広島県の民家
林家住宅 国指定重要文化財 (昭和53年1月21日指定)
広島県廿日市市宮島町滝町235
建築年代/元禄16年(1703)頃
用途区分/社家(厳島神社上卿)
指定範囲/主屋・表門
公開状況/非公開
日本三景に数えられる安芸の宮島に所在する旧社家住宅である。当家は世界遺産にも認定される厳島神社の神官で棚守、上卿、祝師と呼ばれる、いわゆる宮島三家のうち上卿職を元禄年間から務めた家柄である。屋敷は厳島神社と神宮寺である大聖院を結ぶ参道沿いに在り、前面に石垣を築き、石段の先に小振りな杮葺の薬医門を構える。入母屋桟瓦葺妻入の主屋は非常に洗練された外観で、緩やかな傾斜の大屋根に正面妻を豕叉子と梅鉢懸魚で飾る風情は何となく「平安朝」の趣を漂わせている。
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真野家住宅 国指定重要文化財 (昭和55年1月26日指定)
広島県三次市小田幸町大平122-480 (風土記の丘公園内)
旧所在地・広島県世羅郡世羅町戸張 (昭和53年移築)

建築年代/江戸時代初期(17世紀末)
用途区分/農家
指定範囲/主屋
公開状況/公開
三次市南方の世羅町から「県立みよし風土記の丘」内に移築された農家建築である。当家は武士の出身で近世初期に土着したと伝わる旧家であったらしい。かつて在った場所については詳らかを承知していないが、現在地はとても景色が雄大で、ゆったりとした雰囲気に満ち、とても良い移転先に廻り合えたものだと思う。主屋はかなり閉鎖的な造作で表側のみ開口部を設け、残り三方は大壁で塞がっている。土間に入るとまっすぐな細い梁桁の架構に、独立柱が残るなど古式が随所に見て取れる。
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荒木家住宅 国指定重要文化財 (昭和43年4月25日指定)
広島県庄原市比和町大字森脇786

建築年代/江戸時代(17世紀末・推定)
用途区分/社家
指定範囲/主屋
公開状況/非公開
庄原より松江に向かう国道432号線沿いの中国山地奥深くに所在する社家住宅である。一見すると普通の農家住宅の様であるが、仔細に見ると棟端に鳥居のような飾り物が付属していたり、簡素ではあるが注連縄を回した冠木門を構えているなどから実は社家住宅であることが判る。また内部も奥間の背後に床面を一段高くした「たかま」という祭祀部屋を設けるなど一般的な農家の間取りとは異なっている。生産力の乏しい山間部にありながら桁行十間半の規模は社家という特権階級の在り様を示している。
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堀江家住宅 国指定重要文化財 (昭和41年12月5日指定)
広島県庄原市高野町大字中門田字城山257

建築年代/江戸時代(17世紀初期・推定)
用途区分/農家
指定範囲/主屋
公開状況/非公開
広島と島根の県境に程近い山間部に所在する農家建築である。神の瀬川の流域に拓けた高野町は山間の高地ながら比較的平地も多く農業の盛んな所である。しかし当住宅自体は谷筋の傾斜地にあり、山裾を無理に開墾して平地を確保したような狭隘な場所に古式を漂わせる主屋をひっそりと残している。深く低い軒や自然木に近い曲がった柱、土壁が多く閉鎖性が強い様子などから一瞥して古い民家と判断されるが、17世紀初めの建築当初材を残しつつ江戸中期に大幅な改造がなされたとのことだ。
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奥家住宅 国指定重要文化財 (昭和53年1月21日指定)
広島県三次市吉舎町大字敷地634

建築年代/天明8年(1788)
用途区分/農家(庄屋)
指定範囲/主屋
公開状況/非公開
尾道から三次に向けて国道184号線を北上し、旧吉舎町役場と旧三良坂町役場のちょうど中間辺りに所在する旧庄屋屋敷である。馬洗川の河岸段丘上に鬱蒼とした森を背後に控え、主屋を取り囲む白壁の練塀や表門、納屋や土蔵等の多くの附属建物から構成される屋敷構えはどことなく品格が漂うものである。庄屋の家格に相応しく正面に式台玄関を設け、接客座敷も整った造作である。主屋の下手側背後に角屋を突き出し台所を設ける代りに土間は比較的狭くなってはいるが、五重の梁組架構は圧巻である。
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旗山家住宅 国指定重要文化財 (昭和53年1月21日指定)
広島県三次市三良坂町大字灰塚字流田543-2
旧所在地・広島県双三郡三良坂町大字灰塚1150 (旧表示)

