熊本県の民家

一覧表掲載民家以外に熊本県には民家園として「肥後民家村」がある。

熊本県には民家を気軽に見学できる施設として肥後民家村がある。重文指定の境家をはじめ、新潟から移築した布施家住宅など充実した内容を誇る。また少し遠いが天草高浜の上田家住宅は庄屋屋敷として風格ある屋敷構えを残す。当家は高浜焼の窯元でもあるため、器好きの方には一石二鳥である。町並として往時の風情を面単位で残す地域は殆ど無く、残念である。
桑原家住宅 国指定重要文化財 (昭和48年2月23日指定)
熊本県球磨郡錦町一武狩政3195

建築年代/江戸時代(19世紀前半)
用途区分/郷士
指定範囲/主屋
公開状況/公開
県南の中心地・人吉から東へ10km足らずの田園地帯に所在する郷士住宅である。人吉盆地は周りを峻険な山に囲まれ、中世以来この地を領する相良家の下で独特の建築文化が醸成された土地として非常に魅力的な場所である。人吉盆地の民家の特徴として土間部分が前に突出する鍵屋造を挙げることができるが、当家の場合は居室部と土間部に別々の桁を架ける構造が採られていることから、二棟造の系統から鍵屋造へと発展したことを示す貴重な遺構とされている。
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太田家住宅 国指定重要文化財 (昭和48年2月23日指定)
熊本県球磨郡多良木町大字多良木447
建築年代/江戸時代(19世紀中頃)
用途区分/農家・造酒業
指定範囲/主屋
公開状況/公開
人吉盆地の東端に近い多良木町に所在する農家建築である。当家の祖先はかつて領主・相良氏に仕えた武士であったが、江戸時代初期、当地に帰農し、一時は焼酎作りを行っていたこともあるという。何ら予備知識を持たず建物内に入ると、奇妙な間取りに違和感を覚えるかも知れない。どうやら並立する座敷棟と台所棟を前後にずらしながら建て、2つの棟の間を納戸で繋ぐ独特の形式を採っているらしい。熊本地方の古い時代の建前である二棟造の名残を示す住宅だということである。
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江藤家住宅   国指定重要文化財 (平成17年12月27日指定)
熊本県指定文化財 (平成3年2月13日指定)
大津町指定文化財 (昭和56年9月1日指定)
熊本県菊池郡大津町陣内1652

建築年代/文政13年(1830)
用途区分/農家
指定範囲/主屋・長屋門・中の蔵・馬屋・裏門
公開状況/非公開
熊本と大分を結ぶ豊後街道の宿場町・大津町の郊外に所在する豪農屋敷である。そもそも当家は豊後の戦国大名・大友氏の家臣であったと伝えるが、主家没落後は当地に帰農・土着し、江戸初期からの藩による阿蘇山麓の新田開発と共に地主として急成長を遂げ、明治の最盛期には404町歩もの田畑を所有した。これは、即ち当家が西日本最大級の大地主であったことを意味し、屋敷はそれに相応しい大規模なものである。1887坪もの広大な敷地に床面積157坪に及ぶ重厚感溢れる主屋が鎮座する。
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細川家住宅 熊本県指定文化財 (昭和60年11月19日指定) 
熊本県熊本市古京町3-1
旧所在地・熊本県熊本市東子飼8-33
建築年代/不詳・明治初年に増改築
用途区分/武家(藩主親族・10000石)
指定範囲/主屋(玄関・表書院・御書院・春松閣)・茶室
公開状況/公開
平成5年9月に開催された「火の国フェスタ」に合わせて熊本城の北東約2kmにある子飼町から城内に移築された大規模武家屋敷である。当家はその名が示すとおり肥後藩主・細川家と縁戚関係にあり、3代忠利公の弟・興孝公を初代として分家、歴代当主は刑部や図書を名乗り藩の家老職を務めた。藩政期の当家の本宅は城内にあり、当住宅は「お茶屋」と称した別邸であったが、明治維新により城を出て以降は本邸として使用した。これほどの大規模な武家屋敷が現在まで残されていたことに驚かされる。
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伊藤家住宅 熊本県指定文化財 (昭和50年5月7日指定)
熊本県八代郡竜北町中網道1535-4
建築年代/嘉永5年(1852)頃
用途区分/干拓農家
指定範囲/主屋
公開状況/非公開 【台風被害後、解体されました】
