山本家住宅
Yamamoto



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無指定・公開
島根県出雲市知井宮628
建築年代/明治15年
用途区分/農家・地主
残存建物/主屋・長屋門・米蔵・木材蔵
公開状況/公開 【出雲民芸館】
世の中には品の良い家という類があって、そうした家に偶然に出逢ったりすると本当に嬉しい。山紫水明に恵まれた国土で暮らす日本人は古来より山川草木を利用し、深く自然と関わるが故に、一方で自然に対して畏敬の念を抱く民族だとする記述を大衆向け雑誌の紀行文などに散見するが、日常の生活の中で感じる私の日本人観はむしろ真逆で、平気で自然を蔑ろにする実に酷い民族。虚飾に塗れ、他人に対して傲慢で自分本位な輩の実に多いこと。しかし質の悪いことに自分の中にもそれを大いに感じてしまうから嫌になる。煩悩を解き放ち、解脱に至る道を歩むことができるならば、と幾度となく思う。妙な書き出しから始めてしまったが、民家の世界においても然りで、近世の封建制度による種々の縛りから庶民が開放された明治維新以降、彼らが建てた建物が如何に低俗なものであったかは例を挙げるまでもないことだろう。富裕な者にとって家は見栄の塊であり、金を持たない者にとっては凡庸の映し絵であると常々感じるところ。しかし当住宅を若かりし頃に訪れたとき、凛として作為の無い、その美しさを目の当たりにした時の感動は今を以てしても忘れない。私は日本の民家のあるべき姿について一筋の光明をここに見たのである。
当住宅は、むしろ出雲民藝館の名称で知られる存在である。「民藝」とは大正15年(1926)に柳宗悦、河井寛次郎、浜田庄司らによって提唱された生活文化運動で、名も無き職人の手から生み出された日常の生活道具の中にこそ真実の美が宿るとしたもの。床や違棚を飾り立てるような作為的な工芸品の美しさではない、もっと原初的、且つ本質的な美を追求する活動である。出雲民藝館は、この運動に共鳴した当家が屋敷の一部を開放する形で昭和49年(1974)に開館したことに始まる。全国各地に民藝館というものが開設されているが、個人の屋敷をそのままに利用している例は当住宅と岐阜高山の日下部家住宅ぐらいのものであろう。明治12年の建築で3000俵もの米俵を備蓄できるという米蔵を本館に、明治中期建築の木材蔵を西館として展示場に転用し、石見地方で作られた甕や大皿などの陶器類、出雲地方特産の風呂敷や暖簾、夜着といった木綿布製品が質朴に展示されている。端的に云えば実用を目的として建てられた建築自体をそのまま生かし、そこに山陰で作られた物、山陰の暮らしで用いられた物たちが一堂に会する施設となっているのだ。
さて当住宅が所在する知井宮は広大な出雲平野の西南端に位置し、神戸川の氾濫原に形成された沖積平野の微高地に営まれた純農村集落である。神戸川は宍道と広島県の三次を繋ぐ国道54号線が県境を跨ぐ赤名峠の直ぐ西に聳える女亀山を源流とする一級河川で、治水が行き届いた現代でこそ穏やかな表情を見せているが、流域は云わずと知れた嘗て鑪製鉄が盛んであった奥出雲地域。鉄穴流しによる土砂の流出は著しく、その流域は度々洪水に見舞われ、集落から少し西に在る神西湖の氾濫原と共に水害に悩まされ続けてきた土地柄であった。実際、当住宅を訪れると神戸川側に面する屋敷裏手には広大な雑木林が拡がっており、恐らく万が一の氾濫に備えての緩衝地帯の意味合いがあったのではなかろうかと推測される。ところで出雲平野の西側一帯における開発については、江戸初期に出た治水家・大梶七兵衛の存在抜きには語れないところである。堰止湖であった神西湖の水を日本海へ流す差海川の開削、水利に恵まれなかった古志知井宮地域の灌漑のための十間川の開削、大社湾からの砂防対策として荒木浜植林による砂防堤の築造など数多くの土木事業を成功に導き、その後の出雲平野における新田開発の基を作った人物である。全国的な知名度を誇る程ではないが、地元においては神様のような偉人で、実際に彼の事蹟を示す土木遺構は付近に散在している。我々は、出雲と云えば国引き神話を筆頭に神代の古い歴史ばかりに思いを馳せがちであるが、山裾の古代遺跡が点在する一部の地域除いた平野部においては、その生活・文化はむしろ江戸初期以降に始まった治水と新田開発と共にあったと云った方が正しいだろう。
