北海道の民家

中村家住宅 国指定重要文化財 (昭和46年12月28日指定)
北海道檜山郡江差町中歌町22
建築年代/明治22年(1889)
用途区分/商家(海産問屋・廻船業)
指定範囲/主屋・文庫倉・下ノ倉
公開状況/公開
北前船の終着湊として名高い江差の町は、藩政期には松前藩の商業都市として栄えた土地である。江差以北の物資は全て此処に集められ、また幕末に至っては鰊漁の隆盛により「江差の五月は江戸にもない」と謳われる程であった。当住宅は海産物問屋や廻船業を営んだ近江商人の大橋宇兵衛が建てたと伝えられる商家建築であったが、鰊漁が衰退した大正期に大橋家の支配人の地位にあった中村米吉が建物と営業を譲り受けたとのことである。海に向かって緩やかに傾斜する敷地に、一列に建物を段違いに配し、これを主屋の土間から続く通り庭で結ぶ様は妙である。
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下ヨイチ運上家 国指定重要文化財 (昭和46年12月28日指定)
国指定史跡 (昭和48年7月31日指定)
北海道余市郡余市町入舟町10
建築年代/嘉永6年(1853)改築
用途区分/運上家(アイヌ人と和人の交易施設)
指定範囲/主屋
公開状況/公開
嘗ては米作が成立しない土地柄ゆえに無高であった松前藩はアイヌ人との交易に経済的基盤を依拠した。その実質的な担い手は場所請負人に定められた商人達で、彼らは交易のみならず漁場経営、駅逓、アイヌ人の撫育などの業務をも同時に行った。運上家は彼ら商人達が各々の請負場所に建てた活動拠点で、往時は松前藩領内に78ヶ所程もあったとされるが、廃藩置県後に破却が相次ぎ、唯一の現存例が当住宅である。桁行34m、梁間14.7mに及ぶ巨大な建築で、下手は運上業務を執る板間、上手は格式高い座敷となっている。明治以降に開拓が進んだ北海道にとって、藩政期の歴史を伝える建物は貴重な存在である。
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三戸部家住宅 国指定重要文化財 (昭和46年12月28日指定)
北海道伊達市梅本町61-2 (移築)
旧所在地・北海道伊達市萩原
建築年代/明治5年(1872)
用途区分/開拓農家
指定範囲/主屋
公開状況/公開 【伊達市開拓記念館内】
内浦湾を西に臨む伊達市一帯は、戊辰戦争に敗れた仙台支藩の亘理藩伊達家の家臣・領民が入植し拓かれた土地である。明治3年〜14年までの間に移住者は約2700人にも及んだとのこと。当住宅は明治5年の入植時に建てられた現存最古の開拓農家建築で、現在は開拓記念公園内に移築・保存されている。桁行5間、梁間3間半の小振りな建物で、内部は土間と板敷きの2部屋から成る。官営の屯田兵屋とほぼ同規模ではあるが、茅葺屋根に土壁を多用する建前は、近世民家の系譜に連なるものである。僅か1〜2年後にはトラス小屋組で板壁・板葺きの洋式屯田兵屋が建てられ始めるが、当住宅は官営開拓の進取の気質を却って思い知らせてくれる存在である。
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笹浪家住宅 国指定重要文化財 (平成4年1月21日指定)
北海道檜山郡上ノ国町字上ノ国236
建築年代/江戸期(19世紀前半)
用途区分/漁家・荒物小間物販売・海産業・名主
指定範囲/主屋・土蔵・米蔵・文庫蔵
公開状況/公開
渡島半島の西岸、北前船の終着点の江差町南方に位置する上ノ国町は、北海道発祥の地と云われ、道内では最も長い歴史を紡ぐ場所である。特に上ノ国八幡宮が所在する一帯は、背後に中世の城址も残り、その中心地であったと推測されるが、当家はその参道脇に所在する漁家住宅である。初代の久右衛門は江戸中期の享保年間に能登国笹浪村から移住、その後に代を重ねるにつれ家産を増し、江戸末期には苗字帯刀、御目見得を免される程に成長する。明治初期には「全道中の漁家の旧家」と謳われた程の存在だったという。
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花田家番屋 国指定重要文化財 (昭和46年12月28日指定)
北海道留萌郡小平町鬼鹿広富35-2
建築年代/明治38年(1905)
用途区分/漁家番屋
指定範囲/番屋
公開状況/公開
