頼惟清旧宅
Rai tadasuga former house



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広島県指定史跡 (昭和32年9月30日指定)
広島県竹原市竹原町本町3-12-21
建築年代/天明年間(1781-1789)・安永4年(1775)
用途区分/商家(紺屋)
残存建物/主屋
公開状況/公開
昨今の歴オタや歴女といった言葉に象徴されるように、意外に日本人は歴史好きな民族の様であるが、幕末から明治にかけて最も多くの人々に読まれた歴史書、維新の原動力となった尊王攘夷運動に大いに影響を与えたとされる「日本外史」という書物を読んだことのある方が今の世にどれほど居られるであろうか。少なくとも漢文で書かれているので、漢文そのものが義務教育の学習指導要領から外され気味となりつつある現代においては、余程に教養のある方でないと、そもそも序文を読むことさえ難しいかもしれない。しかし昔の人は偉かった。なんてったってベストセラーである。「日本外史」は平安末期の源平時代から足利、織田、豊臣、徳川へと連なる武家政権の成り立ちを綴った読み物で、時の政権中枢にあった老中・松平定信に献上され、その内容が認められたという私製の歴史書である。この書物に対する評価は、今の世では様々であるが、少なくとも幕末から維新を経て明治から戦前に至るまでの時期にあっては、当時の歴史観、国家観の大なる所を占めた皇国史観の形成に大きく寄与する好著とされ、武家政権成立の正当性を肯定しようとした作者の意図するところとは離れて万世一系の天皇家の存在を神格化させる根拠として祀り上げられる存在となった。この書物の作者は頼山陽。昭和世代には中学校の歴史教科書にその名が出てくるので見覚えがあるかもしれないが、筆者は、風呂場で「鞭声粛々夜河を渡る」と漢詩を高らかに吟じる戦前生まれの父親に頼山陽の「川中島」の一節だと教えられた幼い日の記憶がある。その頼山陽、結局のところ彼は戦前の急速な軍国化の流れの中で日本という国が皇国であることを根拠付けた立役者として、歴史家としての評価を不動のものにし、明治24年に正四位、昭和6年には従三位が追贈され、広島市内に所在した旧居は昭和11年、国の史跡に指定されるまでに至っている。少なくとも戦前においては、頼山陽の名は国の思惑も絡みつつ、全国的に知られるものだったのである。
さて前置きが長くなったが、当住宅は頼惟清の旧宅として国の史跡に指定されている。しかし地元に縁の無い方に尋ねれば、恐らく100人中100人の方が「頼惟清って誰だ」って答えるに違いない。もちろん私自身も知らなかった。実際のところ、当住宅を訪れる観光客の大半は、「誰の家だか判らないけれど、そこにあるので覗いてみた」という方ばかりであろう。当たり前である。頼惟清は頼山陽の祖父というだけで、決して世に際立つ偉業を成した訳でも無い人物なのである。300年以上も前に生きたそんな人物のことまで頭にインプットされている方が居られるならば、私はあなたを天才を通り越して異常だと思ってしまうだろう。頼惟清自身は染物屋(紺屋)を営んだ商人で、いわば市井の人である。恐らく自分の存在が、後世に至るまで語り継がれるとは、本人も露とも思ってもいなかったに違いない。ならば何故に頼山陽本人に直接関わるものであればいざ知らず、祖父の代に纏わる旧宅までもが史跡指定の対象となったのであろうか。この辺りの事情に疎い門外漢たる私にその謎が理解できたのは、昭和末年に至り、当住宅が所在する竹原町内に建つ頼春水邸と頼春風邸が共に国の重文指定を受けたときであった。塩田開発で大いに栄えたとはいえ、地方の在郷町に過ぎなかった竹原町内に頼惟清、頼春風(春風館)、頼春風(復古館)の同姓3軒の住宅が国の文化財指定を受けるという稀な事象。ついでながらに県北の三次市には頼杏坪邸が県の史跡指定を受けており、県内に4軒の頼家所縁の居宅が文化財指定である。当然ながらに各々の頼家の関係性に興味を持つのは当たり前の話である。本来であれば、一番のBig nameである頼山陽を中心に考えるべきであるが、長幼の序から話が面倒になるので当住宅の主である頼惟清から話を始めたいと思う。

頼惟清は、宝永4年(1707)に頼兼屋弥右衛門善祐の長男として竹原に生れた。頼家の祖先は小早川氏に仕え、三原の頼兼村に住んでいたと伝えられているが、惟清の曾祖父の時に竹原に移住して海運業を営み、祖父の頃に紺屋を始めたと伝えられる。惟清は3人の子を儲け、春水、春風、杏坪と名乗った。各々は学問の道を志し、春水は広島藩の儒者となった後に幕府の昌平坂学問所で講義するなど学者として名を成した人物。また春風は医者と儒学者となり、竹原の家を継いだ。杏坪は春水と共に広島藩の儒学者となり、三次代官となる。また広島藩の地誌である「芸藩通誌」を編纂するなどしている。この3人は後に「三頼」と称せられ、全国的に知られた兄弟とな。また春水の子供・山陽、山陽の子供・三樹三郎なども歴史上に名を残す人物を歴代輩出することになる。

重伝建地区に選定される竹原町内に所在する商家建築である。江戸後期に「日本外史」を著し、維新の尊王思想に影響を与えたことで知られる頼山陽の祖父にあたる頼惟清がここで紺屋(染物業)を営んだ由緒により史跡指定されるが、惟清は天明3年(1783)に没しているので当住宅に住まいしたのは最晩年の僅かな期間のみであったことになる。通りに面して入母屋妻入の主屋が建ち、その南側に切妻の角屋を突き出し座敷とする。屋敷裏手には井戸や干し場の広い空間が設けられ、紺屋らしい風情を醸している。

 





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