道面家住宅
Doumen



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国指定重要文化財 (昭和44年6月20日指定)
島根県鹿足郡吉賀町大字注連川764
建築年代/江戸後期(19世紀後半)
用途区分/農家
指定範囲/主屋
公開状況/外観のみ常時公開 (時々内部公開されています)
東西に長い島根県域において最も西南端の山口県境に程近い旧六日市町郊外に建つ農家建築である。住宅は本流にダムが無く日本一の清流と喧伝される高津川の蛇行により形成された河岸段丘上の散在集落内に所在しており、周囲は果樹園と田園が広がる長閑な風情に溢れた土地柄である。ただ冬は厳しい。冬季に中国自動車道を九州側から大阪方面に向かっていると、「六日市ICより先は冬用タイヤ、チェーン装着規制」の案内標示が頻繁に発出される。実際、県境を跨ぐと途端に景色が変わる。けれど冬に雪が降る地域は大概にして春がとても美しい。澄み切った空気に新緑が眩しい季節になど訪れると、もう帰りたくない。
さて当住宅のことであるが、実を以て小さき家である。幼児に「古い田舎のお家を描いて」とお願いすれば、何ら考えることなく、物の30秒程で描き上げてくれるような、まさに日本人が思い浮かべる民家の典型的な姿・形である。屋根の棟飾りとなる千木も僅か3組のみの最小数で、桁行4間、梁間3間の規模は国指定重文民家の中では最も小規模な建前となる。内部においても右手に土間、左手は板敷の部屋が2室のみの簡素な間取りである。恐らく重文民家だからと相応の規模を期待して訪れたものの、肩透かしを喰らったと思われた方もいるかもしれない。これには昭和42年頃に実施された民家緊急調査後の総括として民家の重文指定が相次いだ折に、規模も大きく架構も頑強な庄屋や名主といった上層農家に選定が偏りがちであったという反省がある。対極にある一般層の農家建築こそ、規模が小さく架構も粗末であるが故に急速な勢いで建替えが進んで消失懸念があるとの議論が起こったのである。そして当住宅も「小規模ながら石見地方における一般農家の希少な残存例である」と評価され、指定に至るのである。ただ、重文指定時には棟飾りの千木は5本、桁行6間、梁間3間で現行よりも西側に2間増築されていた為、もう少しだけ規模は大きかった。けれども昭和51年(1976)に始まった解体修理工事によって建築当初の規模に復されたことで全体的に均整の取れた良い建物になったのではないかと工事報告書に掲載されている新旧の写真を比較しながらに思う。
ところで、当住宅の解説を書こうと思い立ち、昭和42年に島根県教育委員会により実施された民家緊急調査報告書を読み始めて住宅が所在する住所の小字名が「堂免」であることに気が付いた。当家の初代となる海順という方は文政7年(1824)に没したことが墓碑銘から判明しており、過去帳によると当家は「座頭屋敷」と呼称されていたらしい。また屋敷の北東には嘗て小松院という寺院が在り、当家初代は、この寺と関係が有ったとのことである。なるほど初代の名前も僧侶風であるのはそれ故の事なのかもしれない。そこで「座頭」とは何ぞや、と思い辞書を引く。「中世、琵琶法師など僧形の盲人。遊芸や按摩、鍼に従事して座を結成、金融業も許された。のちそれら盲人を総称した。」とある。(新潮国語辞典第二版) 江戸時代には身体障碍者を保護する観点からこうした職業を盲人に対してのみ官許していたようである。然らば寺院と座頭の関係性から推察すると、「堂免」の地名は寺院が所有した地租免除の土地という意味であり、僧侶として寺院に奉仕していた方が盲人となってしまったが故に寺の土地を分けてもらい、定住したという物語が紡ぎ出される。当たらずとも遠からず、といったところではないだろうか。であるとすれば、当住宅は、当初においては農家として建てられたものではなく、座頭となった僧籍人の住居として建てられたと考えるのが筋となる。建物の規模に関して、実は盲人が生活し易いように、わさわざ必要最小限の建前にしたのであったすれば、その価値は全く意味合いが異なるものになるはずである。2代、3代と代を重ねるに従い、農家としての道を歩むことになったかもしれないが、当初に「座頭屋敷」と呼称された事実にもっと目を向けるべきではないだろうか、と思う。また同じ文脈で当住宅を建てたのは誰だったのかという点が非常に大事になることは云うまでもない。解体修理の際にも棟札等の建築年代を特定する物証は出てこなかったそうであるが、初代・海順が建てたものなのか、あるいは後代の農家として生きた時代に建てられたものなのか、という点が明らかにならないと先述の見立てが大きく異なってくる。一方で地元自治体の観光案内等には「元禄年間に遡る住宅」と解説されているが、初代の没年から考えても17世紀末まで遡るのは無理がある。物証が出なかったのであくまでも推測の域に過ぎないのかもしれないが、緊急調査報告書や解体修理工事報告においても初代が没した19世紀初頭頃の建築としている。ただ他の住宅からの転用材が多用されており一部の材料に相応の年代感があることや、建物の前面にのみ開口部を設け、その他の三面は土壁で完全に閉ざされており採光用の窓さえ設けられていない点、庇を設けず屋根を軒まで一気に葺き下ろす様子など、外観に古式を感じさせてくれる建前であることは確かである。しかし外観のみの印象に頼ると年代推定を大き見誤るのが民家の世界の常である。内部の小屋組などの技法から、ほぼ初代の頃の建築と見て間違いないだろうと考えられている。
最後に当住宅が盲人が住まいする「座頭屋敷」であることを前提にして私なりに考えたことを述べてみたいとと思う。昭和世代で学生時代に下宿していた経験をした方であれば納得されるであろうが、怠惰な日常生活を送るには、居ながらにして全ての物に手が届く四畳半程度の部屋が一番心地好いという事実がある。盲人であれば尚更の話で生活空間は大き過ぎない方が良いのである。ならば住宅の規模は実は盲人にとって生活し易いか否かという視点で建てられているのではないかと考える。また表側以外の三面は土壁で完全に閉ざされている点においても、厳しい冬場を凌ぐための寒冷対策の意味合いが最も大きいだろうとは思うが、盲人の住まいであるが故の盗人対策とも考えられないだろうか。大事なモノを仕舞っておくための納戸への動線は他人の気配を感じるために一方向に絞るに越したことはない。また他地域で同様の寒冷地に建つ民家であっても完全に三方を土壁で閉じてしまう例は殆ど無く、小さくとも採光用の小窓が設えられているものである。当住宅の場合は住人が盲人であったが故に採光の必要性が全く無く、完全に閉じてしまったとも考えられないだろうか。
小さな家であっても、その由緒来歴を知れば知るほど、それなりにいろいろと想像が膨らむもの。美しい自然に囲まれた静かな雰囲気の中、縁側に座ってゆったりとした気持ちで空想に耽るのも悪くないことである。。(2022.4.10記述)

【参考文献】島根県教育委員会「島根県民家緊急調査報告書」/島根県鹿足郡六日市町「重要文化財道面家住宅保存修理工事報告書」/株式会社INAX「中国地方の住まい(INAX ALBUM)」/毎日新聞社「解説版新指定重要文化財12巻建造物U」

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