堀家住宅
Hori



 
津和野町指定文化財
島根県鹿足郡津和野町大字邑輝795
建築年代/天明8年(1788)
用途区分/鉱山経営(銅山年寄役) 
公開状況/公開
※庭園部は国指定名勝【庭園部】(平成17年7月14日指定)

【書きかけです】
島根県は嘗ての出雲・石見の二国であり、いずれにおいても山がちな地形であるが、採れるモノは異なれど鉱山だらけの国である。大田市大森町は世界遺産にも選定されている銀山町だし、田部・櫻井・絲原の奥出雲御三家で有名な




石見國畑迫村に所在。
裏山の緑山から銀銅を産出。大森銀山支配とした。銅山年寄役を代々世襲。
離れの楽山荘は明治33年の建築。
津和野といえば、鯉が泳ぐ堀と白壁に囲まれた旧城下の風景を思い浮かべる方が多いのではないかと思うが、城下から西へ数キロ外れた山間にも素晴らしい民家が残されている。まず規模の大きさに驚かされる。そして精緻に組まれた青石垣に白壁と山陰独特の赤瓦の建物群で構成される屋敷構えに容易ならざる物を感じることだろう。次に、こんな山間になぜこのようなとてつもない家があるのかという疑問が沸々と湧いてくる。それには明確な理由がある。当家は藩政時代から近隣の鉱山開発を生業とした家柄で、事業家であるとともに奉行職のような地位にもあったためである。
観光地化した津和野の現在からは、こうした鉱山開発の歴史は、消え去りつつある。しかし、当家の静かな佇まいの中で往時の様子を瞑想してみるのも良いと思う。


【笹ヶ谷銅山について】
鹿足郡日原町に所在する笹ヶ谷銅山は13世紀後半の弘安年間に開坑し、昭和に至るまでの長きに亘って採掘が続いた鉱山として知られ、石見銀山の一画を成していた。江戸時代には天領となり、元和3年(1617)に津和野藩が成立した以降も飛び地として天領に組み込まれていた。大久保長安が石見国に銀山奉行として赴任した際には、津和野城主吉見氏の下で堀与右衛門が鉱山経営に当たっていたが、長安は引き続き銅山師としての経営権を与え、以後、堀氏は鉱山経営と金融を家業として成長し、明治時代には「中国地方一の鉱山王」と称され、経済はもとより政治にまで巨大な権力を握ったといわれている。笹ヶ谷銅山の産出高については詳らかではないが、宝暦12年(1762)に大坂銅座に送られた荒銅高は40トン余りで、全国29銅山から送られた荒銅としては9番目の量を誇っていた。(吉川弘文館刊「出雲と石見銀山街道」より改訂抜粋)

 

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