櫻井家住宅
Sakurai



 
国指定重要文化財 (平成15年5月30日指定)
島根県指定文化財 (平成9年12月26日指定)
国指定名勝 (平成29年10月13日指定) 【庭園】
島根県仁多郡奥出雲町上阿井内谷1655
建築年代/元文3年(1738)
用途区分/鉄師頭取・大地主
指定範囲/【国指定部分】主屋・後座敷・釜屋・文久土蔵・古蔵・東土蔵・西新土蔵・南ノ新土蔵・厩/【県指定部分】主屋後座敷間廊下・茶亭・前座敷・一丈庵・土蔵・物置4棟・作業場2棟・便所・塀・鎮守神社・敷地
公開状況/公開(冬季は閉鎖)
宮崎駿監督のアニメ映画「もののけ姫」ですっかり有名になった「鑪製鉄」。輸入した鉄鉱石を高炉によって精錬する近代的な製鉄技術が確立する以前の時代において用いられた日本独自の製鉄方法である。花崗岩が風化した真砂土に含まれる砂鉄成分を鉄穴流しによって比重差を利用して集め、粘土で風呂状に半地下式の炉床を造り、そこに木炭と砂鉄を交互に敷き入れ、天秤鞴によって風を送り続けて火を熾し、鋼や銑、ヒなどの鉄分を取り出す。現在でも日本刀などに使用される鋼材は、「鑪で取り出した鋼でないと駄目だ」という鍛冶師もいるようで、近代製鉄法では産み出し得ない何か不思議な作用が働くようだ。映画で描かれた世界が架空の出来事であることは明白であるが、物語に底流する「戦に必要な武器を作るために人間は太古の森を切り拓き、製鉄に勤しんだ」ことは大いなる事実であろう。ただ、戦国の世が過ぎ、幕藩体制下の平和な時代が訪れても鉄の需要は止まることはなく、ありとあらゆる分野に亘って鉄は使われ続けた。「鉄ほど加工し易い素材はない」と鉄工所勤めの職人気質溢れる知人は話すが、弥生時代に鉄が朝鮮半島からもたらされてから幾星霜の年月が過ぎようとも、人々にとって鉄は何時の世においても必需品であり続けた。しかし、これほどまでに必要不可欠な物質であるにも関わらず、鉄を産することは膨大な資源と労力を要する甚だ難しい事業であった。それは映画が描くとおり、交通不便な山深い地で、膨大な森林資源を消費し、多くの労働力を酷使してようやく得ることができる宿命的な産業であったが故である。現代に生きる我々日本人が鑪製鉄に浪漫を感じるとすれば、それは自然の恩恵を受けながらも、一方で血と汗が滲むような過酷な労働無くしては成立し得ない世界がそこに拡がっていたことを想像するからに違いない。
ところで、近世から近代に至るまでの間、鑪製鉄を利用した鉄生産の中心地は中国地方であった。特に島根県は明治中期に至るまでは全国生産高の約半分を占める程で、仁多・大原・能義・飯石四郡の出雲地方に加え、邑智・那賀・美濃・邇摩・安濃五郡の石見地方も含めた広い地域に鉄師と称される大小の製鉄業者が事業を展開した。特に近世初期においては野鑪や地下構造の未熟な鑪を利用した規模の小さな製鉄方法が主であったため、中世から続く乱世が漸く治まりつつあった時代背景下においても、一獲千金を夢見て新たに製鉄業に参入する者たちが引きも切らず、事業者が乱立する不安定な経営が続いたようである。後の世に飯石郡吉田村の田部家、仁多郡横田村の絲原家と共に奥出雲の三大鉄師と称された櫻井家が製鉄業に参入したのも、このような時期のことであった。
当家は軍記物語「難波戦記」で知られる戦国武将・塙団右衛門直之の末裔と伝える。直之が大坂夏の陣の樫井畷合戦により討ち死にした後は、その嫡男・直胤が母方の姓を継いで櫻井を名乗り、広島藩主であった福島正則に仕えたとされるが、元和5年(1619)に広島城の無断修築を口実に同家が改易されると、広島郊外の可部に移り、更にその後は安芸国高野山村に住したとのことである。正保元年(1644)に第3代三郎左衛門直重が真砂砂鉄脈を出雲国上阿井村呑谷に見つけて移り住むと、地元住人から鉄山経営に必要となる人足、道具類を譲り受け「可部屋」を屋号として本格的に鉄山業を営むようになったとのことである。