八代平野は干拓の歴史である。格子状に拡がる直線道路が干拓造成の時期によって微妙にずれていることからもすぐに判る。当家の所在する中網道集落は海岸から4〜5km程も内陸に位置しながらも江戸時代後期までは海であった。住宅の建築は干拓の時期とほぼ同時期と推測されている。凹型屋根形状の後クド造で熊本県南部・佐賀県平野部で一般的な建前であった。目の前に広大な田園が拡がっているので敢えて屋敷地は広く取られていないが、主屋は干拓農家としては決して粗末なものではない。
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徳富家住宅 水俣市指定文化財 (昭和47年10月24日指定)
熊本県指定史跡 (平成9年10月20日指定)
熊本県水俣市浜町2-6-5
建築年代/寛政2年(1790)
用途区分/郷士・惣庄屋・代官
指定範囲/生家主屋・生家蔵・離れ・衣屋主屋・衣屋蔵
公開状況/公開 【徳富蘇峰・蘆花生家】
当住宅は水俣市のほぼ中心に位置する町家建築である。明治期の言論・文学界で活躍した徳富蘇峰・蘆花兄弟の生家として広く知られた存在であるが、実は県下でも最古の町家建築でもある。道路に面して二棟の建物が並立し、西側の妻入りの建物が徳富兄弟の生家である。ちなみに東側の平入りの建物は明治22年の建築で、徳富家が熊本市内に転居した後に当住宅を所有した西村家によって増築されたもの。旧徳富家側の建物には建築材として「タブノキ」が多用されており、とても珍しく素晴らしいもの。
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宮崎家住宅 熊本県指定史跡 (昭和48年8月27日指定)
熊本県荒尾市荒尾949-1
建築年代/
用途区分/郷士
公開状況/公開
明治時代の思想家・活動家として自由民権運動に奔走した宮崎八郎・民蔵・弥蔵・寅蔵兄弟の生家である。宮崎家は江戸時代初期に佐賀から当地に移住したのち、代々肥後細川家に仕えた郷士で、一領一疋といわれる肥後藩独特の地方支配制度の末端で地方官僚の任に当たった家柄である。明治期には山林60町歩、田畑50町歩ほどを所有する地主でもあった。屋敷は荒尾市役所の南東150m程の市内中心部に所在し、決して上等とは云えない主屋の他、内蔵、米蔵等が誇大な敷地内に残されている。
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堀内家住宅 熊本市指定文化財 (平成4年3月26日指定)
熊本県熊本市四方寄町1274
建築年代/文化6年(1809)
用途区分/在郷商人(庄屋・質屋・酒屋)
指定範囲/
公開状況/公開 【御馬下の角小屋】
福岡から国道3号線を南下、植木町を過ぎ熊本城址に通じる県道303号線との分岐近くに所在する商家建築である。当家は江戸時代初頭に出雲国松江城主の下を出奔、流浪の末に御馬下村に辿り着き帰農したことに始まるという。以後、御馬下村・上野村の庄屋役を務め、文政年間からは質屋・酒造等を営み帯刀差傘御免の特権を得るまでに成長する。屋敷は立地条件から参勤交代で街道を利用するする大名家の小休所にも充てられ、立派な座敷棟も併せ持つ大商家建築である。
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徳富家住宅 熊本市指定文化財 (昭和43年8月13日指定)
熊本県熊本市大江4丁目10-33
建築年代/江戸時代
用途区分/武家
指定範囲/
公開状況/公開 【徳富旧邸】
当住宅は明治の言論界・文学界で活躍した徳富蘇峰・蘆花兄弟が幼少期を過ごした家である。明治3年に兄弟の父・一敬が熊本藩庁に出仕するため故郷・水俣から移り住み、明治19年に一家を挙げて上京するまでの15年間をここで過ごした。そもそもは武家屋敷であったものを譲り受けたとのことであるが、決して規模の大きなものではなく贅を凝らしたものでもない。明治15年に蘇峰はこの地に大江義塾を開設し、民権運動の拠点とするなどその後の活躍の基礎となった住宅である。
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清田家住宅 旧富合町指定文化財 (平成18年12月20日指定)
熊本市指定文化財 (平成21年6月15日指定)
熊本県熊本市南区富合町釈迦堂字土位ノ内22
建築年代/明治9年(1876)
用途区分/地主(武家の系譜を引く)
指定範囲/主屋・長屋門・米蔵・外塀・内塀
公開状況/公開?
