中園家住宅

(網田焼の里)



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宇土市指定文化財 (平成6年1月19日指定)
熊本県宇土市上網田町787-1

網田と書いて「オウダ」と読む。「幻の」と形容される網田焼の窯元集落として、知る人ぞ知る場所らしい。そんなことを知らない私は「アミタヤキ」と読んで赤っ恥を掻いたことは云うまでも無い。網田焼は江戸初期に藩の御用窯として築かれ、幕府への献上品、各大名家への贈答品などに用いられたという由緒正しき磁器らしいが、江戸後期には藩の保護を失い、廃れ忘れられていった。
当家はこの網田集落のほぼ中心に所在する。代々、窯奉行や御山支配役を務めた由緒正しい家柄らしく式台玄関を備え書院座敷も整った豪家である。以前には馬屋や前蔵が主屋の前に密集して建っていたらしいが、資料館として整備された際に取り除かれたため主屋の素晴らしさが引き立つようになった。
建物は天保8年(1837)に当主・中園英之助により建てられたもので、当初は茅葺屋根であったものを後に瓦葺に改めたとのことである。大戸口脇の帳場との間に蔀が設けられているが、土間内に物資を出入する際の勘定等に合理的な造作となっている。このような工夫はあまり見受けることのない珍しいものだと思う。
余談であるが、当家は近隣で採取される「馬門石」の監督役なども務めたという来歴も併せ持つ。「マカドイシ」と読むこの石は赤色の火山岩で、古く大王の時代に畿内の古墳の石棺などに用いられたという。発掘調査などから石棺内に朱を塗る風習があったことはよく知られた話であるが、わさわざこの「赤」を求めて1000キロ近くも離れたこの土地から石塊を運んだというから凄まじいものだ。
いろいろと面白い歴史が辿れるこの土地は、もう少し脚光を浴びても良いかもしれないと思った。


網田焼について
寛政4年(1792)肥前天草高浜焼の陶工・山道喜右衛門を招いて創始。
当初は宇土藩の御用窯として藩の庇護下にあったが、1822年に御用焼物の発注を停止。のちは日用雑器への生産に移った。
窯元は次第に衰微し、明治15年には5戸、明治30年代には3戸、大正元年には1戸となり、昭和7年(1932)ついに途絶えた。
江戸期の経済学者・佐藤信渕は著書「経済要録で「磁器は肥後網田山を第一とし、薩州、肥前、松浦諸窯がこれに次ぐ」と書いている。
国内屈指の磁器として名声を博したことが判る。
  


 
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