・喜兵衛は銀山附役人組頭の役職に任じられたものの切米200俵扶持。実質的な収入減も然ることながら知行取と蔵米取では武士としての体面も大きく異なる。何らかの理由でペナルティが課されたと考えて、ほぼ間違いないであろう。しかし、それにしても鉱山開発という特殊技能を持った技術官僚に対する徳川幕府の扱いは余りにも軽いと云わざるを得ない。というのも当家のみならず現地に定住した地役人に対する幕府の仕打ちはこれ以降においても止まることはなく、寛延4年(1751)に石見代官として天野助次郎が派遣されると幕府派遣の御家人と地元採用の地役人との禄高・格式の逆転現象を問題として地役人に対する身分直しが実施されることになるのである。端的に云えば地役人に対する大胆な降格・給与カットである。2代目・喜兵衛以降も銀山附役人組頭を世襲してきた当家であったが、寛政2年(1790)に6代目・喜三兵衛は故あって職を辞し、大森を離れて川本村に移住している。理由は明確にされてはいないが、時期的には既に天野は代官職から離任していたものの、幕府派遣組と地役人との間に生じた軋轢が尾を引き、鬱憤溜まってのことと考えてもあながち間違ってはいないだろう。天野にしてみれば代官着任時には大森銀山の銀産出量は江戸初期と比べて大幅に落ち込み、採掘を中止して休山となった坑道が大半を占める状況にあっては、膨大な産出量を誇った江戸初期の家禄をそのまま受け取る地役人の存在に疑問を呈するのは至極当然であったろう。しかし一方で地役人側にしてみれば、身分は過去の功績を踏まえたうえでのもので、身分の世襲は幕府直轄の旗本・御家人とて同じ、という気持ちである。どちらの言い分にも理があるという問題は双方が満足する着地点を見出すことは甚だ難しい。しかし結局のところ、当家は文政6年(1823)の8代目・長蔵の時代に大森に戻り、銀山附同心として禄高切米15俵2人扶持で再出仕している。臥薪嘗胆の心持ちであったに違いない。悔しくも、幕府側に軍配が上がった形で終結したということになるのだろうが、一連の出来事において当家に落ち度があった訳では無い。幕府の恣意的な都合で翻弄されただけのことである。いつの時代でも権力に近づき過ぎると碌なことにはならないという見本のような話である。
という訳で、現在残る当住宅が足軽屋敷並みという事実にも合点がいく。地元の大田市が作成したパンフレットには、同心として再召し抱えとなった折に遠縁であった阿部家(半蔵光格)より譲り受けた屋敷と解説されているが、元々は福本家の屋敷跡であった。恐らく当住宅に隣接する阿部家が福本家から買い取り、8代目・長蔵に譲り渡したとう顛末ではなかろうか。
最後に蛇足ながら、住宅の建築年についても触れておきたい。当住宅が大田市指定史跡になった際には、「現在の住宅は1800年に発生し、町の2/3を焼失させたという寛政の大火を免れた建物と伝えられる」と解説されていたが、修理工事後には天保9年(1838)の建築であったことが改めて判明している。詳細な調査によって新たな事実が発見されることは仕方がないことであるが、だとすれば当住宅は宗岡家自身の手による建築ということになるのではないか。何故にパンフレット内の短い文章に「阿部家から譲り受けた」という解説のみが掲載され、宗岡家が大火後に再建したという事実には触れないのか。公儀のなされることに腑に落ちないことが多々あるのは今の世においても同じということなのだろうか。(2022.4.6記述/2023.2.21修正)

【参考文献】島根県教育委員会「島根県民家緊急調査報告書」/吉川弘文館「出雲と石見銀山街道」/

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