森鴎外旧宅
Mori Ougai



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国指定史跡 (昭和44年10月29日指定)
島根県鹿足郡津和野町町田イ238
建築年代/江戸時代(嘉永6年以降)
用途区分/医家(津和野藩医)
指定範囲/主屋
公開状況/公開

当家は、云わずと知れた明治の文豪・森鴎外の生家である。
「舞姫」、「阿部一族」、「山椒大夫」などの名作を生み出す一方、陸軍の軍医総監として人身を極めた偉人である。
鴎外の本名は森林太郎。文久2年(1862)に当住宅で生まれ、明治5年(1872)に上京するまでの10年間をこの地で過ごした。森家は代々津和野藩の御典医の家系で、鴎外自身も医者になることが既定路線であったかのように、廃藩置県で父とともに上京した2年後の明治7年には年齢を偽ってわずか11歳で東京大学医学部予備門に入学、19歳で本科を卒業したのちは、陸軍の軍医となっている。最終的には45歳で軍医のトップである軍医総監・陸軍省医務局長を歴任することになるのであるが、まさに天賦の才に恵まれたが故の順風満帆な人生と形容するが相応しい立身振りである。しかしそんな鴎外の名を不朽のものとしたのは皮肉にも医者としての栄達ではなく、作家としての活躍にあった訳で、世の中、とかく何がどう幸いするか判らぬものである。結局のところ、歴史に名を刻むとは、人と競って1番になることによってではなく、人の及ばざるをもって成すことによってのみ、可能ならしむるということなのであろうか。いずれにせよ、凡人には及ぶどころか夢見ることさえ叶わぬようなレベルの話であることだけは確かである。
ところで当住宅は津和野川東岸の旧武家屋敷地の一画に所在している。旧武家地とはいえ、そもそもは下級武士の住した一画であったため屋敷割が細かく、かつ周囲の住宅は現代の安普請な家々に建て替わっているため、少し雑然とした雰囲気の中にある。鴎外が上京して翌年には家族も揃って移住したため、家屋は他家に譲渡・移転されるなどしたらしいが、戦後に元来の場所でもある現在地に戻されたという経緯がある。
さて、その生家についてであるが、規模はさほど大きくはない。当家の石高は知らぬが、屋敷の規模からして、御典医というのは、さほど身分の高い役柄ではなかったようである。武家住宅としての格式を顕すように玄関も大戸口とは別に設けられているが、畳半畳程の広さで式台も無く、小さな土間と上がり框だけから成る素朴なものである。現在は瓦葺に葺き替えられているが、建築当初は茅葺屋根であったという。しかし決して粗末な家というわけではなく、部屋数は5部屋程で全て畳敷きであるし、各部屋には暖を取るために囲炉裏まで設えてある。往時の一般庶民の住宅と比べると随分と贅沢な造作なのである。
ところで現在、当住宅の背後に鴎外記念館と云う立派な近代建築が建てられている。それはそれはお洒落でモダンな建物で、相当な費用を要したことが窺われる公共建築であるが、この建物のお陰で鴎外の生家が涙が出るほどにちっぽけなものに思えてしまう。残念なことにこの近代公共建築の存在は昔の生活を惨めなものに思わせてしまう効果があるようである。私個人としては生家の位置づけを見失わせるかのような記念館の存在に疑問を抱かざるを得ないが、果たして常世の国の鴎外先生はお喜びなのであろうか。