建築年代/江戸時代(18世紀中頃)
用途区分/農家
指定範囲/主屋
公開状況/公開(外観のみ)
旧三良坂町郊外の新興住宅地「のぞみが丘」の東脇に移築されている農家建築である。そもそもは近隣の灰塚ダム建設の水没予定地に所在していたが、既に重文指定を受けていたため破却を免れた。かつての屋敷内には納屋などの附属建物も残されていたが文化財指定の主屋だけが移転されている。主屋内部は整形四間取で比較的進化した間取りとなる一方、土間や背面側の部屋内には独立柱が立ち並び、土間上の桁梁の架構は細く簡素で古風な雰囲気を漂わせている。
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木原家住宅 国指定重要文化財 (昭和41年6月11日指定)
広島県東広島市高屋町大字白市1046

建築年代/寛文5年(1665)
用途区分/商家(酒造業・製塩業)
指定範囲/主屋
公開状況/公開
酒造の町・西条から東へ約11km程の丘陵地に白市という小さな町場がある。中世に町場が拓かれ、竹原に通じる物流の中継地として栄えたとのことであるが、今ではそんな輝かしい過去があったとは到底思えぬ程に寂れてしまっている。当家はその白市の中心部に所在する商家で、酒造業を営むと同時に竹原方面に塩田を保有する程の大店であったらしい。また住宅は建築年が判明する町家としては全国有数に古いことで知られており、実際、各居室の造作はかなり閉鎖的で特異な雰囲気を醸している。
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吉原家住宅 国指定重要文化財 (平成3年5月31日指定)
広島県尾道市向島町江奥3854

建築年代/寛永12年(1635)
用途区分/農家(庄屋)
指定範囲/主屋・納屋
公開状況/公開
大林信彦監督の映画でお馴染みの尾道の対岸に浮かぶ向島に所在する農家建築である。向島は今でこそ島全体が尾道市に併合されているが、平成の町村合併以前は島の西半分が向島町、東半分が尾道市であった。どうやら古い歴史を持つ島には複雑な事情が存在しているようである。当家は向島西村の庄屋を務め、近隣5ヶ村の頭庄屋や割庄屋にも就いたという豪農で、高台の屋敷地の東側石垣上に長屋門を構え、その背後に主屋を配する。江戸初期の建築ながら開放的で先進的な造作が興味深い。
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太田家住宅  国指定重要文化財 (平成3年5月31日指定)
広島県指定史跡 (昭和15年2月23日指定)

広島県福山市鞆浦鞆842
建築年代/江戸時代(18世紀中期)
用途区分/商家(保命酒醸造業)
指定範囲/主屋・炊事場・西蔵・釜屋・南保命酒蔵・北保命酒蔵・東保命酒蔵・北土蔵・新蔵・土地
公開状況/公開
福山市の南部に位置する鞆の浦は風光明媚な湊町として著名である。現在でも雁木と呼ばれる船着き場の石段が残り、江戸時代の風情をそのままに伝えている。当住宅は湊の西沿岸に所在し、町の中核を成した商家で、鞆の名産・保名酒を独占的に製造販売した中村家の家屋であった。本通りから船着き場に抜ける路地に面して本瓦葺の主屋を構え、四方を道路に囲まれた屋敷地には多くの酒造蔵が中庭を取り囲むかのように建ち並んでいる。ちなみに当家は維新前夜の七卿落遺蹟にも指定されている。
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太田家住宅
朝宗亭 
国指定重要文化財 (平成3年5月31日指定)
広島県指定史跡 (昭和15年2月23日指定)

広島県福山市鞆浦鞆846
建築年代/文化元年(1804)頃
用途区分/商家別宅(隠居座敷・本陣)
指定範囲/主屋・門屋・離屋・土地
公開状況/非公開
前項の太田家本宅の通りを挟んだ海岸縁に所在する商家隠居座敷建物である。建物は通りに面する門屋、その奥に建つ主屋、門屋脇の隣家を買い取った離屋から成る。主屋は藩主御成の際に接待供応の場として用いられたことから朝宗亭と呼ばれ、実際、間取りは玄関の間、次の間、広間、上の間の各部屋が鉤の手に配され、純然たる座敷建築となっている。海に面して石垣を築き座敷からの視界を遮らぬ程度に低い白壁練塀越しに上品な座敷建物が覗く様子に、この屋敷こそが鞆の津の絶景だと思う。
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春風館
頼家住宅
国指定重要文化財 (昭和63年12月19日指定)
広島県竹原市本町2-3873

