億岐家住宅 Oki |
国指定重要文化財 (平成4年1月21日指定) 島根県隠岐郡隠岐の島町下西713 建築年代/享和元年(1801) 用途区分/社家(玉若酢命神社宮司) 指定範囲/主屋 (神社本殿・随神門と共に指定) 公開状況/外観のみ公開 島根半島の突端に所在する湊町・美保関は商売の神様として崇められる恵比寿神(事代主神)を祀る美保神社が鎮座することで全国的にその名が知られる土地柄である。海上交通の要地であったことは立地条件から容易に想像が付くところで、地名に「関」と附されていることからも判るとおり、中世において此の地は海の関所として機能していた。それでは一体何処に行くための関所だったのか。広大な日本海を行き交う船舶を取り締り、関銭を徴収することなどは甚だ難しい。実は専ら隠岐島との舟運に対してのものであったとの見方がある。隠岐から本土に渡る舟便には美保関で関銭を必ず支払う必要があったと推察されているのだ。隠岐は島根半島の北方50km程の海上に浮かぶ大小180余の島々から成る群島で、大きく島前、島後に分かれている。現在、隠岐島に渡るには美保関町の七類港から高速船を利用するが、嘗て明治・大正・昭和の時代には鳥取県の境港からが主流であった。ならば本来、隠岐は鳥取県との結びつきが強かったはずと思うところだが、藩政期の隠岐は天領地であったにも関わらず、期中の大半を松江藩の預かり地として松平家の支配を受けた。それは更に遡れば隠岐島への玄関口が美保関にあった故である。実際、一時期において隠岐は鳥取県に編入されたこともあったが、明治期のどさくさに島根県に再編入されている。いつの世でも変わらないことだが、島嶼部の帰属は甚だ移ろい易く不安定なものなのだ。 ところで隠岐を深く知るには、明治維新直後に発生した隠岐騒動に触れずにはおれない。外国船が日本海沿岸に出没し始めた江戸末期において国学と儒学を学んだ上層農民階級は攘夷思想へと傾倒していったことは知られるところだが、隠岐においても外国船の来航に無策な松江藩に業を煮やした島民の間に自力防衛を唱える運動が俄に勃発することになる。当然彼らの動きを抑え込もうとした佐幕派の松江藩との間に摩擦が生じ、京都の新政府を巻き込んだ独立運動へと展開していくことになっていくのだが、一時には松江藩の郡代を退島せしめ自治政府まで組織するにまで至るのである。しかし明治新政府の軽率とも取れる方針転換によって彼らの大義に対する評価は二転三転し、自治政府は僅か81日間という短く儚い夢に潰える。隠岐は古代において一島一国の独立国家であった。しかしその自尊心は長い歴史の中で、いつの時代にも虐げられ、翻弄され続けてきた。中央政府からは常に辺境の地として扱われ、且つその扱いは驚くほどに軽かったと云えるだろう。 さて本題に移って億岐家住宅である。住宅が所在する隠岐の島町は島後に属し、島後の玄関口である西郷港から少しばかり内陸に入った西側丘陵地に鎮座する玉若酢命神社境内に隣接して屋敷を構えている。玉若酢命神社は延喜式神名帳にも名を連ね、隠岐開拓の祖神とされる「若酢命」を祀る古社である。創祀は古代まで遡るとされ、平安中期以降は惣社として位置付けられている。境内には樹齢2000年を超える八百杉が神木として正面に立ち、社殿脇の土手には奈良時代以前の古墳が点在、寛政5年(1793)造営の大社造の影響を受けた本殿横には渾々と泉が湧く。これほどまでに古代からの深い由緒を今に顕す神社も珍しい。億岐家はその玉若酢命神社の宮司を代々務めてきた家柄で、奈良時代に隠岐を支配した国造家の流れを汲むとされている。そもそも国造の職とは古代国家において祭政を司る役であり、隠岐国造は隠岐一国を束ねた、地域における最高官であった。大化の新政において国造県主制は廃止され、代わって国司郡司が置かれるようになると、従来の国造は惣社の神官として世襲される例が多かったという。出雲大社の北島家、千家の両国造や阿蘇神社の阿蘇国造なども同様の例である。ちなみに律令の時代に駅馬制度が確立され、各駅で馬を乗り継ぐ際に公用であることを証明するため駅鈴というものが用いられたが、当家にはこの駅鈴2口が日本で唯一伝え残されている。こうした古代からの歴史が今の世にも伝え続けられていることが隠岐の凄みである。(ちなみに隠岐国駅鈴や隠伎倉印は住宅に隣接する保管施設で見学可能) 住宅については、単層茅葺入母屋造の平入建物である。屋根は船枻造の軒天井を四周に廻らせた上層民家の建前。隠岐の農家建築には隠岐造と称される独特の民家的特徴があるとされているが、当住宅の場合も、この隠岐造の特徴を端的に備えている。具体的には①入口が複数個所あること。(当住宅の場合は大戸口、下玄関、上玄関の3箇所を備えている) ②鍵座敷を有すること。(当住宅の場合は、土間から床上部に上がると槍の間、中の間、次の間と上手に向かって一直線に進み、そこから矩折れた奥に上の間が配置されている) ③土台を外周に回すこと。(外観から判別できる限りでは少なくとも主屋前回りにおいては礎石上に土台の存在は確認できる) ④屋根は茅葺あるいは杉皮葺である。(当住宅は茅葺である)といったものである。 但し、当住宅の場合は隠岐造の特徴に止まらず、神官屋敷としての体裁も随所に確認される。例えば、上の間、次の間の正面に上玄関を備える現状に対して、当初は次の間は6畳の次の間と4畳の玄関の間の2室に分かれ、鍵状の座敷配置を意図したというよりも本玄関からの直線的な導線を意識した間取りであったらしいが、これは座敷としての独立性を高めることで次の間に隣接する中の間を神事に用い易くした造作と考えられる。また大戸口から入った下手の隅には農家建築には絶対に無い禊部屋を設けている。しかし何よりも感じるのは、主屋全体に漂う品格の高さである。隠岐島内には同様に国重文指定される庄屋階層の佐々木家住宅が残されており、間取りも近似するものであるが、主屋が醸す風情は全く異なるものである。畏れ多いという類ではないが、当住宅には神聖にして侵してはならない何かを感じる。実は前述した隠岐騒動の思想的背景に当家が深く関わっていたということは知られた事実であり、幕末の隠岐における国学思想の師であり、故に騒動の自治政府樹立時の最高会議体であった「会議所」の長老メンバーであったこともその証左である。古代から連綿と続く由緒に加えて、島の開拓神を祀り続け、島民に対する学問・思想を主導してきたという歴史的事実に、島柄を作ってきたという自負が屋敷にも顕れているような気がしてならないのである。当家の存在は隠岐そのものの様である。隠岐は実に面白い。(2022.3.17記述) 【参考文献】吉川弘文館「街道の日本史37 鳥取・米子と隠岐」/第一法規「月間文化財 平成4年2月号」/隠岐の島町教育委員会「隠岐の文化財 第22号」/億岐家発行「隠岐国駅鈴倉印の由来」/INAX ALBUM26「中国地方住まい」 |
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