藤井家住宅
Fujii



 
登録有形文化財 (平成20年7月8日登録)
島根県鹿足郡津和野町日原466
建築年代/文政8年(1825)
用途区分/鉱山師・山年寄・精蝋業
登録範囲/主屋・旧蝋板場
公開状況/非公開
県西部の山間地に所在した津和野藩の参勤交代のルートは日原を経由して六日市、廿日市に至るものであったらしい。現在、国道180号線となっている道で、清流として名高い高津川に並行して走るルートは意外なほどに快適である。今では国道9号線が津和野に至るメインルートになっているため、思いもよらぬ道程であるが、幾つかの峠を越えねばならないものの、高津川沿いのルートが比較的平坦で歩き易かったためであろう。
さて日原は津和野を発ち、山陰側に抜けるコースと六日市へ向かうルートの交差する場所に位置し、交通の要衝であったことは現在の風情からもうかがい知れる。日原の歴史民俗資料館に明治初頭の日原の町割図が残されているが、かなりの数の町家が建ち並び、相当に大きな町場であったことが見て取れる。しかし今では往時の風情を残す町家は殆どなく、屋敷全体として比較的旧態を保っているのは当住宅だけのように見受けられる。
そもそも津和野城下の北方に位置する日原集落は、中世より近隣の朱色山より銀が採掘されたことから鉱山町として発展し、藩政期には大森代官所管轄の幕府直轄領であった。高津川に並行して幅0.3km、長さ1.5km程の町場が形成され、代官所等の公的機関も置かれた。寛永20年(1643)までは銀が採掘されたが、次第に枯渇、慶安3年(1650)頃からは銀に代わって銅が採掘され、庄屋職を務めた三好家を筆頭に、藤井家、水津家の三家が銅山師として活躍した。
日原周辺の鉱山は「自分山」と呼ぶ個人経営の鉱山で、大森銀山のような幕府直轄による採掘ではなく、坑道の採掘料を幕府に上納する以外は自らの経営手腕で採掘を請け負うというもの。藤井家は麹屋の屋号で「山年寄」として採掘に参加していた。
当住宅は、その銅山師・藤井家の屋敷で、集落を縦断する街道に東面して建つ江戸末期建築の主屋を筆頭に門屋、土蔵等の多くの附属建造物群を残している。 主屋は江戸末期から明治に至る建築と推測され、石見瓦葺の平入りとし、ツシ2階部は白漆喰の大壁造で袖ウダツが付属する。式台部分が最も古い部分と推測される。座敷は明治初期の建築。主屋と共に登録される蝋板場は明治期に入って和蝋燭の製造を始めた際の遺構で、1階に加工場、2階部分は労働者の生活の場となっている。住宅の街道に面する側はブロック塀となっているが、恐らく道路拡幅の煽りであろう。当住宅を見るならば、屋敷裏手に回って高津川の土手上から眺めると良い。屋敷構えが一望でき、その姿は実に壮観である。高津川からの船着き場の遺構も確認される。
日原集落は、鉱山町としての役割を終えると、住民は新たな生業を模索し、時代の変遷とともに生糸や採銅、木炭などの産業を採りいれては廃れていくという過程を繰り返し、現在に至っている。当住宅も同様で鉱山経営から精蝋業に転業した経緯を屋敷に残す。その過程が実にいじらしく思う。

日原鉱山は寛永年間(1596-1643)までは銀鉱、慶安〜延宝年間(1650-1681)までは銅鉱として栄えた。
ちなみに銅山師三家のうち、水津家も屋敷の一部が残る。三好家に関しては屋敷は失われている。


一覧のページに戻る