建築年代/安政2年(1855)
用途区分/医家(儒医)
指定範囲/主屋・長屋門・裏座敷・納戸蔵・米蔵
公開状況/非公開
重伝建の町・竹原には江戸期の学者・頼山陽に代表される頼一族発祥の地として3軒もの文化財指定を受ける屋敷が残されている。1軒は祖父・惟清の住宅、残りは宗家を継いだ叔父・春風の屋敷・春風館と彼の孫・確の屋敷・復古館である。当住宅(春風館)は紺屋を営んだ惟清の息子達のうち、長男・春水、三男・杏坪が儒官として広島藩に仕えたため、医師となった次男・春風が宗家を継ぎ、竹原に居を定めたことに始まる。長屋門を構え、主屋正面に式台玄関を設える様子は武家屋敷風と云われている。
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復古館
頼家住宅
国指定重要文化財 (昭和63年12月19日指定)
広島県竹原市本町2-3878

建築年代/安政6年(1859)
用途区分/商家(酒造業・製塩業)
指定範囲/主屋・表門及び玄関・米蔵・臼場
公開状況/非公開
竹原の本通りを西へ入った細い路地に面して医師であり儒学者でもあった頼春風関連の屋敷が2軒並んでいる。春風館と復古館である。当住宅(復古館)は春風の養子・小円が三男・確を分家させ、春風館の西隣に屋敷を構えたことに始まる。頼一族に対しては学者としての系譜に目が行きがちであるが、当家は酒造業、製塩業、木綿仲買を営み、屋号を「兼屋」と称した純然たる商家であった。通りに面して表屋を構え、背後に主屋を並置し、両者の間を玄関棟で繋ぐ建前で、いわゆる表屋造と称されるものである。
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澤原家住宅 国指定重要文化財 (平成17年7月22日指定)
広島県呉市長ノ木町2-9

建築年代/宝暦6年(1756)
用途区分/商家(酒造業・庄屋)
指定範囲/主屋・前座敷・表門・元蔵・三角蔵・上蔵・中蔵・下蔵・新蔵
公開状況/非公開
呉港を臨む灰ヶ峰の山裾で酒造業を営むとともに代々庄屋を務めたという旧商家建築である。呉市内から熊野町に抜ける旧長ノ木街道を挟んで東西に屋敷を構えるが、結構な登り勾配の土地に対し長大な石垣を築き、江戸期の屋敷地としてはかなり無理な造成を行っている。当住宅は江戸初期に当村に移住した熊崎屋の別邸であったものを享保14年(1729)に当家初代・八左衛門が分家し、澤田屋の屋号で商売を始めたもので、屋敷の東側には昭和24年まで酒造関連施設が残されていたらしい。
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清水家住宅 国指定民俗文化財 (昭和34年5月6日指定)
広島県山県郡北広島町西八幡原字聖山867

旧所在地・広島県山県郡北広島町樽床
建築年代/江戸時代(天明期1781-1789)
用途区分/山村農家
指定範囲/主屋
公開状況/公開
樽床ダム建設に伴い、水没予定地から移築された山村農家建築である。県北西部に位置する芸北町は冬季にはスキー場が開設される程に雪深いところで、それ故に当住宅は瀬戸内地方の民家というよりも北国の民家を思わせる造作となる。例えば母屋に対して土間を前方に突き出す中門造りと呼ばれる形態である。この地方では駄屋と称する中門は干草置場や木小屋、厠といった用途に用いられるが、そもそもは別棟であったものが冬季の利便性を考えて母屋と一体化したのではないかと考えられている、
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菅茶山旧宅
(廉塾) 
国指定特別史跡 (昭和28年3月31日指定)
広島県福山市神辺町川北640-3

建築年代/江戸中期
用途区分/私塾
残存建物/居室・講堂・寮舎・書庫・養魚池
公開状況/非公開
江戸中期に活躍した漢詩人として著名な菅茶山が自らの故郷に開いた郷学校の遺構である。彼は山陽道の神辺宿において東本陣を務めた本荘屋菅波家の継嗣であったが学問の道を志し、天明元年(1781)に本宅向かいの地に私塾「黄葉夕陽村舎」を開き、門弟は全国から集まったとのことである。その後、塾の永続を願って所有する田畑と一緒に福山藩に献上、藩の正式な郷学校となり「神辺学問所」「廉塾」と称されるようになった。講堂や寮舎など一般の屋敷構成とは異なる建物群が残され興味深い。
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児玉家住宅 広島県指定文化財 (昭和48年5月30日指定)  
広島県安芸高田市甲田町浅塚甲476-1

