山﨑家住宅
Yamasaki



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邑南町指定有形文化財 (平成10年4月17日指定)
島根県邑智郡邑南町日貫3327
建築年代/安永8年(1779)
用途区分/大庄屋・銀行業
指定範囲/主屋・廊下2棟・蔵2棟
公開状況/外観は自由
民家を長年訪ね歩いていると、意外な場所に意外な民家が残されていることがある。日貫集落を初めて訪れた際に偶然出逢った当住宅もその一つである。確か石見大森銀山遺跡が世界遺産に認定される以前だったと記憶しているが、既に重伝建に選定されていたその町並を訪ねた際に中国自動車道の戸河内ICを降り、山間ルートで北東方面に向かって邑知町(当時)に抜けようと車を走らせていた時であった。集落外れの山の端に大振りで急傾斜の茅葺屋根を戴く大民家がひっそりと佇んでいた。「凄い民家を見つけてしまった」と興奮を抑えきれず、カメラを構えながら家の周囲を走り回ったことを今でも覚えている。日貫集落は中国山地の僅かに拓けた小盆地に在り、広い耕地など確保しようも無いような土地柄に見受けられるが、何故にこのような巨大な民家が山間辺鄙なこの場所に建ち得たのか。確かに国内にはこのような民家が少なからず残っている。石川県の白峰集落の旧杉原家住宅、愛媛県野村町惣川の旧土居家住宅など・・・。ただ、いずれにおいても一般農家との極端なまでの住宅規模の差について明確な理由は不明である。中世土豪の系譜を引くような古い家柄を有する場合には、まるで陣屋建築のような屋敷構えの事例が無い訳ではないが、そのような歴史を残す地域は限られる。想像するに日清日露戦争後に過大な税負担を強いられ国民が喘いでいた時期にこそ農地の集約化が進んで巨大地主が出現したように、物成りが乏しい土地柄では、富の集積が極端に進む傾向があるのかもしれない。村落毎の米収量と庄屋層の住宅規模の相関関係を調べれば、その理由など簡単に判りそうなものであるが、庄屋階層といえども多くの家々が失われてしまった現在においては、既に研究テーマとしては手遅れなのかもしれない。
話が大きく逸れた。話を本題に戻して山﨑家のことである。当家の祖は中国地方の戦国大名として名を馳せた大内家の家臣・山﨑勘解由の末裔と伝えられ、藩政期に至っては津和野藩領であった日貫村の庄屋を代々世襲したとのことであるが、記録としては明暦元年(1655)の4代・五郎右衛門が庄屋としての初見となる。ただ、津和野藩の記録として藩内の庄屋に関わる正式な文書は残されていないらしく、地元の方が書かれた冊子には、「詳しい由緒は不明であるが桜江から紙売りとして来村したと伝わっている」と記述されている。日貫村は津和野城下からは直線距離でも70km以上離れた飛び地領で、当初は在町として日貫代官支配を受けた。しかし寛政3年(1791)に代官所が廃止されて以降は、日貫組10ヶ村の取締りは大庄屋職に委ねられることになったはずで、その筆頭集落である日貫村庄屋という立場であった当家がその役を担った可能性は限りなく高いのではないかと思われるが、これも定かでない。また日貫集落は津和野奥筋街道の終点地でもあり、周囲は浜田藩領に囲まれるという特殊な位置関係にあったことからも、大きな権限と責任を負っていた可能性も考えられる。近代に至って第14代当主の重樹氏は明治18年(1885)に山陰地方で最初の普通銀行として設立された濱田銀行(現・山陰合同銀行)創設時の設立発起人であり、取締役にも名を連ね、頭取をも務めているが、その背景としてこの頃には山陰地方屈指の大地主に成長を遂げていたと推測される。大正年間発行の高額納税一覧中においても県内十指に挙がっており、昭和21年の農地解放時には141町歩の田、83町歩の畑を所有、関係小作戸数は450戸を数え、県下第6位の大地主となっている。(島根県農地改革誌) また山林の所有面積では県内3位に名を連ねていたとのことである。ただ、くどいようだが注目すべき点は、恐らく近代に至って家産を大きく伸展させたに違いはないが、あくまで住宅の建造は江戸中期のことであり、代官支配を受けていた時期に建てられた一介の庄屋層の住宅建築としては常識を覆す程に巨大なものだという事実である。
さて住宅の建造は、正確には棟札から安永8年(1779)であることが判明しており、安永5年(1776)の日貫大火により集落中心部(日貫診療所跡付近)に所在していた前身建物が焼失したため、集落とは川を隔てた現在地に移転したようである。その際に描かれた板図には「棟梁大工 銀山料 川登兵七」とあり、専門職の大工の手による建築であることが判明している。ちなみに昭和3年(1928)に撮影された当住宅の写真が残されているが、そこには主屋前に大蔵や表門が建ち、白漆喰の練塀が廻らされ、屋敷前を流れる日貫川には専用の木橋が架されている様子が写っている。これらは昭和58年(1983)の大雨により流失することになってしまうのだが、往時の屋敷の様子は現在よりも格段に素晴らしいものであったことが判る。当住宅の特徴として、まず一番に目に付くのは大屋根の茅面を兜状に切り落として段葺きにしている様子であろう。このような造作は、現存の民家としては類例が無く、極めて貴重なものである。町が発行する冊子には「庄屋としての格式を表しているものと思われます」と記述されている。恐らく段葺き自体は積雪のある地域ゆえに水が漏り易い大棟周辺は厚葺きにして、そのまま葺き下ろすと軒端では膨大な茅が必要になるために段落ちさせて薄く葺いたものと思われるが、兜状にした理由は合理的な説明が付き難く、確かに不思議ではある。ただ、狐格子の破風や大棟の15筋の茅負の棟飾りなど明らかに庄屋としての格式を誇示する要素が屋根の随所に込められていることは確かである。一方、主屋内部においては整型九間取を基調とする。各部屋の造作に関しては古い建築年を反映して至って簡素であるが、旧家としての格式も土間部を除いた床上部においては余り演出されていない。表座敷でさえも面皮付きの粗末な長押を用いており、唯一凝った造りは床と違い棚の境壁に設けられた彫刻付きの狆潜りぐらいである。棹縁天井の天板には幅の狭い雑材を張っているが、一方、座敷を廻る縁側には上質な欅の厚板材を用いるなど非常にちぐはぐな要素が混在しているので、時代を経る中で随所に改造が加えられた可能性もある。しかし例え時代が変遷する中にあっても、通底するものとして家作において贅を忌み嫌った観があるように思える。前述の通り、屋敷内の表構えを成す建築群は豪雨水害のために失われたものの、それでも主屋を筆頭に裏手には米蔵や内蔵、井戸屋形、奥座敷などの建築群が残り、未だ大家としての風格は疑いないものである。(2022.3.2記述)

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