太田家住宅 Oota ![]() その他の写真 |
| 国指定重要文化財 (昭和48年2月23日指定) 熊本県球磨郡多良木町大字多良木447 建築年代/江戸時代(19世紀中頃) 用途区分/農家・造酒業 指定範囲/主屋 公開状況/公開 熊本県南東部、人吉盆地の東端に近い多良木町に所在する農家建築である。当家の家譜によれば、祖先は嘗て鳥羽院の頃(1129-1156)より領主・相良氏に仕えた武士で、建久9年(1198)に相良長頼が鎌倉幕府の命により肥後国人吉南方荘の地頭職に補せられ、遠江国相良荘から当地に下向した際に随行してきたとされている。当初は矢津留氏を称し代々矢作りを職掌としていたが、天文年間(1532-1554)に太田姓に改称、藩政期前から人吉城下に住していたが、後に相良氏の転変に処して多良木村に土着、農業に従事する傍ら一時は焼酎醸造業を営んだとのことである。(焼酎醸造は明治年間に廃業) 当家が多良木村に移住した詳しい時期について家譜では明らかにされていないが、そもそも多良木村周辺は江戸初期には原野だったところで、人吉藩士・高橋政重らの手によって宝永2年(1705)に幸野溝用水が開削され、水利を得て初めて田圃地帯となった土地柄なので、恐らく当家の入植も開削以降のことだったのではないかと推察される。事実、多良木村周辺の住民は総戸数に比して郷士軒数が極めて多いのが特徴で、多良木集落356軒中、郷士軒数は217軒、隣村の奥野集落でも66軒中33軒、久米集落でも238軒中142軒が郷士階級であった。恐らく中世以降の歴史を誇る藩主・相良家は石高22100石に比して過剰な家臣団を抱えていたため、人吉城下だけでは無為徒食の輩を抱えきれず、軽輩身分の足軽達を郷士として原野開拓に解き放ち、新田開発に従事させたのではないかと想像される。しかし当家が多良木村土着後、郷士身分であったか否かについても家譜で武士を出自とすることに触れながらも不明である。あくまでも状況証拠に止まるところであるが、人吉藩において郷士は無給で百姓同然の扱いを受けたとされるため、郷士身分を誇ることに意味を見出せず、且つ周囲も郷士ばかりだったので敢えて触れることなく記述に残す必要も無かったのかもしれない。また人吉藩では庄屋や横目、惣頭といった村役人は主として在郷の徒士や郷士から選任されることを習わしとしていたが、当家が村役人を務めたという記録もない。ただ当家が焼酎醸造業を営んだという事実のみは確認されており、天保13年(1842)の墨書入りの米櫃が当家に残されていたが、これに「新多良木中原茶屋甚兵衛清久 作者八百蔵」とあることから自家用に止まらず、中原茶屋と号して販売まで行っていたものと思われる。藩政時代には焼酎を販売するには藩に献金し入立権を得ることで許可が得られたということなので、村役には就かなかったにせよ、相応に富裕であったことが窺える。また家作の面においても周辺の農家と比較して当住宅の主屋建坪は大きく、座敷が整う状況、柱幅、指鴨居なども太く、内法高も高いという事実からも同様のことが確認できる。名よりも実を取るならば、敢えて村役への就任にも拘らなかったのかもしれないが、いずれにせよ、集落内でも上層農家の部類に属したことだけは間違いないようである。 さて当住宅について考察するに当たって、その前に住宅が所在する球磨地方・人吉盆地のことに少し触れておきたい。人吉盆地は中世から近世に至るまで一貫して領主・相良氏によって統治されてきた土地柄で、今でも中世文化を色濃く残す独特の雰囲気が漂う地域である。そもそも鎌倉御家人にまで祖を遡る近世大名家は珍しく、隣国・薩摩の島津家、日向の伊東家、遠く盛岡の南部家など全国300藩諸侯のうち僅かを数えるに過ぎない。そして、これらの大名家は徳川幕藩体制の始まりに際して、それまでの地方知行制に代表される中世的な統治形態から俸禄制を主とする近世的な統治機構への脱皮を模索するものの、譜代家臣群の存在圧迫に抗しきれず、得てして中途で頓挫する傾向にあった。人吉藩の場合も藩政初期には度重なる御家騒動に見舞われ、中期以降においても財政難を克服するための藩政改革は着手と失敗を繰り返すばかりで最後まで中世支配体制を温存せざるを得なかった。こうした歴史的な背景に加え、当藩の場合は地形的な制約も大いに影響した。人吉盆地は熊本と宮崎両県に跨る広大な九州山地の只中にあり、周囲と隔絶した地理条件にありながらも東西に横断する球磨川を主流として南北の山間から球磨川に合流する多くの支流によって形成された扇状地と河岸段丘地が入り交じって広大な耕作可能地を形成している。高速道路を走ってみると良く判り、人吉盆地を訪れる際には熊本県側からは八代を過ぎると肥後トンネル、鹿児島県側からはえびの高原を経て加久藤トンネルを抜ける必要があるが、共に6Kmを越す長大トンネルである。