建築年代/江戸時代(享保年間と伝承・18世紀中頃)
用途区分/農家(大庄屋分家)
指定範囲/主屋
公開状況/非公開
戦国時代に中国地方の覇者となった毛利元就の居城であった吉田郡山城址から北方5km程の山間部に所在する農家建築である。当家は江戸中期の正徳年間に周辺9ヶ村の大庄屋を務めた豪農・玉屋太郎左衛門から父・庄兵衛が隠居分家したことに始まり屋号を住屋と称した。かつては屋敷前に長屋門を構えていたらしいが、現在は桁行9間半、梁間5間半の県内最大規模の主屋が残るのみである。屋敷裏手の小山を背景に、大きな茅葺屋根の主屋が立ち塞がるかの様な風情は貫録十分である。
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菅波家住宅 広島県指定文化財 (昭和44年4月28日指定)
広島県指定史跡 (昭和26年4月6日指定)
広島県福山市神辺町川北527

建築年代/延享5年(1748)
用途区分/商家(本陣・酒造業)
公開状況/公開 【神辺本陣】
旧山陽道の神辺宿に残る本陣建築である。神辺宿には東西2軒の本陣があり、東本陣を三日市の本荘屋菅波家が、西本陣を七日市の尾道屋菅波家が務めた。東本陣は明治時代に大半が失われ、残る西本陣が当住宅である。街道に面して建つ店屋は内部の改造が著しいものの、本瓦葺重層入母屋造の重厚な外観は西日本の町家建築の中でも屈指の美しさである。一方、店屋の西側に残る本陣座敷は完璧な状態で残されており、屋敷裏手の土蔵群や離れ等も含めて第一級の本陣遺構を形成している。
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佐々木家住宅 広島県指定文化財 (昭和62年3月30日指定)
広島県三次市三和町敷名字猟師岩山1486 (移築)
旧所在地/広島県双三郡三和町上壱 (旧表示)

建築年代/江戸中期
用途区分/農家
指定範囲/主屋
公開状況/公開
県北の中心地・三次の町から約20km程の南方の旧三和町に所在する。周囲は山間部ながら町を南北に貫流する美波羅川沿いに田畑が拓けた純農村地帯で、当家は屋号を前実広(まんざひろ)と称した農家であった。昭和47年に解体され、部材は旧上山小学校内に長く保管されていたが、昭和60年にようやく現在地に移築復元された。間取りは喰違四間取系で居室と納戸の境界部に中敷居の痕跡が残るため納戸構があったのではないかと推測され、土間には独立柱が立つなど古式をよく残している。
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千葉家住宅    広島県指定文化財 (平成3年4月22日指定)
広島県安芸郡海田町中店8-31

建築年代/安永3年(1774)
用途区分/商家(脇本陣)
指定範囲/書院・廊下及び浴室・浴室・本門及び築地塀・土蔵
公開状況/非公開
広島市中心部から7kmばかり西に位置する海田市の町は江戸時代には西国街道の宿駅として栄えた所で、現在でも都市化の波に曝されながらも古い町家がそこそこに残されている。当家は宿の中心部に広大な屋敷を構え、旧脇本陣を務めたという旧家で、神保屋の屋号で酒造業を営む傍ら、正保元年(1644)以降は宿駅の要職である天下送り役・宿送り役をも務めた。主屋は改造が甚だしいものの、これに接続する西方の書院建物は式台玄関を構え、数寄屋風意匠の質の良い建物である。
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若胡子屋 広島県指定史跡 (昭和15年2月23日指定) 
広島県呉市豊町御手洗字天神149-1

建築年代/享保9年(1724)頃(推定)
用途区分/茶屋
公開状況/公開
平成20年の豊島大橋の開通により、ようやく本土と繋がった大崎下島東端にある御手洗集落に所在する旧茶屋建築である。いわゆる遊郭と称される類の住宅で、享保9年に藩から公認を受けた頃に建てられたと推測されている。往時には40人もの遊女を抱えるほどの大店で、集落背後の高台から見渡すと間口6間、奥行10間の主屋は集落でも突出した規模の建物であったことが容易に知れる。廃業後に寺院として用いられたため内部の改造は著しいが、規模の割に一列系の単純な間取りであったとの事だ。
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多田家住宅 広島県指定史跡 (昭和15年2月23日指定)
広島県呉市豊町御手洗蛭町255-1

建築年代/明治末期
用途区分/商家(船宿・町年寄・庄屋)
公開状況/公開(七卿館)
江戸中期になると航海技術の発達により瀬戸内を航行する廻船も「地乗り」から「沖乗り」に変化し、大崎下島の東端のそれまで近隣集落の出作り耕作地であった地に町場が形成されることとなった。それが御手洗湊である。当住宅は町南東端の蛭子神社裏手に所在し、かつては海際まで広大な屋敷地が広がっていたが県道の開通により削られてしまった。竹原屋を称し、延岡藩や小倉藩指定の船宿を営み、御用商人として諸国物産を商ったという。幕末維新の七卿落の奇宿地として史跡指定を受けている。
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頼惟清旧宅 広島県指定史跡 (昭和32年9月30日指定)
広島県竹原市竹原町本町3-12-21

