長崎県の民家
総じて長崎県の建造物はやはり教会や洋館などの洋風建築や中華風要素を取り込んだ寺院建築に特徴があり、民家としての文化財指定は極端に少ない。実際、茅葺の民家などは殆ど残されていない。近年に登録文化財制度を利用する事例が相次ぎ、文化財民家は増えたものの、地域おこし的な制度利用といった側面が大きく、真に文化財的な価値を持った民家はやはり少ないように思われる。しかし、そんな中でも対馬への訪問はお勧めしたい。対馬は藩政時代には対朝鮮外交の窓口として活躍した宗家の藩領であるが、耕作地が乏しく、領内各地に武家を散住させたという背景があり、彼らの住宅遺構が意外に残されているのである。また各地の民家園などに移築され目にすることの多い石屋根倉庫も島南部には結構残されており、現役で活躍する姿をみることができ、なかなか面白い。 |
本田家住宅 |
国指定重要文化財 (昭和44年6月20日指定) 長崎県長崎市中里町1478 建築年代/江戸時代中期 用途区分/農家 指定範囲/主屋 公開状況/公開 長崎市中心部から東に10km程離れた郊外の谷間に所在する農家建築で、旧長崎街道(現・国道34号線)の南側の山裾に隠れる様に建つ。当住宅の最大の特徴は茅葺の庇にあり、大屋根のみならず庇も茅葺とする例は佐賀県では確認されているが、県下では唯一の例である。大屋根と同素材の庇では屋根の傾斜角を極端に変えることも能ず、錣葺に似た外観は非常に魅力的である。また内部においては竹材が多用されており、畳敷き座敷の床にまで用いられる例は珍しく、地域色に富んだ建物である。 ▼個別解説ページへ(制作中) |
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主藤家住宅 | 国指定重要文化財 (昭和44年3月12日指定) 長崎県下県郡厳原町豆酘2752 建築年代/江戸時代末期 用途区分/農家 指定範囲/主屋 公開状況/非公開 九州と朝鮮半島の間に跨る日本海に浮かぶ対馬島の最南端、豆酘集落に所在する農家建築である。対馬は他に例を見ない石屋根倉庫群の所在地として有名であるが、民家にも本土とは異なる独特の風情があり、集落全体の様子もどこか異国情緒を醸し、興味深い土地である。、当住宅はかなり堅牢な建前で農家といえど上層に分類される家格であったと推測されている。平地が貴重な土地柄故に屋敷地はさほど広くないが、棟高を抑えた本瓦葺の屋根や屋敷を囲む石垣塀など、全体に重厚な雰囲気が漂う。 ▼個別解説ページへ(制作中) |
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鍋島家住宅 | 国指定重要文化財 (平成19年6月18日指定) 長崎県雲仙市国見町神代丙103-1 建築年代/昭和5年(1930) 用途区分/旧邑主 指定範囲/主屋・御座敷・隠居棟・土蔵・長屋門・石垣 公開状況/公開 佐賀藩主鍋島家の分家・神代鍋島家の大邸宅である。佐賀藩はその成立過程から領土支配体制に中世的なモノを温存し、近世では家臣に対する俸禄は蔵米知行が一般的であるところを地方知行としたため、領内各所に在地の邑主と呼ばれる「お殿様」が残居した。当家もそうした存在で神代郷5512石を領した。住宅は中世の鶴亀城二ノ丸跡の高台に所在し、竪馬場の奥に長大な長屋門を構える様子は陣屋建築の系譜を引くものである。主屋の唐破風玄関も近代の建物ながら旧邑主家の格式を見事に演出している。 ▼個別解説ページへ(制作中) |
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五島家住宅 | 国指定名勝 (平成3年11月16日指定) 長崎県五島市池田町7-1 建築年代/文久元年(1861) 用途区分/藩主隠居屋 残存建物/隠殿・玄関棟・稽古所門・神様の間棟 公開状況/公開 【石田城五島氏庭園】 福江藩主・五島家は中世以来、西海に浮かぶ五島列島を連綿と支配し続けた名門でありながら僅か12500石の小藩であったため、西の果てに位置する地理的制約から藩政期を通じて常に財政は困窮を極めた。しかし幕末になって近海に異国船が頻繁に出没するようになると、海防の為にそれまでは陣屋であった居処を、本格的な城郭へと改めることとする。これが北海道の松前城と共に幕藩体制下における最後の築城として知られる石田城である。当住宅は城郭の西隅に当たる搦手門付近に第30代藩主・五島盛成公が自らの隠居屋敷として築城と並行して整備した住宅で、隠殿屋敷と称せられた。建物の規模は隠居屋故に簡素なものであるが、内部の設えについては意外に遊び心に溢れたもので、本丸内に築かれる御殿建築にありがちな定型的なものでは決してない。 ▼個別解説ページへ(製作中) |
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松浦家住宅 | 長崎県指定文化財 (平成22年3月5日指定) 長崎県平戸市鏡川町12 建築年代/明治26年(1893) 用途区分/旧藩主 指定範囲/千歳閣・九皐斎・玄関 公開状況/公開 藩政期において肥前国北松浦郡と壱岐国を領有した平戸藩松浦家は中世から連綿と歴史を紡いできた由緒深い家柄である。鶴ヶ峯邸と称される当住宅は明治維新後に旧藩主家の住宅として東に平戸湾を臨む高台に整備された大屋敷であるが、そもそもは鎌倉時代初期に当家が最初に居を構えた屋敷地で、その後に関ヶ原合戦で西軍に味方した当家が幕府に対する遠慮から平戸城を自ら破却し元禄年間に再建するまでの藩政初期に拠点とした場所でもあった。近代和風建築ながら藩政期の趣を醸す建物群である。 ▼個別解説ページへ(制作中) |