ところで当家のことである。当家の本家筋は16世紀に京都から移住してきたとされるが、一方で関ケ原合戦後に来住したと記述される書籍もあり不詳である。当家自体は享保元年(1716)に初代・惣右衛門が次男を連れて分家したことに始まるとされ、分家当初に20石余に過ぎなかった家産を、約100年かけて5代目当主の文政元年(1818)頃までに1500石余にまで増加させている。実に75倍という驚異的な伸長振りである。通常であれば、天下泰平の江戸期にあってこれほどまでの急激な家産拡大は不可能に近いことであるが、当家の場合のその原動力は新田開発事業にあった。その背景として先述のとおり江戸初期から続く治水事業の効果が、この時期に至ってようやく表れ、出雲平野を大穀倉地帯へと変貌させつつあったことと密接に関わっていたに相違ない。結果として当家は松江藩より苗字帯刀を許され、与頭や下郡といった郡役人を歴任し、最終的には5人扶持、小算用格の武家格式を得るにまで至るのである。また江戸後期においては藩主・松平候の出郷(領内巡見)に際して本陣役を担っている。近代に至って島根県内の地主については具体的な資産額が明確になっているが、明治13年(1880)の地価1万円以上所有者一覧においては1位飯石郡吉田村の田部長右衛門の田畑357町歩、10万8458円に次いで神門郡知井宮村の山本秀太郎、田畑205町歩、地価10万2682円の名が挙がる。また昭和期に入っても島根県農地改革誌に記載された昭和21年(1946)の農地改革時の農地所有調では田部家を筆頭に、続く2位の座を那賀郡木田村の佐々田家に譲りはしたものの、3位に山本厚太郎の名と共に田186.9町歩、畑52.8町歩の計239.7町歩、関係小作数1507戸と記載されている。また所有する土地の範囲は簸川郡、飯石郡、八束郡に及び何故か鳥取県の西伯郡にまで及んでいる。
屋敷は出雲地方屈指の大地主の邸宅だけあって約1町歩余の面積を誇る広大なものである。しかし表から一見するだけでは当家の屋敷構えの凄さは判らない。質素な板塀越に鬱蒼とした雑木林を臨むだけである。しかし板塀伝いに矩折れする二間幅の誘導路に従って進むと奥に長屋門形式の赤瓦を戴く入母屋造の表門が出迎えてくれる。農家の表門としては異例で、両脇に小部屋を備えた正式な長屋門である。この表門は延享3年(1746)に出雲大社造営の大工棟梁の指図により建てられたもので、普通に考えれば特別に藩からの許可が得られない限りは不可能な建前である。表門を潜ると正面には、白砂が眩しい前庭を介して重厚な黒釉瓦の切妻屋根の主屋が鎮座している。屋根上に煙出しを設ける以外は何ら装飾性の無い直線的で清々しい主屋である。当家の格式を考えれば、正面に破風屋根付きの式台玄関が構えられていてもおかしくはないが、それさえも座敷庭との仕切塀に隠れるように屋根も架さずに設えられている。現在も御家族が住んでおられるので内覧はできず外観のみの見学となるが、内部は3列2室の整形六間取で、最も上手には二間続きの座敷が並ぶ。その上の間と二の間の境には出雲大社の大鳥居と参道を表した彫刻が施された欅材の欄間が嵌められ、座敷西側の表庭に面しては畳廊下が廻らされている。総じて柱の木割は太く、床の間周りには多種の銘木が用いられはするものの、床柱を角柱とする本書院形式の武骨なものである。主屋の建築は明治15年(1882)ではあるが、江戸期に描かれた屋敷図面と比較して、往時の間取りをそのまま踏襲した建前となっているようである。また民藝館の展示施設として利用される米蔵は南面する主屋の南東側に、木材蔵は南西側に配置されるが、いずれにおいても主屋からの視界の妨げにならぬように配慮されているようだ。そもそもこうした造作は広大な屋敷地を有するが故にできる芸当なのかもしれないが、余程に家そのものの有り様を追究する気概を有していない限り、このように品格ある姿・形にはならないのではないかとも思う。そして戦後の農地解放で307町歩の山林を残す以外は多くの田畑を手放さざるを得なかったであろうにも関わらず、未だに旧家としての矜持を保ち、家屋敷を維持しておられることに頭が下がる思いである。
最後に出雲民藝館のパンフレットの一文を紹介して本稿を締め括りたいと思う。「民藝館はいたずらに昔を懐かしむ骨董品の陳列場ではなく、私たちの暮しを美しく、良くするにはどうすればよいかという考えや眼を養うための本当の暮しの根城なのである。」・・・・全くである。(2022.4.25記述)

【参考文献】出雲市民文庫「出雲の御本陣」/吉川弘文館「出雲と石見銀山街道」/山川出版社「島根県の歴史散歩」

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