建築年代/天明年間(1781-1789)・安永4年(1775)
用途区分/商家(紺屋)
残存建物/主屋
公開状況/公開
重伝建地区に選定される竹原町内に所在する商家建築である。江戸後期に「日本外史」を著し、維新の尊王思想に影響を与えたことで知られる頼山陽の祖父にあたる頼惟清がここで紺屋(染物業)を営んだ由緒により史跡指定されるが、惟清は天明3年に没しているので当住宅に住まいしたのは最晩年の僅かな期間のみであったことになる。通りに面して入母屋妻入の主屋が建ち、その南側に切妻の角屋を突き出し座敷とする。屋敷裏手には井戸や干し場の広い空間が設けられ、紺屋らしい風情を醸している。
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頼杏坪役宅 広島県指定史跡 (昭和12年5月28日指定)
広島県三次市三次町1828-2

建築年代/江戸時代
用途区分/武家(町奉行役宅)
残存建物/主屋
公開状況/非公開
「日本外史」の著した尊王思想家・頼山陽は歴史教科書にも名を残す程の人物であるが、広島県北の人々にとっては彼の叔父である頼杏坪の方が遥かに敬慕すべき存在であったに違いない。杏坪は若くして広島藩の儒学者として登用されたのち、老年に至っては県北地方の郡代官を務めた人物で、彼が村民に対して執った善政の数々は各所に未だ逸話として伝承されている。当住宅は彼が郡代官から三次町奉行に異動となった文政11年(1828)から3年間住まいした役宅で、「運甓居」と称されている。
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安井家住宅 廿日市市指定文化財 (昭和51年11月16日指定)
広島県廿日市市浅原1426

建築年代/文化年間(1804-1818)
用途区分/農家(本百姓・庄屋)
指定範囲/主屋
公開状況/非公開
旧佐伯町域の浅原集落に所在する農家建築である。大竹から吉和へ抜ける国道186号線沿いの段丘状に石垣を築いて造成した高台に、屋敷林を背後に控えて重厚感溢れる主屋が鎮座する姿は余りに美しい。江戸中期の明和年間に没した方を初代とするので家の歴史は決して古くはないものの、幕末には庄屋職を拝命する程の存在になっていたとのことである。東面する主屋以外にも北に納屋、南に土蔵と離れ等の建物群が残されているが、江戸期の農家建築の理想とした姿がここにある思いである。
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石井家住宅 東広島市指定文化財 (平成5年3月19日指定)
広島県東広島市西条町下見1086-1 (移築)
旧所在地・広島県東広島市西条町岡町

建築年代/寛政7年(1795)
用途区分/商家(酒造業・旅籠・薬店)
指定範囲/主屋
公開状況/公開
広島市の北東部に位置する旧西条町は、広島大学の移転や研究機関の誘致などにより発展著しい地域であるが、そもそもは旧西国街道の宿場町であったことが発展の基礎にあった。現在、当住宅は西条町郊外の田園部に移築されているが、当初は西条四日市宿に所在していた町家で、江戸時代には酒造業を営み、以後、旅籠、薬店として利用されたとのことである。建物は妻入り二階建の大規模なもので、大屋根の本瓦が二段に亘って葺き下ろされる錣葺きという独特の手法を採っている。
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松阪家住宅  竹原市指定文化財 (昭和60年4月1日指定)
広島県竹原市本町3-9-22

建築年代/文政年間(1818~)・明治12年改築
用途区分/薪炭問屋・塩田経営
公開状況/公開
江戸初期に播州赤穂に次いで塩田が開発された竹原の繁栄が如何なる様であったかは現在に残る本瓦葺きの重厚な家並みを見れば一目瞭然である。時代が移ろい塩田が消滅した現在でも、竹原旧市街は奇跡的に往時の風情がそのまま残され、重伝建地区に選定された。その中でも当住宅の存在は極めて異彩を放つものである。主屋の屋根を大きく湾曲させた唐破風造とする姿は全国でも稀有な例である。封建的な身分制度が崩れた明治期の改築により現在の姿になったとされるが、随分思いきったものである。建築平面も平行する表棟と裏棟を繋いでコの字型とし、江戸期町家の一般的な間取りとは大いに異なっている。塩田がもたらす富に裏打ちされた竹原の素晴らしい町家群の中でも特に明治期の粋を感じる民家である。
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森川家住宅  竹原市指定文化財 (平成16年7月21日指定)
広島県竹原市中央町3-16-33