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楠本家住宅 | 長崎県指定文化財 (平成17年3月25日指定) 長崎県大村市玖島2-291-4 建築年代/明治3年(1870) 用途区分/旧武家・明治期高級官僚 指定範囲/主屋・離れ(屋敷地は大村市指定史跡) 公開状況/公開 大村藩28000石の城下東郊に所在する武家屋敷である。明治初期に新潟県令、東京府知事等を歴任した後、第一回総選挙により衆議院議員となり、最終的には衆議院議長、華族(男爵)に列せられた楠本正隆が建てた住宅で、彼が長崎府判事であった明治3年の建築であるため、正確には武家住宅の系譜を引く建築として評価される。楠本家は知行60石の馬廻役を務めた中級武士の家柄に過ぎないが、主屋に畳敷の入側を廻らせた15畳の座敷を設える過分とも云える建前は、やはり維新後の建築故である。 ▼個別解説ページへ(制作中) |
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益富家住宅 | 長崎県指定史跡 (平成20年2月22日指定) 登録有形文化財 (平成16年11月29日登録) 長崎県平戸市生月町壱部浦182-1 建築年代/嘉永元年(1848) 用途区分/漁家(鯨組船主) 登録範囲/主屋・座敷・御成門・恵美須神社 公開状況/非公開 平戸島の更なる奥にある生月島に所在する漁家屋敷である。但し漁家と云っても江戸期の全国長者番付に大関級で幾度も名を連ねた豪家で、「西海捕鯨の雄」と謳われた益富組の組主の居宅である。その全盛期には使用船数200余艘、3000余名の加子を持ち、享保から万延期までの130年余の間に21700余頭の鯨を捕獲し、収益は実に金330万両に及んだと云う。鯨の解体作業は納屋場と呼ばれる浜辺の別建物で行われたため、屋敷規模は決して大きくはないが、離島に稀なる存在であることは間違いない。 ▼個別解説ページへ(制作中) |
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山下家住宅 | 長崎県指定文化財 (昭和50年1月7日指定)【モト蔵のみ】 長崎県指定史跡 (平成10年2月18日指定) 【江迎本陣跡】 長崎県佐世保市江迎町長坂字長浜208 建築年代/天保元年(1830) 用途区分/酒造業・本陣 指定範囲/モト蔵のみ県指定文化財 公開状況/外観自由・内部は要予約 県北の佐世保と平戸の中間位置に所在する旧本陣を務めた酒造屋敷である。平戸藩主・松浦公の長崎警備時の参勤交代路である平戸街道に西面して建つ住宅は屋敷の北半分を本業である酒造の用途に充て、南半分が本陣としての役儀部分に割かれている。酒造施設としては酒の原料となるモトを造るため温度管理が容易なモト蔵が残り、屋敷内最古の元禄年間に建てられ建物として文化財指定されている。また本陣部分としては天保年間に改築された8畳2間の書院座敷や御成門等の建物が残る。 ▼個別解説ページへ(制作中) |
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楠本端山旧宅 | 長崎県指定史跡 (昭和43年12月23日指定) 長崎県佐世保市針尾中町1647 建築年代/天保3年(1832)・明治初年に平戸より移築。 用途区分/学者(平戸藩儒家) 残存建物/主屋・冠木門・祠堂・納屋 公開状況/非公開 佐世保市南部、大村湾の入口に浮かぶ針生島に所在する旧平戸藩の儒学者・楠本端山の旧宅である。幕末の文政11年に平戸藩在郷藩士の家に生まれた端山は、藩校維新館で学び江戸に留学、帰藩後は教授となり維新の揺籃期にあって藩論を儒学思想に則り尊王へと導いた人物である。維新後には平戸藩権大参事を務めたこともあったが、明治16年に隠退した後は当屋敷で私塾・鳳鳴書院を開き、多くの有用な人材を育てた。住宅は端山の父・養斎が建てたもので、座敷奥に祠堂を設ける点が儒家らしい。 ▼個別解説ページへ(制作中) |
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松園家住宅 | 五島市指定文化財 (平成4年6月24日指定) 長崎県五島市武家屋敷2-2-7 建築年代/文久3年(1863) 用途区分/武家(知行50石程度と推定) 指定範囲/不定 (主屋・薬医門・石塀が残存) 公開状況/外観のみ公開 日本列島の最西端の島、東シナ海に浮かぶ五島列島の南端にある福江島に所在する武家住宅である。福江藩五島家12500石の城下町として発展した福江の旧市街であるが、日本最後の近世城郭として北海道の松前城と共に整備された石田城の西方に当たる当住宅が残る旧南町一帯は江戸初期における「福江直り」と称される在郷家臣の城下集住策により本格的に整備された一画で、主に中下級武家が住まいした。人の背の高さを超える切石積の石垣塀によって囲まれた屋敷は正面に薬医門を開き、主屋は千鳥破風に蛙股付の式台玄関を構える瓦葺切妻造平入の建物。主屋の建坪こそ30坪程度と大きくはないが、知行50石程の武家住宅とは到底思えぬ程の格式高さである。 ▼個別解説ページへ(制作中) |