札幌から稚内へ日本海沿いに北上する国道231号線のちょうど中間地の小平町に所在する番屋建築である。番屋とは鰊漁網元住宅の総称で、網元家族の生活の場であると共に鰊漁に従事する季節雇いの漁夫が寝食する場でもあった。当家が道南の福島から当地に移住し鰊漁を始めたのは明治4年のことで、最盛期には18ヵ統の漁場を経営したという。住宅は明治中期に分家した花田伝作により建てられたもので、桁行39.4m、梁間22.7mに及ぶ巨大民家は北海道という土地にこそ相応しい存在である。
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相馬家住宅 国指定重要文化財指定 (平成30年12月25日指定)
北海道函館市元町33-2
建築年代/明治41年(1908)
用途区分/商家本宅(米穀商・金融業)
指定範囲/主屋・土蔵
公開状況/公開(但し1〜2月は休館) 
函館湾を臨む元町地区の高台に所在する商家本宅である。建築主であった相馬哲平氏は越後の出身で、28歳で函館に渡り商家奉公した後、自ら米穀業を開業、幕末の函館戦争時の混乱に乗じて米相場で財を成した後、金融業に転身、北海道随一の豪商にまで成った人物である。氏は函館を代表する洋館建築の函館区公会堂の建築費用の大半を寄付したことでも知られるが、自らの住宅は決して華美・豪壮なものではなく、その分限からすればむしろ質素と云えるものである。その生き様に感服である。
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太刀川家住宅 国指定重要文化財 (昭和46年12月28日指定)
北海道函館市弁天町15-28
建築年代/明治33年(1900)
用途区分/商家(回船問屋・米穀商・倉庫業)
指定範囲/店舗棟
公開状況/飲食店として活用中
幕末の日米修好通商条約締結により下田と共に開港した函館の旧荷揚場近くに所在する和洋折衷の商家建築である。当家は越後長岡の出身で幕末に北海道に渡り回船問屋を営み、明治中期からは米穀商、倉庫業にも進出、函館屈指の豪商として活躍したという。住宅は煉瓦積の壁体を漆喰で塗り籠めたもので、小屋組や床組などは木造である。往時の函館は度重なる大火に見舞われており防火性を意識した建前となっているが、単なる土蔵造とせず、上手く洋風意匠を採り入れたお洒落な佇まいとなっている。
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本間家住宅 国指定重要文化財 (平成15年12月25日指定)
北海道増毛郡増毛町弁天町1-27
建築年代/明治35年(1902)
用途区分/商家(荒物雑貨商・呉服商・海運業・酒造業)
指定範囲/主屋・店舗・附属屋・呉服蔵・醸造蔵
公開状況/公開(冬季休館)
日本海オロロンラインと別称される国道231号線を北上、留萌の手前にある増毛町中心部に所在する商家建築である。当家初代の本間泰蔵は佐渡出身で、明治8年に若干26歳で荒物雑貨呉服商を始めると鰊漁の好況に乗り次々と事業を拡大。酒造業、海運業、漁業にも進出し、一代で道北屈指の豪商となった立志伝中の人物である。街路に南面する店舗棟は北海道で発達した木骨石造で重厚感に溢れる逸品である。背後に続く主屋と同様に内部は和風を基調としながらも随所に洋風の意匠が施されている。
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福原家住宅 国指定史跡 (昭和57年2月12日指定)
北海道余市郡余市町浜中町150
建築年代/大正5年
用途区分/漁場経営
残存建物/主屋・文書庫・米味噌倉・網倉・厠
公開状況/公開(冬季休館)
小樽市の東方、ニッカウヰスキーの工場があることで知られる余市町の海岸沿いに所在する鰊漁場建築群である。余市は江戸時代から鰊漁が盛んな千石場所として知られ、往時の当家も上ノ国町から出稼ぎで鰊取をしていたが、明治初頭の場所請負制の廃止により漁場の経営権を得て当地に定住、4ヶ統の鰊建網を保有したという。史跡指定面積1.5haの広大な敷地に主屋を中心に鰊漁に関わる倉群が点在するが、米味噌倉や網倉を火災が懸念される主屋から最も離れた場所に配するは深謀遠慮である。
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佐賀家住宅 国指定史跡 (平成9年3月11日指定)
北海道留萌市礼受13番地
建築年代/明治前期(推定)
用途区分/漁場経営
残存建物/番屋・廊下・トタ蔵・船倉・網倉・稲荷社
公開状況/非公開 【旧留萌佐賀家漁場】
