下ヨイチ運上家



 
国指定重要文化財 (昭和46年12月28日指定)
国指定史跡 (昭和48年7月31日指定)
北海道余市郡余市町入舟町10
建築年代/嘉永6年(1853)改築
用途区分/運上家(アイヌ人と和人の交易施設)
指定範囲/主屋
公開状況/公開

嘗て蝦夷地は、その寒冷さゆえに米作が成立しない土地柄で、此の地を支配した松前藩は徳川幕府より禄高1万石の格式を辛うじて認められてはいたものの、実質的には無高であったため、経済的基盤をアイヌとの交易に求め、依拠した。藩政初期において松前藩は領内の統治機構を確立するうえで道内各所に商場を設け、家臣に対して各々の商場でのアイヌとの独占交易権を分与するという手法を採った。いわゆる商場知行制と称されるものである。これは他藩でいうところの地方知行制に代わるもので、通常、本土の一般的な諸藩では家臣に土地を分与し、そこから採れる米穀が知行として彼らの収入になった訳であるが、松前藩に限っては商場交易がもたらす利益が家臣の収入となったのである。貨幣が流通する以前で米の石高が全ての基準であった時代において、かなり特異な事例であったに違いないが、米が採れないものだから仕方がない。しかし、こうした制度は元来、藩主権力が脆弱な中世的な統治機構ともいうべきもので、領民すなわちアイヌ民族への松前藩家臣団による私的収奪の横行を招き、結果として各地でアイヌ民族による反乱が相次ぎ、制度は綻び始めることとなる。時代の潮流として江戸中期以降からは全国的に藩主権力の確立を目指した近世的な支配機構の整備が模索されることとなり、公権力という概念によって領民を慰撫しつつ税という形で収奪する方法へと変化していくのだが、他藩において各々の家臣が支配地の税を取り立て直接経営する地方知行制から、藩が家臣の土地の徴税・経営を代行し、家臣には金銭によって俸禄が支給される蔵米俸禄制へと家臣支配の機構制度が変化していくが、松前藩においても商場における交易を藩の直轄事業とし、そこからもたらされる富を金銭で分配する形へと変貌を遂げていくことになる。


やがて手数の煩わしさから商人を場所請負人として定め、彼らにアイヌの漁獲した水産物や手工品と本土から調達した米や酒、塩、小刀等との交易を独占させ、その権益の代償として運上金を徴収する方法へと改めていく。。こうした傾向は在地の支配階級から土地との関係性を切り離すことで近世的な領国経営を目指した江戸初期頃からの商品経済の発展と共に外様大藩を除く全国の中小藩に多く見られ、近世的な両国経営一般に俸禄制と称されるものであるが、その先鋭的な例が無高の松前藩に起こったことは、むしろ当然過ぎる結果だったといえるのではなかろうか。さて場所請負人に定められた商人達は、当初は夏の間のみ支配人や通詞、帳役等を常駐させてアイヌ人との交易に従事させ、冬季には番人のみを留守居させる形態を採っていたが、やがて彼らは交易のみでは飽き足らず漁場経営にまで手を拡げていくのであるが、一方で駅逓やアイヌ人の撫育などの業務をも藩命により担うことを余儀なくされる。運上家は彼ら商人達が各々の請負場所に建てた活動拠点で、往時は松前藩領内に78ヶ所程もあったとされるが、廃藩置県後に破却が相次ぎ、唯一の現存例が当住宅である。桁行34m、梁間14.7mに及ぶ巨大な建築で、下手は運上業務を執る板間、上手は格式高い座敷となっている。明治以降に開拓が進んだ北海道にとって、藩政期の歴史を伝える建物は貴重な存在である。





 

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