頼杏坪旧宅
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広島県指定史跡 (昭和12年5月28日指定)
広島県三次市三次町1828-2
建築年代/江戸時代(文政11年以前)
用途区分/武家(町奉行役宅)
残存建物/主屋
公開状況/非公開

「日本外史」の著した尊王思想家・頼山陽は歴史教科書にも名を残す程の人物であるが、広島県北の人々にとっては彼の叔父である頼杏坪の方が遥かに敬慕すべき存在であったに違いない。杏坪は若くして広島藩の儒学者として登用されたのち、老年に至っては県北地方の郡代官を務めた人物で、彼が村民に対して執った善政の数々は各所に未だ逸話として伝承されている。当住宅は彼が郡代官から三次町奉行に異動となった文政11年(1828)から3年間住まいした役宅で、「運甓居」と称されている


頼杏坪
竹原に今も残る紺屋商(染物業)の頼又十郎惟清(タダスガ宝永4年(1707)-天明3年(1783))の三男として生まれる。長男は頼春水で大阪へ遊学して朱子学を究め、広島藩学問所教授として活躍、その息子が「日本外史」を著した頼山陽である。次男は頼春風で医師となった。現在の重文・頼家住宅の祖である。そして三男が頼杏坪である。

29歳で藩儒を務めた秀才で、修史局を総裁して、芸藩通志159巻を編纂。
文政11年(1828)より3年間に亘り、三次、恵蘇、三上、奴可の代官を務める。(250石)
55歳にして郡方局所詰となり地誌を著し、72歳〜75歳にして三次町奉行を務める。
  



 

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