留萌の中心市街から少し南に下った海岸沿いに所在する鰊漁家建築群である。国道231号線を挟んだ広大な敷地には番屋を筆頭にトタ蔵、船倉など鰊漁に関連した建物が点在すると共に、干し場や船着き場等の作業場も手つかずに残されており、在りし日の漁場の風情を今に伝えている。当家は青森県下北半島の出身で、幕末の弘化元年(1844)には既に当地で漁場を開いたとされ、明治中期には鰊建網を12ヶ統も経営した有力漁家であったという。番屋の前で鰊が群来る時をじっと待ってみたくなる風情である。
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旧島松駅逓所 国指定史跡 (昭和59年7月25日指定)
北海道北広島市島松1-1
建築年代/明治6年(1873)
用途区分/農家・駅逓
残存建物/主屋・
公開状況/公開
駅逓所とは幕末から昭和22年の制度廃止に至るまでの北海道開拓期において、交通不便の地に駅舎と人馬を置き、旅行者の宿泊や物資の運搬の便を図った施設である。当住宅は札幌と函館を結ぶ札幌本道沿いの島松地区に設置された駅逓所であるが、そもそもは寒地稲作に成功し「石狩水田の祖」と称された中山久蔵氏が明治6年に建てた自邸であった。明治14年の明治天皇北海道巡幸に際しては昼行在所に充てられた住宅は、同17年に久蔵氏が駅逓取扱に任命された事に伴い駅逓所となったという。
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琴似屯田兵屋 国指定史跡 (昭和57年5月7日指定)
北海道札幌市西区琴似2条5丁目
建築年代/明治7年(1874)
用途区分/屯田兵
指定範囲/主屋
公開状況/公開
それまで沿岸部が中心であった蝦夷地開拓が内陸部へ及ぶに至り、その中心的な役割を果たしたのは屯田兵と呼ばれる旧士族達であった。明治7年に開拓使が道内最初の屯田兵入植地としたのが札幌市北郊の琴似一帯で、当住宅はその際に建てられた兵屋208戸のうちの一戸で第133号兵屋として宮城県亘理郡出身の清野専次郎に与えられたものである。碁盤目状に区画された150坪程の敷地に建つ兵屋は規格化された17坪半の小規模な建物ながら当時の先進技術であった洋小屋組を採用している。
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小納家住宅  北海道指定文化財 (昭和54年11月27日指定)
羽幌町指定文化財 (昭和52年12月19日指定)
北海道苫前郡羽幌町焼尻字東浜183
建築年代/明治33年(1900)
用途区分/漁業・商業(呉服、雑貨商・郵便局)
指定範囲/主屋
公開状況/公開 【焼尻郷土館】
道北の羽幌港から高速船で35分程の日本海に浮かぶ焼尻島に所在する商家建築である。住宅は船が到着する焼尻港を見下ろす高台に在り、鈍く銀色に光る亜鉛トタン葺の屋根に鉾状の屋根飾りを棟の両端に載せた洋風建築は一際に存在感を放っている。当家は石川県塩屋村から明治17年に移住し、当初は海産物の買付や雑貨の販売を手掛ける程度であったが、後には鰊漁場経営、郵便電信業務をも担ったという。離島における生活の便宜を一手に担った商家の在り様を、この建物は伝えてくれている。
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田中家住宅 北海道指定文化財 (昭和35年5月31日指定)
北海道小樽市祝津3丁目228 (昭和33年移築)
旧所在地・北海道古宇郡泊村照岸95
建築年代/明治30年(1897)
用途区分/鰊番屋
指定範囲/主屋
公開状況/公開(冬季休館)
小樽市西郊で石狩湾に突き出る半島の突端部、日和山灯台の脇に移築されている鰊番屋建築である。そもそもは積丹半島西岸の泊村照岸に在り、現在でも石倉や米蔵等の附属建物が現地に残されている。当住宅を建てた田中福松氏は青森県東津軽郡出身で幕末に縁戚の古平場所支配人・武井忠兵衛を頼り来道。一介の雇漁夫から盛時には18ヶ統の鰊建網を保有するまでに至った人物である。7年の歳月をかけて建てた住宅は桁行42m、梁間13mの巨大なもので漁期には120人程の漁夫が寝起きしたという。
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佐藤家住宅 北海道指定文化財 (昭和43年3月29日指定)
北海道寿都郡寿都町字歌棄町有戸163
建築年代/明治10〜20年頃
用途区分/漁場経営
指定範囲/主屋
公開状況/非公開
蝦夷富士と別称される羊蹄山の麓を廻り日本海に注ぎこむ尻別川の河口付近にある磯谷、歌棄地区は古来より有数の鰊千石場所として知られ、江戸末期の嘉永年間より両場所の請負人を務めたのが角十の屋号で知られた当家であった。当家は維新後の場所請負制廃止後も鰊漁を続け、最盛期には68ヶ統もの鰊建網を保有する大漁家であった。桁行13.5間、梁間8.5間の大規模な建物は他の鰊番屋建築と異なり親方専用の住宅で、漁夫達の寝食空間は浜側に別棟が在ったというから並大抵でない。