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早川家住宅 | 諫早市指定文化財 (平成5年7月23日指定) 長崎県諌早市小野島町2232 (干拓の里内に移築) 旧所在地・長崎県諫早市赤崎町847 建築年代/明治7年(1874) 用途区分/旧武家 指定範囲/主屋 公開状況/公開 開門か閉門か泥沼の訴訟合戦に陥り収拾の目途が立たない諫早湾干拓事業。当住宅は諫早市街郊外に干拓事業に対する理解を深めてもらおうと整備された「干拓の里」と称する啓蒙施設内に移築される旧庄屋建築である。そもそもは諫早市赤崎町に在ったもので、移築前の所有者は第9代市長を務めた早川員氏。住宅は明治期の廃藩置県後の建築ゆえに、農家でありながら武家風を存分に取り入れた設えとなっている。農家建築には珍しく二階建となっており、採光を重視し、居心地にも配慮した造りが非常に良い。 ▼個別解説ページへ(制作中) |
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志自岐家住宅 | 平戸市指定史跡 (昭和63年6月28日指定) 長崎県平戸市岩の上町1130 建築年代/天保年間(1830-1844) 用途区分/武家(家老格400石) 指定範囲/住宅・門・使用人部屋・茶製造所 公開状況/非公開 平戸島の南端に志々伎山という烏帽子状の姿際立つ山がある。古来より海上航路の目印として崇めらたとのことで、この霊峰を祀る志々伎神社は延喜式に名を連ねる程の有力社であった。その名を苗字に戴く当家は、当然神社とは深い関わりを持つ家柄で平戸藩松浦家中においても決して軽んじることのできない存在であったに違いない。当住宅は平戸城下に所在する武家屋敷であるが、整然とした城下町のイメージとは真逆の自然地形の中に在り、鬱蒼とした南国樹林に埋没するかのようにひっそりと佇んでいる。 ▼個別解説ページへ(制作中) |
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冨岩家住宅 | 壱岐市指定文化財 長崎県壱岐市勝本町布気触324-1 旧所在地・長崎県壱岐市勝本町新城西触921 建築年代/江戸中期(18世紀) 用途区分/郷士(百姓武家) 公開状況/公開 (壱岐風土記の丘内) 玄界灘に浮かぶ壱岐島の中央部に所在する壱岐風土記の丘に移築復元された建物である。そもそもは壱岐島北端の勝本港から南東の山間に少しばかり入った壱岐商業高校近くに所在していた。壱岐地方の農家の屋敷構は、主屋を中心に隠居棟、牛小屋、納屋などが一直線上に配置されるというものを典型とするが、時の流れと共に島でも次第にその姿は失われつつある。当所では、そうした屋敷構の風景が再現されるが、主屋を除いた附属の建物は全て新築復元である。できれば寄せ集めでも良いから、島内各所から本物を移築復原して欲しかった。住宅は正面に式台玄関を構えることから相応の家格であったと窺え、庄屋役を務め、武士でもあったと地元の方はおっしゃっていた。規模も平均的な民家よりも大きく、造作もしっかりとしたものとなっている。 ▼個別解説ページへ(制作中) |
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長与専斎旧宅 | 大村市指定史跡 長崎県大村市玖島2-1030-1 (移築) 旧所在地・長崎県大村市片町 建築年代/天保初年(1830頃) 用途区分/医家(大村藩医) 指定範囲/主屋 公開状況/外観公開 長与専斎は明治初期の西洋医学界で活躍した人物で、大阪の適塾で蘭学を学び、長崎医学校学頭、文部省の初代医務局長、東京医学校の校長等を歴任し、近代医療制度の基礎を築いたことで知られる偉人である。現在、国立大村病院の敷地内に移築されている当住宅は彼の祖父で大村藩の藩医を務めた長与俊達が建てたもので、幼少期の専斎もこの家で過ごしたとのこと。そもそもは大村城址の北東方向に在る片町の海岸沿いに建ち、「宜雨宜晴亭」と呼ばれていたそうである。 ▼個別解説ページへ(制作中) |
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松本家住宅 | 登録有形文化財 (平成21年11月2日登録) 長崎県壱岐市勝本町勝本浦158-3 建築年代/明治45年(1912) 用途区分/商家(薬局) 登録範囲/店舗兼主屋 公開状況/非公開 壱岐島の北端に位置する勝本浦は、古代より朝鮮半島との往来により栄えた土地柄とされているが、江戸期の朝鮮通信使が投宿してより幾星霜、嘗ての面影は殆ど残されていない。現在は漁港として命脈を保ってはいるが、何度訪れても町はひっそりと静まり返っている。当住宅は湾に沿って連なる町家群の東端近くに所在する。周囲の建物の殆どが建て替わっているので、現在では異質な趣は薄れてはいるものの、嘗ての伝統的な町家が並んでいたであろう時代には、相当に目を引く建物であったに違いない。建物の両側面を煉瓦塀とし、これを前面に張り出す形で卯建も兼ねさせている。1階は出格子を設えた和風の意匠ながら、2階をモルタル塗りに目地を切り石積風に仕上げて洋風とするが、開口部は銅板の両開き戸を採用し土蔵風。外に向かって開かれた港町には期せずして面白い建物があるものである。 ▼個別解説ページへ(製作中) |