建築年代/大正5年(1916)移築
用途区分/塩田経営
公開状況/公開
重伝建地区にも指定される竹原の町並から西方へ掘割と道路を隔てた住宅地の一画に背高の黒板塀に囲まれた当住宅は所在する。宅地化が進んだ現在の町の様子から想像するも難しいことではあるが、かつて当家の周囲は塩田で、屋敷地は四周を高さ2間ほども石垣を積み上げ造成したものである。あたかも海に浮かぶ城塞のような様子であったらしい。主屋は明治前期建築の沼隈地方の豪商・山路家の主屋を移築したもので、玄関から鉤の手に座敷が続く空間はさながら大名屋敷のようである。
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柴屋住宅  市指定文化財 (平成16年3月15日指定)
広島県呉市豊町御手洗字常盤町174

建築年代/江戸時代(安永6年(1777)頃)
階層区分/庄屋・町年寄役
指定範囲/主屋(向座敷)
公開状況/公開
重伝建地区に選定される御手洗集落の中心、常盤町に所在する商家建築である。柴屋は隣村・大長村の庄屋を務めた高橋家の屋号で、御手洗町に長男が分家し移住した後には町年寄を務め、大長村とは別に御手洗に町庄屋が置かれた際には最初にその職に就いたという。当住宅はそもそもは2つ分かれており、主屋は通りを挟んだ向かいにあり、当建物は向座敷であった。藩侯視察時の本陣として用いられることもあったが、文化10年(1813)に当家が製塩業で失敗し没落したのち、菊本家が金物屋を営んだ。
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金子家住宅 呉市指定文化財 (平成23年4月28日指定)
広島県呉市豊町御手洗字常盤町

建築年代/
用途区分/庄屋役
指定範囲/
公開状況/非公開
重伝建地区に選定される大崎下島の御手洗集落に所在する商家建築である。屋敷は集落最大の遊郭であった若胡屋の通りを挟んだ対面に位置し、恐らくこの辺りがかつては集落の中心であったと推測されている。当家は三笠屋の屋号で江戸期には庄屋役を、昭和初年からは郵便局長を務めた家として知られている。建物は茶室や数寄屋座敷、長屋門など複数の用途から構成されるもので、歴史的にも幕末維新の際に長州藩と安芸藩が秘密裏に軍事協定(御手洗協定)を締結した舞台として知られる。
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船宿
(木村・北川家)
呉市指定文化財 (平成6年12月8日指定)
広島県呉市豊町御手洗住吉町

建築年代/文政年間(1818-1830)
用途区分/船宿
指定範囲/主屋
公開状況/非公開
瀬戸内海に浮かぶ大崎下島の潮待港・御手洗に所在する旧船宿建築である。当住宅が所在する住吉町は江戸後期に波止が整備されると急速に発展し御手洗の玄関口となった一画で、船宿や置屋が軒を連ねたという。ちなみに船宿とは船乗り達の労をねぎらい疲れを癒す場所のことである。住宅は一棟の建物を3軒に区切る長屋形式で、向かって左手の北川家は間口3間、残りの木村家と村井家は2間半となる。船宿を営んだのは中央の木村家で若本屋の屋号で幕末には大洲藩・宇和島藩指定の船宿であった。
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丸本家住宅 呉市指定文化財 (平成7年5月1日指定)
広島県呉市下蒲刈町三之瀬313

建築年代/江戸時代(18世紀前半)
用途区分/武家(下茶屋役宅)
指定範囲/主屋
公開状況/公開
呉市の南東、安芸灘に浮かぶ下蒲刈島の三之瀬に所在する武家役宅である。三之瀬は瀬戸内海上航路の要衝として広島藩が朝鮮通信使の迎賓施設(茶屋本陣)を置いた程の湊町で、当住宅は雁木と称される石段状の船着場前に屋敷を構える。当住宅の現在位置が古図による下の茶屋の敷地内に当たっていることや表に棟門を構え、主屋には式台玄関を設える様子から茶屋の管理を行った武士の役宅ではなかったかと推測されている。往時を偲ぶ数少ない朝鮮通信使関連遺構として貴重な存在である。
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上本家住宅 北広島町指定文化財 (平成3年12月25日指定)
広島県山県郡北広島町有間104-1