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金森洋物店 北海道指定文化財 (昭和38年7月26日指定)
北海道函館市末広町19-15
建築年代/明治13年(1880)
用途区分/商家(舶来小間物、雑貨品販売)
指定範囲/主屋
公開状況/非公開
函館市内を走る路面電車が十字街の大きなカーブを右に曲がり函館山の裾野に拡がる旧市街区に入ると、すぐ左手に建ちが高く白壁が眩しい和洋折衷の当住宅が現れる。周辺は幕末の開港時に形成された一画であったが、明治初期に度々大火に見舞われたこともあり往時の町並は全く失われ、大火後に豪商・渡辺熊四郎によって建てられた当住宅が最も古い例となる。外壁は白漆喰仕上げとなるが主体は煉瓦造で、耐火仕様を特徴とする。ちなみに当家の屋号は森屋で、「金森」は当家の商標。金森倉庫の社主としても知られている。
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太田屯田兵屋
(松本家住宅)
 
北海道指定文化財 (昭和49年2月28日指定)
北海道厚岸郡厚岸町太田2の通り6-3
建築年代/明治22年(1889)
用途区分/屯田兵
指定範囲/主屋
公開状況/公開
釧路の東方に在る厚岸と云えば全国的な知名度を誇る牡蠣の産地として港町の風情ばかりを想像するが、少し内陸の高台には明治期の屯田兵による大規模な開拓地が拡がっている。当住宅は北方警備と開拓を目的として明治23年に入植した440名の屯田兵達の住居として支給された兵屋のうちの一件で、前年に標茶集治監の囚人達によって建てられた。間取りは6畳、4畳半に居間や土間から成り、17.5坪程の小規模なものである。気候的に作物栽培に不適な土地柄であった様で明治37年に屯田兵制度が廃止されると離村者が相次いだというが、今では大牧草地として業態転換が成功している様子である。
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本願寺駅逓所 北海道指定文化財 (昭和46年3月5日指定)
北海道雨竜郡沼田町字北竜第一
建築年代/明治27年(1894)
用途区分/駅逓
指定範囲/主屋
公開状況/公開(但し管理者に要連絡)
深川留萌自動車道沼田ICの南、国道275号線沿いに所在する官設駅逓の遺構である。当地は滝川と留萌を結ぶ道路の中間地にあり、嘗ては雨竜郡北竜村字沼田仁多志別という地名であったが、雨竜本願寺農場用地内に位置していたため、本願寺駅逓と称された。建ちの高い典型的な町家建築が広大な農地内に忽然と現れる様は多少の違和感を覚えないでもないが、それが北海道という場所柄なのかもしれない。1階は土間や台所、座敷から成り、2階に客室を設ける。内外ともに伝統的な和風建築となる。
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奥行臼駅逓所 北海道指定文化財 (平成6年6月3日指定)
別海町指定文化財 (平成3年4月1日指定)
国指定史跡 (平成23年9月21日指定)
北海道野付郡別海町奥行15-12
建築年代/大正10年(1920)
用途区分/駅逓
指定範囲/主屋・倉庫・馬小屋
公開状況/公開 
現在では、別海町といえば牛乳の一大産地として知られる土地柄であるが、恐らく酪農が本格化する以前には、耕作に不向きな寒冷不毛の原野が拡がるのみであったに違いない。駅逓所は交通不便の地に物資の逓送や宿泊等に便宜を図るため道内各所に設けられた施設であるが、別海町内陸部の小集落であった奥行臼に駅逓所が設けられたのは、明治43年(1910)のことで、駅逓取扱人となった牧畜、薪炭業を営む山崎藤次郎が自宅を駅舎として始めたとのことである。旧国鉄奥行臼駅の跡地近くに3棟の倉庫、馬小屋と共に残る主屋は、北棟と中央棟、南棟から成り、駅逓所時代の大正10年(1920)に建てられた部分は北棟のみで、中央、南棟は駅逓制度廃止後の建築となる。駅逓所としては規模の大きな建物で、宿泊施設としては中廊下式の合理的な間取りを採用している。
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美唄屯田兵屋  北海道指定文化財 (昭和47年2月17日指定)
美唄市指定文化財 (昭和45年12月22日) 