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熊本家住宅 | 登録有形文化財 (平成26年10月7日登録) 長崎県壱岐市石田町石田西触字白水1486-1 建築年代/昭和16年(1941) 用途区分/実業家 登録範囲/主屋・門・石垣 公開状況/非公開 |
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梅ヶ枝酒造 | 登録有形文化財 (平成14年3月12日登録) 長崎県佐世保市城間町317 建築年代/安政7年(1860) 用途区分/商家(酒造業) 登録範囲/主屋・住居・貯蔵蔵・瓶詰所・旧北蔵・旧仕込蔵・旧むろ 公開状況/店舗として営業中 国道205号線で大村から佐世保に向かう途中、ハウステンボス手前の長畑交差点を東に折れた田圃の只中に所在する酒造家の屋敷である。屋敷脇を流れる宮村川の氾濫に備え、周囲に石垣を築いて屋敷地全体を嵩上げし、更に酒造関連の建物群が主屋を囲むように廻る姿は恰も要塞島のような印象である。当家の創業は天明年間(1780年頃)と古く、当初は長野酒造店を称し「不老長寿」の銘柄酒であったが、現在は屋敷東方に臨む日石岳の山麓に所在する見事な梅林に由来する「梅ヶ枝」を採用している。 ▼個別解説ページへ(制作中) |
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橋口家住宅 | 登録有形文化財 (平成17年11月10日登録) 長崎県長崎市新牧野町285 建築年代/明治41年(1908) 用途区分/農家 登録範囲/主屋・倉庫 公開状況/非公開 旧西彼杵郡外海町の出津川北岸の傾斜地に営まれる農家建築である。一帯は角力灘に面して殆ど平地の無い交通不便な位置にありながら近世から畑作が行われてきた土地柄である。当住宅の最大の特徴は外壁に地元産の結晶片岩を積み上げ、石灰を混ぜた赤土で固めた練石積としている点にあり、この技法は明治12年に当地に赴任してきたパリ外国宣教会のドロ神父によってもたらされたため「ド・ロ壁」と呼ばれている。外国宣教師によりもたらされた建築技法が民家にも応用された例として稀有なものである。 ▼個別解説ページへ(制作中) |
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小野原本店 | 登録有形文化財 (平成19年12月5日登録) 長崎県長崎市築町3-5 建築年代/大正15年(1926) 用途区分/商家(からすみ販売) 登録範囲/店舗兼主屋・附属屋 公開状況/店舗として営業中 長崎市中心部に所在する築町は長崎県庁の東側に位置し、市内でも最も繁華な場所である。商店街の通りに面して建つ当住宅は、長崎の特産品であり、日本三大珍味として知られる「からすみ」の製造販売元として知られる名店で、大正10年に現在地で商売を始めたらしいが、創業は安政6年(1859)にまで遡る老舗でもある。住宅は黒漆喰の土蔵造風の重厚な外観を呈するが、内壁に煉瓦を使用した防火壁となっているとのこと。ちなみに「からすみ」は中国の墨=唐墨に形が似ていることがその名の由来らしい。 ▼個別解説ページへ(制作中) |
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佐藤家住宅 | 登録有形文化財 (平成9年12月3日登録) 長崎県長崎市西泊町66 建築年代/明治32年(1899) 用途区分/商家 登録範囲/主屋・木造別棟・木造附属屋・石造倉庫A・石造倉庫B 公開状況/非公開 藩政期に唯一の海外貿易港として開かれた長崎は馬蹄形をした天然の良港ではあったが、背後に山が迫り極端に平地の少ない土地柄である。それでも湾の東側には傾斜地を利用して旧居留地が設けられ洋館が建ち並ぶなど繁華な市街が形成されたものの、当住宅が所在する湾を挟んだ西側の対岸の侘しさは同じ長崎とは思えない程である。背後に迫る山の谷筋の谷間の僅かな海岸線まで山が迫る平地が貴重な場所ゆえ、屋敷地は縦長三角の歪な形状で、細い路地に面して主屋を構え、背後に石造の倉庫や付属屋が並ぶ。近代に入ってからの建物らしく、主屋を取り囲む倉庫建築は煉瓦造である。 ▼個別解説ページへ(制作中) |
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加藤家住宅 | 登録有形文化財 (平成20年10月23日登録) 長崎県島原市有明町大三東戊字西川1216-1 建築年代/明治前期 用途区分/酒造業 登録範囲/店舗兼主屋・門・土塀・裏土塀・井戸 公開状況/非公開 島原市の北郊の旧有明町中心部に所在する旧酒造屋敷である。南北に伸びる旧島原街道に東面して建つ屋敷は、以前には街道を挟んだ東側の敷地に千石蔵、米蔵、煙突、門、塀など大正年間に増築された建物群が残されていて、かなり壮観な様子であったが、残念ながら近年取り壊され住宅団地となってしまった。嘗ては「あさひ登」という銘柄で相当な規模で造酒しておられた様だが、現在に残る主屋が如何に大規模なものとはいえ、往時の様子を窺い知るには少々物足りない状況。 ▼個別解説ページへ(制作中) |