平成の町村合併により熊本市に吸収された旧富合町域に所在する地主住宅である。市の南部を流れる緑川の堤防下に在り、堤防道路を走っていると品格漂う大規模な屋敷は否が応でも目につく。そもそも当家は細川家が豊前国を領した頃に臣従したと伝える武家で、明治維新後に城下屋敷から知行地であった当地に移り住み、地主業に転じたとのことである。屋敷配置は武家屋敷の系譜を引くというよりも庄屋屋敷の風情であるが、屋敷正面に2階建ての長屋門を構え、武家時代の格式の高さが窺える。
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中園家住宅 宇土市指定文化財 (平成6年1月19日指定)
熊本県宇土市上網田町787-1
建築年代/天保8年(1837)
用途区分/在郷武家(窯奉行・御山支配役)
指定範囲/主屋
公開状況/公開 【網田焼の里】
宇土と三角を結ぶJR三角線のちょうど中間辺りに網田という駅がある。駅の東には農家が点在し、閑散とした雰囲気を漂わせているが、かつてこの里が網田焼で隆盛を極めた歴史を知る人は稀であろう。1792年に藩窯として始まり、一時は「磁器は肥後網田山を第一とする」と謳われたこともあったという。当家はその網田焼の窯奉行役や御山支配役を務めた在郷武家である。住宅は茅葺から瓦葺に改められる等の改造はあるものの、玄関や座敷を整える造作は格式の高さを窺わせてくれる。
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夏目漱石旧居 熊本市指定史跡 (昭和53年4月23日指定)
熊本県熊本市内坪井町4-22
建築年代/不明
用途区分/作家貸家(以前は武家住宅)
公開状況/公開 【夏目漱石坪井旧居】
当住宅は明治の文豪・夏目漱石が熊本で五高の英語教師として赴任した際に住んだ家である。熊本城の天守閣からは直線距離で500m程の位置に所在しており、漱石は4年3ヶ月に及ぶ熊本滞在中に実に6度も家移りをしているが、この家には5番目の明治31年7月頃から1年8か月間住まいした。元来は武家屋敷であったらしいが、大正4年に洋風の応接室を座敷脇に付属させるなど大幅な改造が施されており、当初の姿をどこまで残しているのかは不明である。校長に次ぐ給料を取るなど破格の待遇を受けた漱石に相応しい屋敷である。
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澤井家住宅 八代市指定文化財 (平成6年7月21日指定)
熊本県八代市西松江城町6-6
建築年代/慶応元年(1865)
用途区分/武家(用人・奉行)
指定範囲/主屋・長屋門・塀
公開状況/非公開
熊本藩の城代家老職を務めた松井家の居城・八代城址の西方150m程の市内中心部に所在する旧武家屋敷である。当家はそもそもは藩主細川家直参の武士であったが、松井家3代・寄之公との縁戚により江戸初期から松井家に仕えることとなり、用人・奉行などの要職を務めたという。東面する住宅は塗り壁を鼠漆喰で仕上げた武骨な長屋門を表に構え、僅かな前庭の背後に寄棟瓦葺平屋建ての主屋を配する。凹型平面の主屋は南側に奥座敷棟を突出させるが、武家住居としては珍しく2階建となっている。
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高田家住宅 宇城市指定文化財 (平成16年1月15日指定)
熊本県宇城市三角町三角浦
建築年代/明治20年代
用途区分/商家(旅館業)
指定範囲/主屋
公開状況/公開
宇土半島の突端にある三角西港に所在する旅館建築である。明治中期に国家プロジェクトとして拓かれた三角西港は、大正末年にその役割を終えると同時に人々からは長く忘れ去られた存在であった。しかし昨今では近代化遺産というカテゴリーで文化財としての価値を見直され、再び注目を集めつつある。住宅は熊本で廻船業を営んだ高田儀丸が開港と同時に建てたもので、建ちの高い総二階建に突き上げ戸を用いる外観は、完全な和風建築でありながら、どこか異国の匂いがする。
