亀井家住宅
Kamei



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無指定・公開 (亀井温故館)
島根県鹿足郡津和野町中座イ906

当住宅は江戸時代初期から明治維新に至るまでの225年間、津和野藩主の座にあった亀井家の別邸である。
現在は財団法人亀井温故館として、敷地内に新たに設けられた近代的な建物内で代々の重宝類や13代玆明公が明治中期のヨーロッパ歴訪中に収集した染織類の図案資料等を展示するとともに、併せて屋敷も公開している。但し、以前には年中公開していたと記憶しているが、最近では春秋の限られた期間のみとなっているので訪れるには注意が必要である。
さて屋敷地は、名峰・青野山の麓から流れ出る南谷川と津和野城下を縦断する津和野川の合流点脇の河岸段丘上の微高地に所在している。
そもそもこの辺りは津和野城下における武家屋敷街の一画にあたるはずであるが、そうした風情は今では全く失われ、また観光の中心が藩校養老館や町家が並ぶ本町界隈にあるため、現在では郊外化して、空地が目立つ少し寂しい場所になってしまっている。ただ訪れる観光客も疎らなため、運営する側には申し訳ないが、とても落ち着いた風情を味わえ、個人的には気持ちが和む、非常にいい環境にあると思っている。
もちろん屋敷そのものも大変素晴らしい風情である。大通りから脇道に少し入ると白壁の重厚な練塀が津和野川の岸辺にまで続いており、塀越しには石見地方に多く見られる赤瓦の大屋根が見える。藩公の屋敷としては、規模は決して大きくはないが、何となく、この一画だけが幽玄な雰囲気に包まれているように感じられる。
ところで冒頭に書いたとおり、当住宅は旧藩公の別邸とされている。であれば、本邸も残っているのかと思ってしまうが、そうではない。江戸時代、現在の津和野高校の校庭がある辺りに藩の御殿が建てられており、これを本邸と称しているのである。当然のことながら維新後の明治7年に御殿は取り壊され、現在では僅かに石垣を残すのみである。既に失われた屋敷を本邸と称するのは、津和野人の中に藩政期が未だ生きているからなのであろうか。何となく痺れるものがある。(御殿跡は国史跡に指定されている)
また、更なる事実として別邸である当住宅も実は藩政期には存在していなかったことを私は最近知った。実は明治33年(1900)に導火線工場を経営していた吉田三輔という実業家が建てた屋敷を、本邸御殿の破却により津和野における居所を失っていた亀井家が大正9年に購入したものだというのである。よって当住宅に対する呼称も正確には別邸と云う方が正しいのかどうなのか、頭の固い私にはもう何がどうなっているのか判らない。
ただ当住宅の由緒来歴がどうであれ、本当に素晴らしい屋敷である事実は紛れも無いことである。主屋は入母屋の破風を庭園側に向け、軒を深く取りながらも下屋を設けず一気に大屋根を葺き下ろすダイナミックな外観である。また梁間・桁行の双方向に奥行きがある重厚感溢れる姿は、豪快でありながらも、決して野暮なものではない。
内部については、床上部に上がることはできないが、縁側の外周りから中を窺うことができるように建具を開放してくれている。庭園に面して西から10畳の本座敷、10畳の次の間、6畳の控えの間と続く。特に奇を衒ったところはなく、オーソドックスな造作であるが、とにかく品の良い座敷である。この建物が建てられた当時の津和野は、奥津和野の鉱山師・堀家の離れ座敷・楽山荘が京の数寄屋大工の手により建てられた時期にも重なり、従来の山間の雪深い地域特有の剛健な建前とは異なる繊細な建築文化が花開いた時期とでも云えるのではないだろうか。とにかく一度は訪れる価値のある屋敷である。   (2011.4.23記)