建築年代/江戸末期(天保年間)
用途区分/農家
指定範囲/主屋
公開状況/公開 (但し公開日注意)
高速の中国道から浜田道が分岐する千代田JCTの近くに所在する農家建築である。当住宅が所在する寺原地区は山間部ながら比較的平地が広がる土地柄で、屋敷は田圃に囲まれ、集落を形成せずに単独で所在している事から古い家柄ではなさそうである。主屋は田の字型四間取で規模こそ決して大きくはないが数寄屋風の座敷は丁寧な造作である。座敷前の一画を石垣と土塀で仕切って庭を築く点や明治4年の百姓争議の際の鉈や鍬の疵跡が残る事などから当家が上層の農家であったことが窺える。
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木村家住宅 旧三良坂町指定文化財 (平成6年2月21日指定)
広島県三次市三良坂町大字灰塚8-1
旧所在地・広島県三良坂町大字大谷

建築年代/江戸時代(19世紀前半)
用途区分/農家
公開状況/公開
旧三良坂町郊外の「のぞみが丘」内に移築されている農家建築である。この新興住宅街は計画から約42年もの歳月をかけて平成19年に供用開始された灰塚ダムによる水没地区の集団移転用地として整備された町で、当住宅も平成9年に水没予定地から移築され、現在は三良坂民俗資料館の附属施設として活用されている。軒も高く、開放的な造作で、近隣に移築されている18世紀中頃建築の国重文・旛山家住宅と比較すると、江戸末期に至り当地方の民家が如何様に発展を遂げたか知ることができる。
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松井家住宅 呉市指定文化財 (平成7年1月27日指定)
広島県呉市安浦町三津口1-19-10

建築年代/慶応4年(1868)
用途区分/医家(御典医)
指定範囲/主屋・土蔵・土蔵附属建物・表門・西門・庭園門
公開状況/外観公開
呉市の東端の旧安浦町三津口に所在する旧医家住宅である。瀬戸内海沿いに走る国道185号線を三津口港で内陸側に折れること400m程の谷筋に当住宅は所在している。屋敷地は低く石垣を築いて嵩上げされ、敷地中央に主屋を構える。南側に本門を開き下見板付の練塀が連なる。西側は女子畑集落へ抜ける旧道に面し離れや脇門等を廻らせ、東側は低い山が迫り、これを借景として築庭するとともに屋敷祠を配置する。江戸中期から代々医業を営み、苗字帯刀を許されたという家柄は、家作にも顕れている。
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鞆の津の商家  福山市指定文化財 (平成4年5月27日指定)
広島県福山市鞆町鞆606

建築年代/江戸時代末期
用途区分/呉服屋→船具屋→魚網製造
指定範囲/主屋・土蔵
公開状況/公開 【鞆の津の商家】
瀬戸内の景勝地・鞆の浦に所在する商家建築である。町内を横断する幹線道路(県道47号線)に面して平入の主屋と妻入の土蔵が並び建つ。土蔵扉前の通用路を表屋風の建物として屋敷構を整える手法は、なかなかに心憎い演出である。建築当初は呉服屋であった当住宅は、明治27年に鞆製網会社の所有となり、北海道、中国、韓国、東南アジアにまで販路を拡げる工員60人を超す鞆を代表する企業の製造拠点となった。土蔵は江戸末期の建築で他所にあったものを明治末に移築したものである。
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福寿会館 登録有形文化財 (平成9年7月15日登録)
広島県福山市丸之内1-8-9

建築年代/昭和10-12年(1935-1937)
用途区分/実業家(海産物商)別荘
登録範囲/洋館・本館・西茶室・南茶室・西蔵・東蔵
公開状況/公開
新幹線で福山駅を通過するたびに車窓から臨む福山城天守閣の美しさに見惚れてはいたが、城址北側の米蔵跡にこのような大規模な別荘が営まれていたとは露とも知らなかった。当住宅は大正から昭和初期にかけて活躍した海産物商で削り節の考案者とされる安部和助が1930年代に営んだ和館と洋館から成る大邸宅で、特に和館は桧皮葺唐破風屋根の大玄関を正面に構え、21畳敷の大広間に14畳敷の次の間が続くという豪快な近代和風建築である。座敷の縁側から見る庭園越しの天守閣も素晴らしい。
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信岡家住宅  登録有形文化財 (平成20年4月18日登録)
広島県福山市新市町戸手2166
建築年代/文政9年(1826)
用途区分/庄屋
登録範囲/主屋・長屋門・東の蔵・西の蔵・炭小屋・茶室及び腰掛・井戸屋形・中門及び塀
公開状況/非公開





 
村上家住宅  登録有形文化財 (平成22年9月10日登録)
広島県福山市今津町長波1929
建築年代/明治後期
用途区分/廻船業
登録範囲/主屋・長屋門・米蔵・衣装蔵・納屋・井戸屋形・腕木門・石垣
公開状況/非公開





