白鳥家番屋
Shiratori



 
石狩市指定文化財 (昭和56年12月9日指定)
北海道石狩市浜益区浜益77-1
建築年代/明治32年(1899)
用途区分/鰊番屋
指定範囲/番屋
公開状況/公開(はまます郷土資料館) 
石狩市中心部から留萌方面へ国道231号線を日本海に沿って北上していく途上に浜益の集落はある。結構な規模の集落ではあるが、海上交通を前提とする周囲とは隔絶した地理条件である。その浜益集落北郊の沿岸部に当住宅は建つ。以前には周囲に同様の鰊漁関連の建物が建ち並んでいたらしいが、今は辛うじて当番屋が只1軒残るばかりである。ところで白鳥家と云えば小樽祝津の鰊漁御三家として名高い存在であるが、当住宅はその基礎を築いた白鳥栄吉の甥となる白鳥浅吉により営まれたものである。


石狩から浜益を経由して増毛に至る日本海沿岸部一帯は、延々と断崖絶壁が続く峻険な土地である。しかし余程の理由でもなければ人も寄りつかぬと思われる風情の中、僅かながらも住居が点在しているのは、恐らく嘗て此の地が鰊建網漁で栄えた故であるに違いない。どこかの田舎の木造小学校舎の様な面持ちである。当住宅は集落からも離れて、荒波迫る海岸辺に石垣を築き、その壇上に孤独に建つ、まさに孤高の存在である。西陽に映える美しい姿は往時の残照でもある。


白鳥栄作について
安政2年(1855)に松前、同3年に厚田、同年に浜益で漁業に従事。浜益では金吉屋の出張所として漁業を始める。
元治元年(1864)、余市場所請負人の林長左衛門に雇われ、明治2年に祝津村林出張漁場支配人となる。
明治7年に白鳥家の養子となり、祝津、浜益、小樽、枝幸など21ヶ統の漁場を経営する。約3000石の漁獲を誇った。
浜益漁場は栄作が余市場所に移った際に甥の白鳥浅吉が経営を引き受け、明治4年には漁場を2ヶ統に拡張。
約300〜600石の漁獲高で、中規模な漁場であった。


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