北海道美唄市大通西1条北2-2-1
旧所在地・北海道美唄市癸巳町
建築年代/明治24年(1891)
用途区分/屯田兵
指定範囲/主屋
公開状況/外観のみ常時公開
美唄市街を縦貫する国道12号線脇に所在する初代美唄市長・桜井省吾氏の旧宅内に移築されている屯田兵屋である。当住宅は明治24年に編成された騎兵隊員の住居で、その役柄に対する特徴として住宅脇に厩が付属している。主屋主体部の形式としては陸軍省の標準仕様に倣い、建屋の半分程を土間が占め、床上部として板の間と4.5畳、6畳の居室が奥に並ぶ。美唄には明治24年〜27年にかけて合計400戸の兵員が入植、間口10間、奥行15間の約150坪程度の宅地が与えられ、間口5間、奥行3間半、建坪17.5坪の兵屋が給されたとのことである。今となっては広大な北海道の開拓に従事する者たちへの支給地としては、余りにも僅かな面積と思われるが、全てを人馬で賄っていた時代にあっては、この程度が分限に叶ったものであったのだろう。
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横山家住宅 北海道指定民俗文化財 (昭和38年12月24日指定)
北海道檜山郡江差町姥神町45
建築年代/明治26年(1893)
用途区分/漁業・商家(回船問屋・水産物加工販売)
残存建物/主屋・座敷・蔵1〜4
公開状況/公開
蝦夷地最古の神社とされる姥神大神宮の鳥居前に所在する商家建築である。能登国出身の当家初代・横山宗右衛門が当地で商売を始めたのが天明6年(1786)とのことなので、北海道内では相当な旧家ということになる。藩政期には鰊漁場を経営するとともに廻船をも所有。京都の公家・今城家(180石)の御用を務める程であったという。住宅は海に向かって傾斜する海岸段丘上に建ち、縦長の地形に合わせて主屋の背後には階段状に蔵群が一列に並ぶ。ちなみに当家は鰊そば屋としても著名な存在で、必食である。
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清華亭 札幌市指定文化財 (昭和36年6月7日指定)
北海道札幌市北区北7条西7丁目
建築年代/明治13年
用途区分/接待所
指定範囲/主屋
公開状況/公開
JR札幌駅の北東、北海道大学の南門付近に所在する。そもそもは偕楽園という札幌初の都市型公園内に開拓使の貴賓接待所として建てられたもので、明治14年の明治天皇札幌行幸に際しては休息所に充てられた由緒ある建物である。外観は洋風ながら内部には床の間付の座敷が併設、洋間の天井飾りには桔梗の和風意匠を織り込むなど和洋折衷の造作となっている。明治30年に初代札幌区長を務めた対馬嘉三郎に払い下げられ、住宅として用いられることとなったが、開拓当初の面影を辛うじて残す建物として貴重である。
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旧長野商店 狩市指定文化財 (平成6年3月28日指定)
北海道石狩市弁天町30番地5 (移築)
旧所在地・北海道石狩市親船町7-7
建築年代/明治27年(1895)
用途区分/商家
指定範囲/店舗・石蔵
公開状況/公開(但し要申請)
札幌市東郊を縦断し石狩湾に注ぎこむ石狩川河口部に形成された砂嘴上に小さな港町がある。それが当家の所在する旧石狩町で、江戸時代初期から運上屋が置かれ、明治以降は交通の要衝として栄えた土地柄である。当家初代の徳太郎氏は明治5年に越後荒井浜より石狩に来住して商売を始めたとのことで、米・塩・呉服の販売の他、酒造も行っていたらしい。石蔵は創業当時の建物とされるが、店舗は明治26年の一帯を焼き尽くした大火後に再建されたもので、木骨石造の耐火構造を最大の特徴とする。
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旧白鳥家番屋  石狩市指定文化財 (昭和56年12月9日指定)
北海道石狩市浜益区浜益77-1
建築年代/明治32年(1899)
用途区分/鰊番屋
指定範囲/番屋
公開状況/公開(はまます郷土資料館) 
石狩市中心部から留萌方面へ国道231号線を日本海に沿って北上していく途上に浜益の集落はある。結構な規模の集落ではあるが、海上交通を前提とする周囲とは隔絶した地理条件である。その浜益集落北郊の沿岸部に当住宅は建つ。以前には周囲に同様の鰊漁関連の建物が建ち並んでいたらしいが、今は辛うじて当番屋が只1軒残るばかりである。ところで白鳥家と云えば小樽祝津の鰊漁御三家として名高い存在であるが、当住宅はその基礎を築いた白鳥栄吉の甥となる白鳥浅吉により営まれたものである。