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田中家住宅 矢部町指定文化財 (平成3年10月21日指定)
熊本県上益城郡矢部町下市
旧所在地・熊本県上益城郡矢部町長田467
建築年代/江戸時代(宝暦年間)
用途区分/農家
指定範囲/主屋
公開状況/公開 【矢部町民俗資料館】
熊本県は石造建造物の豊富な地域で、特に県内各所に架かる石橋は驚くほど立派なものがある。その代表選手たる矢部町に在る通潤橋は水路橋を兼ねた大規模なもので国の重要文化財にも指定されている。この橋の袂に「矢部町民俗資料館」と銘打って移築された茅葺の農家が当住宅である。土間棟・表棟・座敷棟の三棟が平行に建ち並んで一軒の家を形成する平行三棟造(通称・三ツ家造)と称される建前で非常に珍しいものである。恐らく県内で唯一の遺構ではないだろうか。
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工藤家住宅 蘇陽町指定文化財 (平成4年12月指定)
熊本県阿蘇郡蘇陽町馬見原
建築年代/明治22年
用途区分/商家
指定範囲/主屋
公開状況/非公開
阿蘇山の南方を東西に横断する日向街道の宿駅として栄えた馬見原の町は、北は竹田、南は椎葉、東は高千穂、西は熊本を結ぶ交通の要衝である。町の中心部に「新八代屋」の屋号で醤油の醸造業を営んでいたという当住宅は、地方の商家建築としては極めて珍しく三階建で、建築当初は屋上に望楼まで備えていたらしい。山間部の寒冷対策のために土蔵造を基本にしつつ、洋の要素を巧みに取り入れた外観は、見る者に驚きをもたらしてくれる。辺鄙な山間の小さな町に、これほどの家があることが実に嬉しい。
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上田家住宅 登録有形文化財 (平成18年3月27日登録)
熊本県天草市天草町高浜南598
建築年代/文化12年(1818)
用途区分/農家(庄屋)・窯元
登録範囲/主屋・離座敷・表玄関・正門・裏門及び塀
公開状況/公開
上田家の出自は信州とされており、大阪冬夏の陣で活躍した真田幸村と同祖の家柄だという。大阪落城後に天草に隠棲することとなり、以後江戸時代を通じて代々庄屋を務めた。広大な敷地に南面して残る主屋は高浜大火後に建てられたもので、大広間や座敷を中心に部屋数は20室を超える大規模なものである。単なる庄屋屋敷の規模を遥かに凌駕する屋敷規模は、磁器原料となる天草陶石の販売にも関係していた故であろう。当家は現在でも「高浜焼」の窯元を営んでおられるので楽しみは2倍である。
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松倉家住宅 登録有形文化財 (平成25年6月21日登録)
熊本県菊池市隈府字城山1329-2
建築年代/昭和7年(1932)
用途区分/料理屋
登録範囲/主屋
公開状況/非公開


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菊の城本舗 登録有形文化財 (平成27年11月17日登録)
菊池市隈府字町95-2
建築年代/昭和10年(1935)
用途区分/酒造業
登録範囲/店舗兼主屋
公開状況/非公開



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宮村家住宅 登録有形文化財 (平成25年6月21日登録)
熊本県菊池市西寺字雷1075
建築年代/大正期
用途区分/地主
登録範囲/主屋・石垣
公開状況/非公開




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大森家住宅 登録有形文化財 (平成30年3月27日登録)
熊本県山鹿市山鹿47
建築年代/明治5年(1872)
用途区分/酒造業
登録範囲/主屋・観音堂・蔵・北塀・西塀
公開状況/非公開





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吉岡家住宅 登録有形文化財 (平成28年11月29日登録)
熊本県山鹿市鹿本町来民字今古閑2034