 
三楽荘
(旧保澤家住宅)
登録有形文化財 (平成23年1月26日登録)
広島県庄原市東城町東城上町345
建築年代/明治24年(1891)
用途区分/商家(醤油醸造業・呉服商・旅館)
登録範囲/本館・離れ・茶室・土蔵・門及び塀
公開状況/公開






三上家住宅 無指定・公開 【殿敷】
広島県三次市作木町岡三渕269

建築年代/江戸時代後期
用途区分/農家(庄屋・割庄屋)
残存建物/主屋・表門・土蔵
公開状況/公開(公民館とし活用)
県北の中心都市・三次の更に北方に位置する旧作木村は島根県との境界に位置し、殆ど平地の無い山ばかりの村である。当住宅は江の川の支流・砂井谷川上流部に所在する庄屋屋敷で、当家の周囲にのみ僅かな田地が拓かれている。当家の由緒は古く、近隣にあった五原山城主の末裔とされ、16世紀初頭に戦に敗れ、当地に逃れて帰農したとのことである。屋敷には現在、主屋と表門、土蔵が残るばかりであるが、以前には客殿や厩を備えていたらしい。小高い丘陵地の端部に石垣を築き、集落を見晴らすかのように構える屋敷は中世居館の風情を醸している。険しい山中にありながら、厳かにして凛と立つ姿に近世民家とは異なる風情を感じてしまう。
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望月家住宅 無指定・公開  【海と島の歴史資料館】
広島県豊田郡大崎上島町東野2721-1

建築年代/明治14年(1881)
用途区分/廻船問屋
残存建物/主屋・長屋門
竹原の沖合に浮かぶ大崎上島に所在する大邸宅である。竹原港からフェリーに乗ること30分程で大崎上島の白水港に到着する。そこから更に南へ15分程歩いた東野の小集落に差しかかると長大な長屋門とその背後に聳える本瓦葺の入母屋屋根の巨大な主屋が否応なしに目に飛び込んでくる。江戸末期から明治にかけて一代で瀬戸内有数の廻船問屋を築きあげた望月東之助氏が6年の歳月をかけて建築したというもので、明治期の建物ながら全く奇を衒ったところのない正当な伝統建築である。実に美しい。
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神田家住宅 無指定・公開  【三永歴史民俗資料館】
広島県東広島市西条町下三永930 (昭和51年移築)
旧所在地・広島県賀茂郡福富町久芳

建築年代/江戸時代末頃
用途区分/農家
残存建物/主屋・土蔵
公開状況/公開(平日のみ)
山陽新幹線の東広島駅の裏手、東へ2km弱程の所にある三永小学校の校門脇の丘陵地に移築されている農家建築である。そもそもは現在地より15km程北方の穏やかな山間部に所在していたが、昭和51年に移築され歴史民俗資料館として活用されている。詳細は不明であるが、その規模・造作から一般的な農家であったと思われ、建築年代も江戸時代末頃と推測されている。小規模な住宅ながら簡単ではあるが式台を構え、座敷まで設える造作は、なんとも健気なものである。
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南家住宅
(南薫造記念館)

無指定・公開 【安浦歴史民俗資料館】
広島県呉市安浦町内海3174-1

建築年代/江戸時代後期
用途区分/地主・医家・画家
残存建物/主屋・蔵・アトリエ
晩年に瀬戸内の風景を数多く描いたことで知られる洋画家・南薫造氏の生家である。現在は南薫造記念館として画伯の数多くの作品と共に歴史民俗資料館として若干の農具等が併せて展示されている。竹原と呉を結ぶ旧国道185号線沿いに所在する当住宅は江戸期からの地主であった繁栄振りを今に伝えるもので、桟瓦葺きに白壁が眩しい主屋の座敷からは、美しく整った前庭が臨まれる。画伯の父親が医者であった頃の待合や画伯のアトリエが別棟で残るなど、家の歴史も辿ることができる住居である。
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古今庵  無指定・公開
広島県沼隈郡沼隈町常石1811

建築年代/不詳
用途区分/不詳
残存建物/主屋
公開状況/公開(但し常時開館していない)
道の駅アリストぬまくま内に「沼隈むかしくらし生活体験館」と称して移築されている小規模な住宅である。残念ながら由緒・来歴は一切不明である。屋根は茅葺ではなく麦藁葺で、この辺りの一般的な葺き方であったらしい。耐用年数が短く、頻繁に葺き替えなくてはならないが、周辺で茅が採れなかったら仕方がないねえ。


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