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伊達家住宅 伊達市有形文化財 (平成4年9月28日指定)
海道伊達市梅本町61-2
建築年代/明治25年(1892)
用途区分/開拓団旧領主家
指定範囲/迎賓館(主屋)・御蔵
公開状況/公開
道南の伊達市の歴史は、その名の通り東北仙台藩が戊辰戦争に敗れ家禄を大幅に減じられた結果、明治3年に支藩の亘理藩主・伊達邦成が生活に困窮した家臣250名と共に入植したことに始まる。道内でも気候温暖な当地での開拓は順調に進み、最終的には2680余名が移住を果たしたという。明治政府はその功により剥奪していた藩士達の士籍を回復、邦成公が男爵位を叙された明治25年に当住宅は迎賓館として建てられた。玄関脇の洋室や階段の手摺等に洋風の意匠が散見されるが、全体は和風を基調とした品のある建物となっている。
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旧尾田家住宅
(明治の家) 
東川町指定文化財 (昭和62年11月18日指定)
北海道上川郡東川町1-15 (羽衣公園内移築)
旧所在地・北海道上川郡東川町
建築年代/明治44年(1912)
用途区分/農家
指定範囲/主屋
公開状況/公開 (敷地内教育委員会に申請)
旭川南郊の東川町は東に大雪山を臨み、西に忠別川を擁する道内屈指の穀倉地帯である。現在でこそ街路は整然と碁盤目状に区切られ、気持良い程に広大な田園が拡がるものの、当家が香川県三豊郡から移住・入植した明治28年には未だ人跡未踏の原野であったという。当家初代の松造氏は米作の有利性を知り、水利起工組合を創設し初代会頭を務めた人物で、町の田圃開発に多大な貢献をしている。住宅は正形四間取の典型的な農家建築で、当初は柾葺であったが現在は桟瓦葺に改められている。
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松浦家住宅 旭川市指定文化財 (昭和48年3月19日指定)
北海道旭川市東旭川町瑞穂1576-1
建築年代/明治42年(1910)
用途区分/養蚕農家
指定範囲/主屋
公開状況/公開
札幌市所在の「開拓の村」には浦臼町に在った蚕種製造所が移築されており、北海道における養蚕は本州と比較してかなり工業生産的なものだと思っていたが、当住宅を訪れて認識を改めさせられた。当住宅は旭川市街から東南方向へ20km程の田園地帯の只中に所在する養蚕農家建築である。当家初代の松浦繁松氏が福島県の出身であったため、建物も福島県の養蚕農家に類似する家内工業的な形態の建前となっているが、一方で当初から養蚕を主体にすることを前提とした非常に合理的な造作も散見される。
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国兼家住宅 岩見沢市指定文化財 (昭和53年12月8日指定)
北海道岩見沢市北本町東1-64
建築年代/大正6年(1917)
用途区分/材木商
指定範囲/主屋
公開状況/非公開 
空知地域の中核都市・岩見沢市に所在する実業家邸宅である。そもそもは出羽国鶴岡の出身で北海製材雑穀株式会社を創業した竹野繁次郎氏が自邸として建てたもので、氏が宮崎に転居した後の昭和14年に国兼氏が購入したとのことである。土台部を煉瓦積としたり、屋根の棟飾りに鉾状のペイメントを用いるなど洋風意匠が各所に見られるものの、基本は和風の伝統建築様式で、特に裏庭に面する座敷部に土縁を設ける点などは竹野氏の故郷である日本海側地域に多く見受けられる造作で、入植第一世代の建物としての特徴を示すものと云える。建築当初は、玄関右手に8畳の客間4室が田の字型に配されていたり、反対の東手には台所や物置倉庫が設けられるなど、現建物のほぼ倍の規模であったらしいが、確かに現在の姿は建物が醸す上質感と規模が不釣り合いな印象があることを否めなくもない。
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桜井家住宅 美唄市指定文化財 (平成4年5月27日指定)
北海道美唄市大通西1条北2-2-1
建築年代/昭和8年(1933)
用途区分/地元首長
指定範囲/主屋・四間取・離れ座敷
公開状況/外観のみ常時公開
主屋部は昭和8年建築、四間取部は明治34年、離れ座敷は大正7年の建築。



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塘路駅逓所 標茶町指定文化財 (昭和49年3月15日指定)