建築年代/明治18年(1885)
用途区分/地主
登録範囲/主屋・江戸蔵・明治蔵・薬医門・阿弥陀堂・塀
公開状況/公開





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太田黒家住宅 登録有形文化財
熊本県菊池市重味字中鶴2585-1
建築年代/江戸末期
用途区分/番所役人
登録範囲/主屋・蔵
公開状況/非公開


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岡本家住宅 登録有形文化財 (平成11年8月23日登録)
熊本県菊池郡大津町森256
建築年代/天保11年(1840)
用途区分/農家・在郷武家
登録範囲/主屋・南蔵・三階蔵・表門・裏門・馬屋・・塀・石橋・浄化槽・外便所
公開状況/非公開
阿蘇外輪山の西麓にある大津の町は熊本市内を潤す白川の扇状地として拓け、豊後街道の宿駅として栄えた場所である。当住宅は、その大津宿より東南約3kmの森集落に所在する在郷武家住宅である。そもそも当家は中世熊本の領主・大友氏の家臣であったと伝え、江戸時代に細川家の治世となってからは在郷御家人として遇され、幕末には御留守居、中小姓格にまで累進を重ねたという。屋敷正面に四脚門を構え、主屋には式台玄関を備えるなど特別な存在であったことは容易に想像がつく。
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矢野家住宅 登録有形文化財 (平成11年6月7日登録)
熊本県阿蘇郡西原村河原2524
建築年代/明治6年(1873)
用途区分/大地主
登録範囲/主屋・蔵・表門・中門・納屋・味噌蔵・裏門
公開状況/非公開
当家が所在する西原村は阿蘇の外輪山の一つである俵山の西麓に拡がる緩やかな傾斜状の純農村である。歴史は浅く、江戸期において肥後細川藩の手による積極的な灌漑事業により拓かれたことに始まる。当住宅は西原村の西端、河原地区に所在する地主邸宅であるが、当家の発展はこうした開拓の歴史と何らの関わりがあるに違いない。屋敷は、規模も半端なものではないが何よりも表門を中心とする屋敷前面の風情が素晴らしい。明治の建築ながら抑制の効いた非常に品格漂う一級品である。
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今村家住宅 登録有形文化財 (平成10年1月16日登録)
熊本県熊本市川尻町4-9-21
建築年代/江戸時代末期
用途区分/商家
登録範囲/主屋
公開状況/非公開
熊本市南郊の町・川尻は、水前寺公園に源を持つ加勢川と向坂山に端を発する緑川の合流部付近に形成された湊町である。河口からは約6kmほど内陸に入ったところにあり、往時は藩内各所から集められた藩米の積出基地として大いに栄えたという。当住宅は町のほぼ中央部に所在し、江戸時代には町役人を務めたという上層商家であった。家歴は詳らかにされていないが、西南戦争の折には西郷隆盛率いる薩軍が熊本鎮台攻略の拠点としてここに本営を置いたという由来が残されており、相応の家であったことは間違いないだろう。
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藤崎家住宅 登録有形文化財 (平成12年10月18日登録)
熊本県葦北郡田浦町田浦781-2
建築年代/明治27年(1894)
用途区分/庄屋・大地主
登録範囲/主屋・表門・真中の門・下の門・長屋・塀・米蔵・味噌蔵・篭部屋
公開状況/公開
八代と水俣を結ぶ旧薩摩街道のちょうど中間辺りに田浦の町はある。そもそも田浦は人吉藩唯一の湊町であったというが、江戸時代初頭にその地位を球磨川河口の植柳に取って代わられてしまう。当家は町の中心部に所在し、江戸期には浜町村の庄屋役を務めたというが、現在の住宅は明治以降の土地集積により最盛期の大正時代には100町歩もの地所を所有したという大地主の邸宅としての色彩が濃い。「赤松館」と呼称される住宅は明治中期に銘木をふんだんに使用して建てられたものである。