当家に残る「山田畑家屋敷鉄穴買申目録」は正保元年から元禄13年(1700)までの購入家督を書き上げた文書であるが、これには幾度にも亘り周辺の鉄山のみならず田畑、家屋敷、鉄穴などを購入した経緯が記されており、急激に事業が膨張する様を明らかにしている。しかし家産を拡大する当家とは裏腹の関係として競争に敗れ資産を売却して没落していく多くの鉄師達の存在があったことは容易に想像される。先述のように鑪製鉄が未熟な段階では、製鉄業は浮沈の激しい博打的な生業であったと云わざるを得ない状況にあったのである。
さて当家が現在の居住地である上阿井村内谷に主屋を構えたのは元文3年(1738)の事とされている。屋敷内には主屋竣工以前の享保20年(1735)建築の古蔵が残されており、以前から鍛冶場を当所に置いていたことが窺えるが、桁行27m、梁間19mにも及ぶ大規模な主屋の建築は、それまで鑪場の移動と共に鍛冶場も転々とさせてきた操業形態を改め、此の地を鍛冶場の拠点に定めるとともに居宅として定住化したことを物語っている。そして何よりも、これほどの大屋敷を構えるに至った背景には、それまで不安定な経営を強いられてきた鑪製鉄業が享保11年(1726)に松江藩によって発布された「鉄方法式」、すなわち鑪場、鍛冶場、鉄穴場の数に上限を定め、これを株化(権利化)して、その株を有する株仲間のみが操業を許されるという掟が定められたことがある。これにより特定の鉄師のみが藩の制約を受けるとはいえ操業を許され、多数の小規模な鉄師が乱立する状態を脱し、ある程度の規模を伴った安定的な経営を行うことが可能になったのである。しかし、ここで面白いのは経営の安定化が鑪製鉄の技術的進歩を大いに促した点である。先の映画「もののけ姫」では高殿を築いて大勢の人夫達が鞴を踏んで鑪に風を送る様子が描かれているが、こうした姿は鉄方法式が取られるようになった江戸中期以降の話なのである。製鉄業への参入が自由だった時代には鑪の数ばかりが増える方向に作用した力が、鉄方法式により数の制約を受けると、技術改良を伴って鑪の規模を拡大する方向に向けられることになったのである。当家はこれ以降、更に事業の拡大に拍車がかかり、宝暦5年(1755)に初めて鉄師株仲間の代表である鉄師頭取に任ぜられることになるのだが、享和3年(1803)に松江藩7代治郷公の紅葉上覧に始まり歴代藩主の来駕が6度にも及んだという事実からも推察されるように、鑪製鉄という本来は土俗的な世界で展開されていた事象が、政治と密接に関わることで不自然なまでの存在感を帯びるようになるのである。
少々前置きが長くなったようである。住宅のことである。現在、当家が屋敷を構える上阿井村内谷は、国道から脇に入った谷筋の小集落で、里人自身に教えられなければ決して知られることの無いような隠れ里と形容するに相応しい場所である。ただ集落と云っても当家の事業に関わる者達ばかりが集住した「山内」と呼ばれる形態で、全てが当家の為にあるといっても差し支えないような独特な風情を醸している。主屋や座敷、数多くの土蔵が建ち並ぶ屋敷は斐伊川の支流、内谷川の北岸に山林を背にしており、石垣を築き土地を一段高く造成して平地を辛うじて確保する。谷筋全体が当家のためにあるような空間なので、屋敷内には谷奥へと続く通路が通っており、主屋への導線は至極開放的である。主屋は先述の通り大規模な建前で、国道側の下手には広大な土間が拡がるばかりでなく大戸口脇の隅には勘定場が設えられ、大勢の使用人達が常に出入りしていたであろう往時の様子を想起させてくれる。谷奥側の上手床上部には2列に各3室の計6室が配されるが、土間側列の玄関、居間と称される部屋はそれぞれが12畳敷の広々とした空間である。土間境の大黒柱や大梁の架構の見事さは森林資源の豊富な土地柄だけに云うまでもない。