北海道標津郡標茶町塘路1-2
旧所在地・北海道標津郡標茶町塘路56
建築年代/明治18年(1885)
用途区分/番屋のちに駅逓
指定範囲/主屋
公開状況/公開
北見から釧路に向かう途中に所在する塘路湖畔に移築されている旧駅逓所である。釧路と標茶間の中継地として明治18年(1885)に越善啓作が建てた駅逓所で、当初は塘路湖の漁業番屋として建てたものを駅逓所に転用したらしい。駅逓としては明治23年(1890)6月に開設され、釧路〜網走間に鉄道が開通したことで昭和3年(1928)に業務は廃止された。外観も切妻屋根の単純な長方形の小屋状の建物であるが、内部においても土間と床上部から成るものの間仕切りがなく、一室空間の単純な形に復元されている。小屋組に曲りくねった梁が使用されており、釧路川の流木で建てられたと伝承されている。
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関川家別邸 江差町指定文化財 (昭和56年7月14日指定)
北海道檜山郡江差町豊川町55
建築年代/
用途区分/商家別邸
指定範囲/
公開状況/公開(但し土日曜日のみ)
北前船による交易で栄えた江差町中心部から豊部内川に沿って僅かに内陸へ入った谷間に所在する商家別邸である。松の古木が林立する広大な庭園の中心には池泉が湧き、この傍らにひっそりと小振りな主屋が建つ様子は実に品が良い。当家は17世紀末に越後より来道、酒屋や沖の口役、回船問屋等を営み松前藩随一の御用商人として知られた豪家である。残念ながら江差・姥神町の北前坂交差点角に在ったという本宅は失われたが、当別邸からだけでも江差商人の文化度の高さを窺い知ることができる。
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久末家住宅 上ノ国町指定文化財 (平成5年8月10日指定)
北海道檜山郡上ノ国町中須田913-1
建築年代/江戸末期(推定)
用途区分/農家
指定範囲/主屋
公開状況/非公開
渡島半島西岸の上ノ国町中心部から天の川に沿って3km程内陸に入った中須田集落に所在する農家建築である。由緒等については調査報告書にも記述がなく不明であるが、当屋敷の対面に文政年間創建の稲荷社が祀られていることから当地の草分け農家ではないかと思われる。住宅は茅葺の寄棟造で左手に土間を設け、右手床上部を正形四間取とする典型的な造作である。現在でこそ周囲に田圃が広がるが、道内の本格的な稲作は明治中期以降のこと。往時の開拓農家は何を作っていたのであろうか。
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泉麟太郎家住宅 栗山町指定文化財
北海道夕張郡栗山町角田61
建築年代/明治31年
用途区分/開拓農家・官吏・村長
指定範囲/主屋
公開状況/公開 【泉記念館】
栗山町は札幌市と夕張市の中間位置に所在する純農村。その歴史は明治21年に戊辰戦争に敗れ、移住を余儀なくされた宮城県の角田藩士達の入植・開墾によって始まる。当住宅の主であった泉麟太郎翁は旧角田藩士を率いて当時原野であった角田村の開墾を主導した人物。現在では栗山町の開祖と称えられている。住宅は入植後暫くの、功成り名を遂げた後の建築で、しっかりとした造作。外観は農家の趣きであるが、発達した座敷は武家風で、決して入植時の苦労を偲ぶような粗末な建物ではない。
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米田御殿 興部町指定文化財 (平成元年10月1日指定)
北海道紋別郡興部町興部679
建築年代/大正11年
用途区分/実業家
指定範囲/
公開状況/非公開
興部町の中心部近くの住宅街の只中に所在する近代和風建築である。地元興部村(当時)の実業家・米田常作氏が大正11年に貴族院議員で大正天皇の従兄弟にあたる柳原義光伯爵の来村時の迎賓館として所有する山林から資材を調達して自宅横に急遽整備したという。米田氏は明治31年(1898)に興部に入植し、ハッカ栽培や造林業を営み、大正期には木工場や澱粉工場、火力発電所などを設立し、地元の発展に大きく寄与した人物である。建物は、入母屋造平屋建で、内部には4間の和室が鉤の手状に並ぶ。規模こそ大きくはないが、牧畜と漁業が主体の雛なる土地には稀なる御殿建築である。
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旧川村家番屋 泊村指定文化財 (平成13年4月27日指定)