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井芹家住宅 登録有形文化財 (平成16年2月17日登録)
熊本県八代郡氷川町宮原栄久31-15
建築年代/江戸時代末期(天保3年頃と推測)
用途区分/商家(造酒業)
登録範囲/主屋・門・外塀・土蔵・煉瓦塀
公開状況/公開
旧宮原町の役場前に建つ酒造業を営んだという商家建築である。当住宅は県下有数の大地主であった井芹家の分家が住した建物で「新宅」と称されていた。幕末天保期の建築と推定されるが、ちょうどこの頃に井芹本家は肥後藩から武家株を取得するなど家運の興隆期に当っていたようである。明治期に入って主屋北側に玄関や薬医門、防火用の煉瓦塀が設けられるなど、富商としての体裁を整える改築が若干行われているが、幕末期の大型町家建築として完成形に近い姿を今に伝えてくれている。
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緒方家住宅 無指定・公開 
熊本県八代郡泉村椎原46
建築年代/江戸時代
用途区分/山村農家(庄屋)
残存建物/主屋
公開/有料にて一般公開
県南の中心都市・人吉を横断する球磨川の支流でダムを作るか否かで大揉めしている川辺川の上流部に五家荘と呼ばれる地域がある。大変な山間部で人家も疎らな隠れ里のような風情を醸す、いわゆる「秘境」と呼ばれる地域であるが、その名は中世以来続く五軒の地頭がこの地域を治めたことに由来する。当家は、そのうちの一軒で、壇ノ浦合戦に敗れ、九州に落ち延びてきた平清経が、豊後竹田の領主・緒方家に匿われ、その後緒方姓を名乗り、後裔の緒方紀四郎盛行の代に至り、当地に居住したとの伝承を持つが、その真偽はともかく、中世には土豪化し、江戸期には庄屋を務めたという来歴は確かなようである。住宅は一部を2階建とし、前後に土間を配置するなど、山間部の農家建築としては異例な建前となっている。
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左座家住宅 無指定・公開
熊本県八代郡泉村仁田尾64
建築年代/江戸時代
用途区分/山村農家(庄屋)
公開建物/主屋
「左座」と書いて「ぞうざ」と読む変わった苗字である。当家の祖は天満様として有名な菅原道真公と伝えられ、公が藤原一族の讒言により太宰府に左遷され死去したのち、その息子である菅宰相と菅千代丸兄弟が政敵・藤原氏の追討を逃れて、この地に隠れ住んだことに歴史は始まるという。兄弟は左座姓を名乗り、各々に仁田尾、樅木の集落を治めたと云うが当時の史料は無く、ただ中世には地頭化し江戸期には庄屋役を務めたことだけが明らかである。住宅は雛なる土地柄でありながら全く上品な建物で唐破風玄関まで付属するから驚きである。建物は一部に2階を設けるなどする点は平地が貴重な山間部ゆえの工夫であろうか。小振りながら建物の中心に仏間を設けたり、土間の竈を表側に配置するなど特異な点も多く見受けられる。山村農家の建物としては規格外の建前である。
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松田家住宅 無指定・公開 【平家の里内】
熊本県八代郡泉村樅木160-1
旧所在地・熊本県八代郡泉村葉木
建築年代/江戸時代 (1850年頃・推定)
用途区分/山村農家
公開建物/主屋
当住宅は秘境・五家荘の観光施設「平家の里」内に移築・保存されている山村農家である。施設は平家の落人伝説に彩られる五家荘ならではのものではあるが、当住宅は平家とは何ら関係はなく、むしろ地域の文化を顕彰するに相応しい建物と云える。山間部に所在する独特の平面構成から成る興味深い民家で、当地域にある村指定文化財の緒方家、左座家住宅に共通する点も多々見られ、地域色を如実に感じさせてくれる。小振りながらも味わい深いものが有る良い民家である。
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松永家住宅 無指定・公開 【山鹿市立博物館内】
熊本県山鹿市鍋田2085
旧所在地・熊本県山鹿市鍋田西
建築年代/天保11年(1840)
用途区分/農家
公開建物/主屋