また主屋の南東隅には藩主御成に合わせて増築された19世紀初期建築の座敷が附属する。座敷は上ノ間と次ノ間の2室から成り、面皮柱や丸太の内法長押を用いた数寄屋風意匠を基調とするが、流石に藩主のために設えられた空間だけあって格式と粋が良い塩梅に混じる素晴らしい建前である。この座敷の縁からは東に岩盤を穿って斜面を作り、自然の岩肌を伝い落ちる瀑布の様を演出した池泉庭園を眺めることができる。また南に目をやれば、屋敷前を流れる内谷川を挟んだ小高い丘の樹木を掃って丸坊主の芝生広場を作り、そこに灯籠を置いて丘全体を奈良の若草山のような借景として取り込んでいる。その発想の大きさに驚かされるが、逆にこの小高い丘から屋敷側を眺めれば、沢山の建物群が所狭しと並び、まるで町場の様で、実に面白い。
さて松江藩による鉄方法式という保護政策により隆盛を極めた鑪製鉄業は、その異様なまでの存在感から幕府に目を付けられたのは至極当然の成り行きであった。安永9年(1780)に時の老中・田沼意次により鉄座が設置されると、鉄を素材とする諸商品の円滑な流通という大義名分の下、鉄の売買価格は鉄座によって取り仕切られることになる。これは奥出雲地域の鉄師達にとっては実質的な値下げを意味し、当家においても鉄山2箇所を手放すなど苦難の時代を強いられることになる。江戸時代は戦もなく、万事が穏やかに過ぎた時代だと思われがちであるが、実際には時の為政者たちの意向で浮沈を繰り返すこともあったようである。「世の中はいつも変わっている」と謳った中島みゆきの「世情」の歌詞ではないが、田沼失脚後の翌年には鉄座は廃止され、庶民の暮らし向きを守るべきはずの政策は元の木阿弥となる。正に「頑固者だけが悲しい思いをした」だけのことであったのかもしれない。鉄座の廃止は天明7年(1787)のことであったが、それ以降の20数年間は鉄の価格は安定せず、しばらく鉄師達の窮状は続いたようである。しかしこれを乗り切った当家は徐々に家督を再拡大し、幕末の万延元年(1860)の家督書出帳によれば、田畑(懸米)503石に加え、山林、酒場2ヶ所、町屋敷4ヶ所など総資産は銀4423貫文に及んでいる。寛政9年(1797)時の家督、銀794貫文と比較すると実に約5.6培にまで事業を拡大させているのだ。
最後に、明治維新後の事にも触れておこう。冒頭に記述したとおり、鑪製鉄は鎖国が解かれ欧米から高炉による近代製鉄法が導入されると価格競争の波に晒され、急速に衰えていく。明治新政府による富国強兵策が取られている間は、鉄の需要も旺盛で何とか持ちこたえられたものの、第一次世界大戦終結後の大正年間には経営困難により廃業していく者が跡を絶たない状況になった。当家においても同様で、明治中期には既に鉄山稼高よりも山林や耕地、宅地からの地方収入が大きく上回る状況になっている。。鉄穴流しや鑪操業には多くの人足を必要とし彼らが食する飯米を調達するために田畑を保有、また鑪の熱源となる木炭を調達するために山林を所有し、出来上がった製品鉄を積出港まで運搬するために牛馬を肥育してきた、いわゆる自己完結型の経営手法が、それぞれにおいて鑪製鉄との結びつきから解かれ、自立への道を歩み出すことになったのである。近代において当家は広大な田畑と山林を所有する大地主であり、木炭製造業者、畜産業者として複合的な経営を志向していく。不撓不屈の精神とはこの事であろう。櫻井家住宅は、近世の鑪製鉄の隆盛を今に伝える遺産でありながらも、屋敷内に残る土蔵4棟は明治以降、前座敷については昭和15年の建築である。実は鑪製鉄以降の時代においても、変わりゆく時代を生き抜いてきた証を今に伝えているのである。(2022.4.2記述)

【参考文献】島根県仁多町教育委員会「櫻井家住宅調査報告書/」吉川弘文館「出雲と石見銀山街道」/第一法規「月間文化財 平成15年7月号」/未来社「宮本常一著作集29中国風土記」/藤間亨著「出雲の御本陣」

一覧のページに戻る