北海道古宇郡泊村大字泊村59-1(移築)
旧所在地・北海道古宇郡泊村大字泊村48
建築年代/明治27年(1894)
用途区分/漁家(鰊番屋)
指定範囲/主屋
公開状況/公開 【鰊御殿とまり】
日本海に突き出す積丹半島西側の付け根部にある泊村は原発の存在によってその名を知られるが、嘗ては道内有数の鰊漁場として栄えた土地である。当家は弘化4年(1847)に初代・慶次郎氏が青森県西津軽郡より移住し漁業を始め、2代目久太郎氏の明治年間には2ヶ統の鰊建網を経営、泊・盃・興志内の各村の戸長を務めるまでに勃興したという。当住宅は3代目貞太郎氏により鰊漁隆盛期に建てられたもので、建坪144坪、2階建の堂々たる番屋建築は現在地より東に100m程の位置に在った。
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旧武井家客殿 泊村指定文化財 (平成13年4月27日指定)
北海道古宇郡泊村大字泊村59-1
建築年代/大正5年
用途区分/漁家(客座敷)
指定範囲/客殿・蔵
公開状況/公開 【鰊御殿とまり】
先項の旧川村家番屋と共に「鰊御殿とまり」を構成する鰊漁家の座敷建築である。そもそも当所は武井忠次郎家の鰊漁場跡地で、現在残る客殿や土蔵の他に、嘗ては主屋や番屋といった建物群が雁行状に建ち並んでいた。当忠次郎家は分家筋となるが、本家初代は青森県東津軽郡の出身で天保9年に傭夫として岩内に来道、後に泊村で建網漁場を経営するに至り道内で20ヶ統、樺太で15ヶ統の規模にまで勃興した家柄。銘木が惜しみなく使用された住宅内部の造作に鰊漁の凄まじい程の荒稼ぎ振りが窺い知れる。
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熊谷家住宅 登録有形文化財 (平成18年3月27日登録)
北海道北斗市中央2-5-33
建築年代/江戸末期
用途区分/商家(材木商)
登録範囲/主屋
公開状況/非公開
JR江差線の清川口駅の南西に所在する町家建築である。平成の町村合併により上磯町と大野町が合併し、北斗市という正体不明の名が付けられたため判り難くなっているが、江戸初期創建と伝えられる上磯八幡宮の参道筋に在るため、周辺は道内でも早くから拓けた場所であったに違いない。当家は江戸末期に初代・宇兵衛氏が越中から移住、道内各所で漁業が隆盛する中、敢えて農業の可能性に賭け、当地で灌漑事業に成功、数十町歩の田畑を拓いたという。道南地方最古の町家建築とされている。
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五十嵐家住宅 無指定・公開
北海道北見市仁頃町301 (仁頃はっか公園内移築)
建築年代/昭和12年(1937)
用途区分/ハッカ仲買商
残像建物/主屋
公開状況/公開
昭和の中頃に学校教育を受けた者の多くは、北見と聞けば薄荷(ハッカ)を連想した。それ程までに北見の薄荷栽培は凄まじく、戦前には作付面積は2万haに及び世界生産量の7割を占めたという。しかし現在では大半が玉葱畑に置き換わり往時を見る影は全く無い。当住宅は北見市北郊の仁頃はっか公園内に移築された薄荷仲買商で大地主の五十嵐弥一の邸宅である。竣工までに3年の歳月を要したという住宅に薄荷と結び付く建築的要素は全く見当たらないと私は思うのだが、全てが失われた今では、薄荷で財を成したという一事を以ってして、それだけでも貴重な遺構なのであろう。
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旧新谷家住宅 無指定・公開 【郷土文化保存伝習施設・蛸島の家】
北海道爾志郡乙部町元和761 (移築)
建築年代/昭和11年(1936)
用途区分/商家(海産商)
残存建物/主屋(隣接する土蔵は他家のもの)
公開状況/公開(但し夏季のみ)
江差の北方に在る乙部は海崖の奇景が続く海岸線の美しい町である。当住宅は国道229号線脇の丘陵地に移築保存される商家建築で、そもそもは少し北側の可笑内集落に所在していたが、国道拡幅工事に遭うこととなり、昭和55年に町により公有化・移転されたという。住宅は「蛸島の家」と名付けられるが、これは旧所有者の新谷家が明治34年に能登の蛸島集落(現・珠洲市)から移住してきた事に由来する。ちなみに主屋脇の土蔵は明治29年の建築で旧杉本家の土蔵を移築したもので、2階は座敷となっている。
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