当家が所在していた山鹿市鍋田は国の史跡指定されている鍋田横穴がある場所としてその筋では有名な場所である。岩野川の右岸の阿蘇凝灰岩の崖壁に彫られた人物や盾、靫の壁画は古墳時代の造形として超一級品である。当家は、その横穴近くに設けられた市立博物館の屋外展示施設として昭和54年に移築されたものである。住宅は正面からは単なる直屋に見えるが、実は正面の棟の背後に三棟の建物が直角に並んで付属するEの字型の「三棟造」という形式の極めて珍しい様式の民家である
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蓑毛家住宅 無指定・公開 【石野公園内】
熊本県人吉市赤池原町1425-1
旧所在地・熊本県球磨郡免田町乙
建築年代/江戸後期
用途区分/郷士
公開建物/主屋
人吉市南郊の石野公園内に移築されている郷士住宅である。当住宅については昭和45年の民家緊急調査からも漏れており、詳細は不明であるが、桁行11間×梁間2間半の極端に細長い直屋であることや養蚕のために寒冷対策として各部屋に炉が設けられていることなどから、平地が乏しく、寒暖差の激しい山間部に所在していたのではないかと推測される。外観から上手の妻側土壁に筋交いが入っている様が窺えるが、これは大正年間に増改築された際の痕跡であろう。
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高田家住宅 無指定・公開 【石野公園内】
熊本県人吉市赤池原町1425-1
旧所在地・熊本県球磨郡錦町一武字火口出3415
建築年代/江戸末期(天保13年〜弘化2年)江戸後期
用途区分/郷士
公開建物/主屋
平成元年3月に人吉市南郊の石野公園内に移築・保存された旧武家住宅である。当住宅は人吉藩主相良氏が領内巡視を行った際の御仮屋(休憩所)として用いられた建物と伝えられており、宝暦9年(1760)に当家が拝領し、主屋として用いてきたとされてきた。しかし移築解体時に座敷の長押裏面の落書から天保15年〜弘化2年(1845〜1846)に薩摩の大工を使って建てられたことが判明したため、伝承は前身の建物であった可能性が高く、当建物は当初から当家の主屋として建てられたものと考えられる。
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犬童家住宅 無指定・公開 【五木の子守唄公園内】
熊本県五木村球磨郡五木村甲字下手 (H16.4移築)
旧所在地・熊本県球磨郡五木村頭地字溝の口
建築年代/明治10年以降
用途区分/山村農家
公開建物/主屋
大型公共事業の見直しに伴って建設の是非について大揉めした川辺川ダムの建設予定地として全国的にその名を知られる五木村に所在する農家建築である。当所地がダムの水没予定地区にあったため、集団移転地の一画に設けられた子守唄公園内に移築されている。年配者はダムのことよりも「五木の子守唄」の地に建っていた古民家として懐かしい気持ちで訪れておられるようだが、移転地に林立する立派な補償住宅に囲まれて建つ姿に、私個人としては何やら興醒めな気分である。
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旧青井家住宅 登録有形文化財 【青井阿蘇神社内文化苑】
熊本県人吉市上青井町116
建築年代/江戸中期(元文5年以前)
用途区分/社家(青井阿蘇神社大宮司家)
登録範囲/主屋・表門・西蔵・東蔵
公開状況/公開
近年、国宝に指定された青井阿蘇神社に隣接する旧社家住宅である。当屋敷は肥後国一宮の阿蘇神社大宮司家の一族で平安時代から明治年間まで神社とともに連綿と歴史を紡いできた世襲大宮司の青井家が1100年間に亘り住した邸宅であったが、明治年間に58代で直系子孫が絶えた後の大正10年、事情により他家に譲渡されていた。主屋は江戸中期の建築とされているが、南側の座敷部を中心に大幅な改造を受けており、残念ながら大宮司家の長い歴史を偲ばせる風情を当住宅から感じることは難しい。
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