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猪原金物店 | 登録有形文化財 (平成15年7月17日登録) 長崎県島原市上の町912 建築年代/万延2年(1861) 用途区分/商家 登録範囲/ 公開状況/店舗として営業中 島原城下を縦貫する旧島原街道沿いに東面して建つ商家建築である。明治10年創業の当家は、現存する金物店としては九州で3番目に古い歴史を持ち、店内の商品には当主のこだわりが反映し、非常に希少な刃物類が所狭しと置かれている。こんなに面白い金物屋はちょっと他には無い。建物については南北二棟続きの表屋のうち北側建物が幕末の建築で当家が移り住む以前の建物、南側建物は明治後期、背後に続く母屋は大正期の建築と推定される。建物脇の井に湧水が溢れ出す様子も島原らしい風情である。 ▼個別解説ページへ(制作中) |
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清水家住宅 | 登録有形文化財 (平成15年7月17日登録) 長崎県島原市上の町865 建築年代/明治後期 用途区分/商家 登録範囲/主屋 公開状況/非公開 島原城址東方の森岳商店街に所在し、島原街道に西面して建つ平入つし2階建の商家建築である。屋号は「角の新宅」と云い、明治期の当主は島原新聞の創設者・清水繁三氏であった。江戸期の島原の大型町家は上手の座敷前に塀で囲んだ坪庭を設けることが一般的であったが、当家は前全面に下屋を葺き下ろし、嘗ての坪庭部分を居住空間に取り込む形となっている。これを島原における近代町家への変遷過程が見て取れるものと評価する向きもあるが、一方で島原町家としての独自性は薄れている訳でもある。 ▼個別解説ページへ(制作中) |
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保里川家住宅 | 登録有形文化財 (平成15年7月17日登録) 長崎県島原市上の町882 建築年代/江戸時代末期 用途区分/商家 指定範囲/主屋 公開状況/非公開 島原城址の東側を通る島原街道に西面して建つ商家建築である。白漆喰も眩しく、瓦屋根も全て新しく葺き替えられているため、一見すると古さを感じさせないが、上手の座敷前を塀で囲み、前庭を設ける造作は江戸末期から明治初期の島原の大型町家に見られる特徴である。屋号は平戸屋を称し、明治43年には旅籠として使用されていたことが確認されているが、通し柱の継足痕から、後年2階を嵩上げして客室を増やす改造がなされたと推測されている。建ちが高く近代町家の様相を呈するのは、それ故であろう。 ▼個別解説ページへ(制作中) |
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鵜殿家住宅 | 登録有形文化財 (平成20年10月23日登録) 長崎県島原市上の町868-1 建築年代/天保13年(1842) 用途区分/商家(当初の所有者・中村家は薬種問屋) 登録範囲/旧主屋・主屋 公開状況/店舗として営業中【幻燈舎】 島原城址の東方、森岳商店街に所在する商家建築である。当住宅の辺りから西方の坂上を見上げると、驚く程の近さに島原城の天守閣を臨むことができる。城の中枢建物と町場がこれほど接近している例は、かなり珍しいのではないかと思うが、島原藩の石高規模を考えたとき、過ぎたる城郭の存在が異例なのであって、町の規模としては妥当なところであったのかもしれない。いずれにせよ為政者と商人間の距離は自ずと近く成らざるを得ず、当住宅の建築主であった中村家は薬種問屋や木蝋商により財を成し、幕末には藩に産業振興策を提言するほどの存在であったらしい。住宅は島原街道に西面し、北側に現存する町家としては島原最古の旧主屋を、南側に大正期建築の主屋を並べて配置する。少し以前には主屋の背後に土蔵も残され文化財登録されていたが、解体により令和元年9月30日に登録抹消されている。 ▼個別解説ページへ(製作中) |
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西川家住宅 | 登録有形文化財 (平成20年11月10日登録) 長崎県島原市白土町1062 建築年代/明治42年(1909) 用途区分/農家 登録範囲/主屋 公開状況/非公開 江戸初期に発生した雲仙岳噴火による島原城下の大災害、いわゆる「島原大変」で突如として出現した白土湖の東方に所在する商家建築である。島原街道に東面して建つ近代町家で、屋号は「あめや」を称し、当初は農業を営んでいたらしい。主屋が完全な町家形式であるため、まさか農家であったとは想像がつかないが、背後に納屋や畜舎などの建物が並ぶのはその証左であろう。当家の一帯には江戸末から明治初期建築の大型町家が数軒残されており、島原の町家建築を知るには是非押さえておきたい場所である。 ▼個別解説ページへ(制作中) |
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小早川家住宅 | 登録有形文化財 (平成24年2月23日登録) 長崎県島原市城内2-1013 建築年代/明治23年(1898) 用途区分/旧武家(藩老連判役・知行300石) 登録範囲/主屋・門・石塀・煉瓦塀 公開状況/非公開 島原城跡の北側に位置する三之丸外曲輪の一画に所在する旧武家住宅である。周辺は上級武家屋敷街で、当住宅も元治2年(1865)の島原藩士屋敷図によると島原藩老で連判役を務めた佐野勇太郎の邸宅であったことが判明している。敷地は東西40m、南北45mの正方形に近い形状で、外周を高石垣で囲み、東側に薬医門を開く。主屋は座敷棟と玄関棟、台所棟が雁行状に配置されている。また主屋座敷から眺められる湧水を利用した池泉庭園は近世の作庭と判断され、国登録記念物(名勝地)となっている。 ▼個別解説ページへ(制作中) |
