五島家住宅
Gotou



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国指定名勝 (平成3年11月16日指定)
長崎県五島市池田町7-1
建築年代/文久元年(1861)
用途区分/藩主隠居屋
残存建物/隠殿・玄関棟・稽古所門・神様ノ間棟
公開状況/公開 【石田城五島氏庭園】

福江藩主・五島家は宇久氏を称した中世以来、西海に浮かぶ五島列島を連綿と支配し続けた名門でありながら僅か12500石の小藩であったため、西の果てに位置する地理的制約も相俟って藩政期を通じて常に財政は困窮を極めた。しかし幕末になって近海に異国船が頻繁に出没するようになると、海防の為にそれまでは陣屋であった居処を、本格的な城郭へと改めることにした。これが北海道の松前城と共に幕藩体制下における最後の築城として知られる石田城である。江戸中期以降、大阪商人からも五島藩への貸金はお断りされる程に窮乏する中、築城に係る費用をどのように捻出したのか疑問に思うところではあるが、なかなかに立派な石垣普請であったことは今に残る遺構からも窺い知れる。恐らく10倍以上の石高を有する中藩でも、なかなかに出来ない規模の普請である。さて当住宅は城郭の西隅に当たる搦手門付近に第30代藩主・五島盛成公が自らの隠居屋敷として築城と並行して整備した住宅で、隠殿屋敷と称せられた。屋敷地は南北60m、東西に100m程の規模で、屋敷地の2/3を大きな心字ヶ池を伴った林泉回遊式の庭園が占める。一方、屋敷西寄りに築かれた建物の規模は隠居屋ゆえに簡素なものであるが、内部の設えについては意外に遊び心に溢れたものとなっており、城郭の本丸内に築かれる役所機能を兼ねた御殿建築にありがちな定型的なものでは決してない。建物は隠殿と称される主屋部分に加え、玄関棟、神様ノ間棟(※)から成り、主屋内には正式な座敷となる亀の間、主人の間となる椿の間などが表庭園に面して配される。各部屋はその名称の通りに亀の間には亀を、椿の間には椿を表す釘隠や欄間模様があしらわれている。また壁に貼られた唐紙の意匠は意表を突かれる程に突飛なもので、その柄は亀の間には淡黄地に亀甲模様と雪の結晶を、椿の間には紺地に金泥の椿を配しており、前藩主の御座所となる格式高い御殿建築にこのような柄の唐紙が本当に使われていたのかと疑問に思う程のものである。格式の高い建築ながら意外に柔軟な発想も許された様であるが、これが隠居屋敷であった故なのか、あるいは建築主であった藩主・盛成公の趣向が強く顕れたものなのか、今となってはよく判らない。いずれにせよ、御殿建築を見る際に、あるべき姿を思い描きがちなステレオタイプ的な自らの凝り固まった頭を反省する思いにかられる建築である。





※本当にこの名称が正しいのかは疑問である。部屋の入口には唐橋が架かり奇妙な設えである。主屋前面に突き出す形で配されており、庭園の池泉に最も近い場所になる。月見のための浮御堂のような役割を意図したのではないかと思われる)




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