絲原家住宅 Itohara |
登録有形文化財 島根県仁多郡 用途区分/鉄師頭取 公開状況/公開 絲原家は、中世武家の一門で、初代が江戸初期の寛永元年(1624)に備後国から仁多郡大馬木村湯之◆に移住し、農林業を営み、松江藩の鉄穴流し解禁と共に鑪製鉄業を開始しました。天明8年(1788)には当地に高殿を移し、大正12年(1923)まで約290年にわたり、鑪の火を燃やし続けました。藩政時代には、下郡上座ならびに鉄師頭取として藩、郡の鉄行政に関与、維新後は製鉄改良に励む一方、郡内の殖産・興業・教育の振興および国政にも参画しました。、 寛永10年代(1633)から、鑪吹き製鉄を家業としてきた絲原家は、松江藩の「御買鉄法式」及び「鉄方法式」によって選抜された藩内5鉄師の一人として、その後安定した操業を行っていた。しかし安永9年(1780)に、時の大老・田沼意次によって開始された、幕府の「鉄座流通統制策」の影響による価格下落により、経営不振に陥った。その後は約20年間に亘り、経営状態の悪化が続くが、徐々に改善されて、安政2年(1855)には、田畑合計563石余という、藩の中老級の田畑を所有し、鉄山32ヶ所、腰林161ヶ所、鉄穴25ヶ所、町屋敷6ヶ所、酒座2ヶ所、室座7ヶ所、紺屋座3ヶ所、小鍛冶座3ヶ所を有するほどに回復した。このような絲原家の繁栄は、松江藩との密接な関係にあり、幕末期には膨大な寸志を行って、その見返りとして、左記のような格式の賜与などが行われ、最終的には5人扶持士分格の準武士に取り立てられた。そして慶応2年(1866)の第2次長州征伐に際しては、階具具足御免状とともに、合力を命ぜられ、松江藩の軍印と絲原家の家紋を付した突盔形の兜具足を松江の甲冑師・山久瀬氏に発注し、これを着用して参戦したが、敗れ帰った。尚、その3年後にあたる明治2年(1869)の絲原家のたたら製鉄業全体の雇用者数は直接従業員390人、間接従業員410人の合計800人であった。それに加え、物資、製品の輸送関係者約260人及び使役馬約800頭であった。【現地解説文より】 絲原家の主屋は、10代・徳右衛門の植林した材を用いて13代・武太郎が本格的な書院造を志し、約5ヶ年の歳月を費やし、大正13年(1924)に完成させたものです。設計は京都帝国大学の佐藤作造、大工棟梁は平田市の長谷川松太郎でした。建物の一階は中央に土間を取り、右側に事務所、左側と後方に客間及び居住部分を配し、前棟は一部2階、後棟は総2階造りで、付属建物を含んだ総建坪は約352坪(1161㎡)、延床面積は約493坪(1626㎡)、部屋数は約40室あります。 屋根は現在は瓦葺きですが、戦前までは栗削葺きで、約3尺(91cm)の雪が3ヶ月積もったままでも建具の狂わぬ造りとなっております。そのため土間の梁、軒桁等にも大きな材が使用されています。特に大黒柱には1尺1寸角(33cm)の欅の木を用いています。なお出雲地方では大工の棟梁が梁に水盛線の数値を記す習わしがあり、当建物にも桁天よりの数値が記されています。また書院の欄間は"八雲立つ・・・"の古歌に因み、八つの雲形が象ってあります。主屋書院と庭を挟んで相対する座敷は建築年代も古く、藩政期には松江藩主の御成座敷として使用された客殿です。【現地案内看板より】 主屋と客殿の間にある庭は、奥出雲の自然を借景とした全庭1188㎡、この中に72㎡の池泉を有する回遊式の出雲流庭園です。江戸後期から作庭を始め、約50年かけて明治中期に完成したものです。その特徴は、書院前の飛び石組手法にあります。また松江市に存する不昧流の茶席を写した「為楽庵」を有しています。尚、居宅は江戸後期の儒学者・頼杏坪により「煙霞屋」と命名され、明治初期には南画家の田能村直入、昭和初期には歌人・与謝野鉄幹、晶子夫妻、貴族院議長・近衛文麿などが訪れました。 |