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大曲(敦)家住宅 | 登録有形文化財 (平成16年6月24日登録) 長崎県平戸市岩の上町1172-1 建築年代/大正13年 用途区分/旧武家地の系譜を引く 登録範囲/主屋・石段及び石垣 公開状況/通常非公開 平戸大橋の架橋によって普段は意識することもないが、九州の最西端に位置する平戸は島である。それ故に海に囲まれた平戸城下は周囲を武家地で固めるという意識が乏しかったのであろうか、町は単なる港町の風情でしかない。当住宅が文化財登録されたことによる。平地の少ない平戸では他藩の武家地に見られるような整然と区画された様子とは大きく異なり、山の等高線に沿って屋敷は点在している。また島の気候的特性として風が強いこともあり、建物は平屋建が多く、屋敷地を防風林で囲んでしまう傾向もあるため、建物が自然に埋没し、隠れてしまっているのである。独特の風情である。当家の建物は大正13年の建築で決して古いものではないが、床面積の少なくない部分が庭に面した座敷空間に割かれている。庭園には裏山の傾斜を上手く利用して平戸ツツジや桜の木が植えられており、座敷からの眺めは野趣に富んだ素晴らしいものである。4月の中旬のツツジの季節には庭園が一般に公開されるので、遠方ではあるが一度足を運んでみると良い。 ▼個別解説ページへ(製作中) |
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大曲(公)家住宅 | 登録有形文化財 (平成17年2月28日登録) 長崎県平戸市岩の上町291 建築年代/江戸時代後期 用途区分/武家 登録範囲/主屋・石段及び石垣 公開状況/非公開 平戸城址南方の丘陵地に所在する旧武家屋敷である。当住宅に隣接し、同時に文化財登録された大曲(敦)家や内野家と共に往時の武家屋敷の風情を今に伝えている。低く自然石を積み上げた石垣に槙の生垣を廻らせる屋敷の風情は、武張ったところが微塵もなく、南国特有のゆっくりとした時間が流れている様子である。大正5年に平戸藩で茶の指南役であった現所有家が当住宅を入手したとのことであるが、主屋は幕末期の建物と推定される。座敷から眺める平戸ツヅジの庭園が素晴らしい。 ▼個別解説ページへ(製作中) |
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内野家住宅 | 登録有形文化財 (平成17年2月9日登録) 長ア県平戸市岩の上町1165-1 建築年代/大正15年(1926) 用途区分/ 登録範囲/主屋・門及び土塀・煉瓦塀・石段 公開状況/非公開 |
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偕楽園 | 登録有形文化財 (平成17年12月26日登録) 長崎県平戸市明の川内町348 建築年代/天保10年(1839) 用途区分/藩主別邸 登録範囲/主屋・石垣・石塀及び石段・稲荷社 公開状況/公開 【梅ヶ谷津偕楽園】 松浦家61700石の平戸城下より少し南に下った平戸瀬戸に面する海崖上に建つ藩主別邸である。嘗て5代藩主・松浦棟(雄香公)が茶室が設けた場所に、江戸末期の天保年間、10代藩主・松浦煕(観中公)が改めて屋敷を整備したもので、単なる静養の場ではなく、殖産興業の実験場として活用することを意図した様である。何かと制約の多い城下を敢えて避けたものと思われるが、殿様自らが藩の商業化を主導した事実に驚かされる。建物は簡素ながらも藩主に関わるものだけに酒脱な造作が垣間見られる。 ▼個別解説ページへ(制作中) |
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旧角屋 | 登録有形文化財 (平成28年2月25日登録) 長崎県平戸市田助町字浦方68 建築年代/明治後期 用途区分/廻船問屋・旅館 登録範囲/主屋 公開状況/非公開 九州本土からは幅1kmにも満たない平戸瀬戸により切り離された平戸島の北方に位置する港町・田助に所在する旧廻船問屋・角屋の建物である。田助町は江戸初期の第4代平戸藩主・松浦鎮信(天祥公)が壱岐や小値賀から漁民を移住させて政策的に拓いた港町で、馬蹄形の湾の入口には防波堤の役割を果たすハゲ島が鎮座する天然の良港であったため、風待ち・潮待ちの地として次第に発展し、廻船問屋や船宿、遊郭などの建物が櫛比する町場へと成長することとなった。当住宅は湾形に沿って展開する集落の中程に在り、街道に西面して総二階建の曲屋形式の主屋を構える。中廊下を挟んで部屋を両脇に配置する間取りであることから、この建物が廻船業ではなく、旅館業に転業した後に建てられたものであることが判る。屋敷の背後は田助湾に接しており、雄大な海の景色を間近に堪能できる素晴らしい立地にある。 ▼個別解説ページへ(製作中) |
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永山家住宅 | 登録有形文化財 (平成25年12月24日登録) 長崎県平戸市田助町字浦方98-1 建築年代/明治37年(1904) 用途区分/商家 登録範囲/主屋・隠居屋 公開状況/公開 |
