細川刑部邸
Hosokawa



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熊本県指定文化財 (昭和60年11月19日指定) 
熊本県熊本市古京町3-1
旧所在地・熊本県熊本市東子飼8-33
建築年代/不詳・明治初年に増改築
用途区分/武家(藩主親族・10000石)
指定範囲/主屋(玄関・表書院・御書院・春松閣)・茶室
公開状況/公開


熊本県の熊本城址を中心とする観光資源開発の凄まじさには驚かされる。つい先年には開城400年を記念して本丸御殿を復元したが、それ以前にも櫓や門も数多く再現している。このままの調子では熊本城に建てられていた往時の建物全てを再現してしまうかのような勢いである。観光振興という事業が、まるで役所の責任であるかのように突き進む異様なまでの様子に相当な違和感を感じるのは私だけであろうか。当住宅も平成5年に開催された「火の国フェスタくまもと93」に合わせて熊本城内の旧三の丸に移築・整備されたものである。事業費93億円をかけた大事業であったというから、民家移築の事業費としては恐らく最高額であろう。民家好きの私でも、少しやり過ぎではないかと思ったぐらいなので、全く民家に関心のない方にとってはとんでもない税金の使い方である。「公務員どもは目を離すと何をしでかすか判らない」と罵られても仕方のないような金銭感覚である。費用を抑えるべく現地での保存という選択肢を考えても良かったのではないかと思う。

さて当住宅は肥後藩主・細川家と縁戚関係にあった細川刑部家の邸宅である。刑部家は肥後藩3代藩主・忠利公の弟である興孝公に2万5000石を分知したことに始まり、のちに知行1万石に減じられたものの、江戸時代を通じて藩の家老職を代々務めた名家であった。
これだけ高い家格を誇った家なので、当然のことながら熊本城内のニの丸に本邸を構えていたが、明治維新により旧藩主・細川一族は城内から追い出されることとなったため、刑部家は市内子飼町にあって当時「お茶屋」と称していた別邸に移り住み、ここを本邸としたのである。これが当住宅なのである。

維新後に子飼の別邸を本邸として使用するにあたり、当初の建物に相当に手を入れたと考えられ、実は当住宅の建築年代は定かでない。
明治3年に台所棟を他建物から転用、主屋奥の春松閣は明治6年に付加、茶室は明治17年に新築、主屋玄関棟や表広間は明治26年の増改築と、当初の別邸の姿が判らなくなるほどの変貌振りである。ゆえに当住宅は江戸時代における武家住宅の姿そのままというよりも、維新後の宗家に対する遠慮がなくなった奔放な時代の建物群と云えるかもしれない。しかしそれでも往時の上級武家屋敷としての風情はよく留めており、これだけの屋敷は日本全国探しても残ってはいないはずである。藩の家老という幕府からは陪臣の身分ながら1万石の知行を給された大名家に匹敵する経済力を有していたわけであるから、まさに大名屋敷と称しても遜色ないものである。

屋敷の西方に建てられた長屋門を潜ると正面に唐破風の大玄関の主屋が建つ。建物は桟瓦葺きで壁面は灰色の鼠漆喰とし、どんよりした風情は熊本の民家に共通する特徴である。
一般に武家住宅は見栄を優先するため、表門は立派でも主屋は貧弱なものが多いがこのクラスになると主屋もかなり素晴らしいものである。特に主屋の最奥部に設けられた座敷は、他の一般武家屋敷には見られないような豪勢なものである。移築先である熊本城内という場所も、江戸時代には本丸御殿を取り囲むように上級武士の家々が並んでいたことであろうことから最適の環境だといえる。
熊本観光の折には是非立ち寄るとよいだろう。


 

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