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今里家住宅 | 登録有形文化財 (平成18年3月23日登録) 長崎県東彼杵郡波佐見町宿郷596 建築年代/江戸時代後期(明和年間・1772年頃) 用途区分/商家(酒造業) 登録範囲/店舗及び住宅・本蔵・新蔵・中蔵・洗い場・製品置き場 公開状況/非公開 近年、磁器の産地として全国的な知名度を得つつある波佐見町の中心部に所在する酒造屋敷である。有田と川棚を結ぶ波佐見往還の宿駅として栄えた宿郷地区にあって、川棚川に南面する広い間口に白壁の主屋と酒蔵が並び建つ様子には品格が漂う。創業は江戸期の明和年間にまで遡る老舗であるが、現在の主力銘柄である「六十餘洲」という銘柄は近年の命名。今も現役で酒造を続けておられ、全日空の機内酒にも採用された純米酒は甘口ながら芳醇な香りですっきりした味わい。良い家に旨い酒あり。 ▼個別解説ページへ(制作中) |
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四明荘 (旧伊東家住宅) |
登録有形文化財 (平成26年4月25日登録) 長崎県島原市新町2-125-1 建築年代/明治後期 用途区分/島原藩奥医師の別宅 登録範囲/主屋・表門 公開状況/公開 【庭園は登録記念物】 島原という土地は1991年の雲仙普賢岳の噴火にみられるように、常に活火山の脅威に曝されてきた歴史を持つ。江戸期の寛政4年(1792)に発生した「島原大変」の際には、城下が土石流の下敷きとなり壊滅的な打撃を受けたらしい。その事実は人々には遠い記憶となった今でも、市内各所から噴き出す湧水の存在によって土地の記憶には刻み込まれている。日量1000tにも及ぶ無色透明の湧水池に迫り出すように数寄屋風の座敷を設える当住宅の演出は決して他所では真似できないもの。まさに島原大変の賜物である。 ▼個別解説ページへ(制作中) |
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しまばら湧水館 (旧三村家住宅) |
登録有形文化財 (平成26年12月19日) 長崎県島原市新町2-122 建築年代/昭和10年(1935) 用途区分/会社重役 登録範囲/主屋・石柱門及び石塀・煉瓦塀 公開状況/公開 島原城址南方の新町では、町内各所に湧水池が点在しており、水道の蛇口を捻って僅かな水を得ることが当り前の現代人にとって自らの意志で制御できない大量の水が敷地内に自噴している状況は少し怖いと感じる。しかし実際に湧水を目の前にしてみると、飽きない魅力があり、湧水を上手く屋敷内に取り込み「水屋敷」を建てたくなる気持が判らないでもない。当住宅は昭和初期の建築で、カラメル会社の重役(専務)さんの邸宅であったもの。建築的には決して珍しいものではないが、なかなかに良い風情である。 ▼個別解説ページへ(制作中) |
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松永家住宅 | 無指定・公開 長崎県壱岐市石田町印通寺浦360 建築年代/ 用途区分/酒造業 残存建物/主屋 公開状況/公開 【松永安左衛門記念館】 ▼個別解説ページへ(製作中) |
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岳中家住宅 | 無指定・公開 長崎県東彼杵郡東彼杵町彼杵宿郷 (移築) 旧所在地・長崎県東彼杵郡東彼杵町中岳郷 建築年代/明治中期 用途区分/農家 残存建物/主屋 公開状況/公開 (彼杵の荘歴史公園内) 諫早と佐世保の中間に位置する東彼杵町の歴史公園「彼杵の荘」に平成5年3月に移築された農家建築である。彼杵は長崎街道の宿場であるとともに長崎市北郊の時津港への舟行の湊町としても栄えた水陸交通の要衝地であるが、当住宅が所在した中岳郷は現在地より5km東方の山間部にあり、江戸初期に捕鯨業で財を成した深沢儀太夫家により新田開発された土地柄である。隣接する歴史民俗資料館が発行する冊子によれば、当家は米蔵や牛小屋など四棟の建物が並ぶ富農であったとのことである。 ▼個別解説ページへ(制作中) |
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永松家住宅 | 無指定・公開 長崎県雲仙市国見町神代丙地内 建築年代/1700年前後 用途区分/武家 残存建物/主屋 公開状況/不定期に公開 (雲仙市の公有化建物である) 島原半島の北部、平成17年7月に重伝建地区に選定された国見町神代小路内に所在する旧武家屋敷である。佐賀藩鍋島家の飛び地である神代周辺は、本藩初代の鍋島勝茂の伯父に当たる鍋島信房の所領地として発展した陣屋町で、特に神代小路は上級家臣団の住区として落ち着いた佇まいを今に伝えている。環濠集落となる住区内の南端に位置する当住宅は、主要道路である上小路に面して低く石垣を築き、その上に笹垣を廻らせた優しい印象を醸す上品な屋敷構えで、屋敷への入口には門を立てず笹垣で桝形を築いて玄関を直接望めぬ様にしているが、こうした奥床しさと寄棟造茅葺の曲屋形式を採る主屋の素朴さが相俟って、実に清々しく郷方の武士らしい居住まいの正しさが伝わってくる。昭和49年の民家緊急調査時の記録によれば、神代小路内に式台玄関を有する武家屋敷は古くは4軒のみであったの事であるから、当家は家臣団の中でも有力な地位にあったものと思われる。 ▼個別解説ページへ(製作中) |
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山本家住宅 | 無指定・公開 長崎県島原市下の丁1995 建築年代/明治元年(1868) 用途区分/旧武家(砲術師範) 残存建物/主屋・表門(長屋門) 公開状況/公開 深溝松平家66000石の居城・島原城の西側には徒士組屋敷の遺構が街路を挟んで町単位で残されており、当住宅はその最北端の東側角地に所在する代表的な旧武家住居である。当家は主家が島原就封となる以前の三河国吉田城主であった時代に召抱えられた家柄で、17石2人扶持を給され、鉄砲術師範等を務めたという。敷地や主屋の規模が殆ど同じで、表門も冠木門が一般的な徒士組家中にあって、当家では13代藩主忠和公から特別に許されたという長屋門を構え、主屋の規模も僅かながらに大きい。 ▼個別解説ページへ(制作中) |
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鳥田家住宅 | 無指定・公開 長崎県島原市下の丁1971-2 建築年代/慶応3年(1867) 用途区分/武家(7石2人扶持・材木奉行・代官) 残存建物/主屋・石垣 公開状況/公開 島原城の西方に位置する下の丁は徒士組の下級武士達が集住した一画で、街路の中央を流れる生活用水路と屋敷前に築かれた火山岩の切石積塀が独特の風情を醸す魅力的な場所である。当住宅は町内にある公開住居のうちの一軒で、表に冠木門を構え、主屋は角屋造の典型的な徒士組屋敷となっている。当家は藩主・深溝松平家の草創期から臣従した古い家柄で、俸禄は7石2人扶持と僅かながら幕末には御目見独礼格の格式を許され、材木奉行、宗内方加役、船津往来番などの重職を務めたという。 ▼個別解説ページへ(制作中) |
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篠塚家住宅 | 無指定・公開 長崎県島原市下の丁1996 建築年代/不詳 用途区分/武家(8石〜13石2人扶持・郡方祐筆・代官) 残存建物/主屋・石垣 公開状況/公開 島原城西方の徒士組屋敷が建ち並ぶ一画に所在する武家屋敷である。当家は藩主・深溝松平家が丹波福知山から島原に転封となった際に仕官し、明治維新に至るまで11代続いた家歴を誇りながらも「新参」に区分される家柄。郡方祐筆や代官等を務め、給米は当初の8石から13石2人扶持までに加増されている。しかし郡方とはいえ代官を務める程の立身出世を遂げながらも、僅か90坪程の敷地に曲屋造茅葺の主屋が建つだけの住居の粗末さに、新参小禄の下級武士の悲哀を感じる。 ▼個別解説ページへ(制作中) |
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しまばら水屋敷 (石川家住宅) |
無指定・公開 長崎県島原市万町513 建築年代/明治5年 用途区分/商家 残存建物/座敷棟・居間棟 公開状況/店舗として営業中 島原城址の東南隅から南進すると万町商店街へと繋がる。当住宅はその中程に茶房「水屋敷」の看板を掲げて所在する商家建築である。表屋は失われているが、脇にある簡素な格子戸を潜り屋敷内へと歩を進めると、奥には日量4000tにも及ぶ無色透明の巨大な湧水池が拡がり、隣接して和洋折衷の座敷棟が建つ。1階の和座敷が明治5年、2階の洋風部分は明治30年の増築で、藩政期から大正年間まで島原を拠点に活躍した豪商・中山家が建築したものらしい。島原名物の「寒ざらし」を頂きながら堪能したい。 ▼個別解説ページへ(制作中) |
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北村西望生家 | 無指定・公開 長崎県南島原市南有馬町丙393-1 建築年代/土間部分は江戸時代・座敷部は近年に復元。 用途区分/農家(庄屋・大地主) 残存建物/主屋 公開状況/公開 【西望公園】 大正・昭和期にかけて活躍した大彫刻家・北村西望の生家である。明治17年にこの地で生まれた西望は、京都市立美術工芸学校に入学するまでの19年間をこの家で過ごした。北村家は江戸期にこの地の庄屋を務め、大地主としても著名な家であった。大規模な主屋のうち、座敷部は西望の兄の子孫となる当主の政治活動資金捻出のために売却し失われていたが、近年になって復元された。旧来のままに残されていた土間部の架構は庄屋屋敷に相応しく圧倒的な規模である。 ▼個別解説ページへ(制作中) |
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本多家住宅 | 無指定・公開 長崎県雲仙市小浜町北本町923-1 建築年代/弘化元年(1844) 用途区分/湯守 残存建物/主屋・長屋門・石垣 公開状況/公開 【小浜歴史資料館】 島原半島にあって雲仙温泉と並び称される小浜温泉の発展の礎を築いた本多家の邸宅を小浜歴史資料館として活用・公開している。当家は江戸時代初期に小浜温泉の湯守として島原藩主から「湯太夫」の称号を与えられ、昭和初期に至るまでの間、小浜温泉の全てを取り仕切ってきた旧家である。山裾の高台に構えられた屋敷地には数多くの蔵や小屋、表座敷が建ち並んでいたらしいが、残念ながら今は主屋と長屋門だけが残されているに過ぎない。主屋内の土間境の柱や梁などは一般の民家には見られない程に豪壮な架構で、流石の建物である。 ▼個別解説ページへ(制作中) |