極端な云い方が許されるならば、人吉盆地は周囲を山塊で封じ込められた空間であり、球磨川という大河川の存在によって辛うじて外界(八代湊)と繋がり得る秘境だったのである。近年、国宝に指定され人吉を代表する神社建築と位置付けられる青井阿蘇神社の社殿群を見ると近世建築でありながら地方色が濃く、畿内地方を手本とする伝統的な建築意匠から大きく乖離していることが判るだろう。本殿の破風などは類をみない奇妙な造作である。こうした球磨地方独特の文化的発展は、民家の世界においても例外ではなく、訪れる人々に一癖も二癖もある面白さを提供してくれる。 当住宅は旧多良木町の中央部から南東寄りの中原集落に所在する。現在の多良木町は昭和30年に多良木町、黒肥地村、久米村が合併して新町となり、広大な面積を有する自治体となっているが、旧多良木町域は人吉盆地を東西に横断する球磨川が形成した河岸段丘状の地勢で水利に恵まれた環境に思われがちであるが、実は球磨川が船底河川であったため開発は遅れ、江戸初期まで左岸の台地は原野に近い未開拓地であったという。そのような状況を一変させたのが前述した宝永2年(1705)の幸野溝用水の開削事業である。幸野溝は元禄10年(1697)に事業着手され、水上村幸野を起点として球磨川から分水し、湯前、多良木、久米を経由して上村の神殿原で百太郎溝に合流する幹線水路長16km、灌漑面積1385haに及ぶ灌漑用水路である。この用水路の完成により実に米3000石もの増収が人吉藩にもたらされたとされるが、表高22100石の身には相当な恩恵と云ってよいだろう。この幸野溝の完成により新田村として新たに東方村が拓かれることになるのだが、中原集落はその中心地であったところで天神社や福田寺等の地域の拠り所が置かれた場所である。この東方村が後年分割され、旧多良木村が成立したのである。現在の中原集落は、その中心を東西に街道が貫き、道の両側に民家が点在する街村的な雰囲気を帯びた場所である。各々の屋敷地の背後には広大な耕地が短冊状に拡がっており、新田集落の有り様が感じられもする。 当住宅は街道に接して屋敷を構え、現在は板塀が周囲に廻らされ、地内には主屋の他に、離れ便所、井戸小屋が残る。近年までは主屋の東方に茅葺の納屋も残っていたらしいが、公園整備に伴い撤去されている。主屋の外観は寄棟造茅葺で棟を鉤の手型に2箇所で折り曲げたZ型の屋根形状をしており、前後に突出部のある曲屋となっている。建築年代については、嘉永元年(1848)12月15日生まれの先祖が子供の時に建てられたと伝わり、太田家に残る天保7年(1836)の米櫃と嘉永6年(1853)の吸物椀の存在から19世紀中期頃と見られている。一般に球磨地方は鉤屋造と称される民家形態を特徴とするとされているが、これは平入の建物の土間部分あるいは座敷部分を前面に突き出す様式で、藩から通達された家作制限により梁間を3間以下とすることが求められる中、曲屋の形態を採ることで平面を確保する方策であったと云われている。昭和49年に実施された民家緊急調査によれば、県下で調査対象となった鉤屋造24棟のうち15棟が球磨地方のものであったと記録されていることから、球磨地方に色濃い地域性と考えて許されるところであろう。当住宅の場合も土間部分を前面に突き出し、座敷部分は後方に突き出す鉤屋造の特殊例に分類されがちであるが、建物内の間取りを鑑みたとき、どうやら物事はそう簡単ではないと気付かされる。 まず、何ら予備知識を持たず建物内に入ると、奇妙な間取りに相当な違和感を覚えるに違いない。典型的な民家建築であれば、大戸口を入れば奥まで続く土間があり、その脇に居室部が設けられているが、当住宅の場合は、大戸口を入ると幅の狭い通路の様な横長の土間があり、居室部はその奥に設えられている。居室部は手前に中ノ間に該当するアラケ、その奥に座敷が配される。アラケの下手には納戸、台所が並び、台所の表側にはドウジと称される本格的な土間がある。このドウジは、大戸口を入ってすぐの通路状の土間と鍵型に一体化しており、嘗てはこの場所で焼酎が醸造されたようである。数多くの民家建築を見てきたつもりだが、正直に云って農家建築でこのような間取りの民家を見ることは無かったと思う。固くなった頭の引き出しから何とか想像を働かせると、商家建築において大戸口から主屋裏まで通じるニワと称される土間とは別に、表側の居室部を帳場やミセとして、その前面を土間とする例があるが、そうした姿にかなり近いものを感じる。当住宅に関するあらゆる資料では、当住宅を農家建築として取り扱っているが、当家が藩政期において焼酎の醸造販売を生業としてきた事実に軸足を置いた時、当住宅はむしろ商家建築として取り扱われるべき存在ではないかと考えるとどうであろうか。当住宅の解体修理工事報告書を含めて、その記述には建築形態を単なる鉤屋造ではなく、九州南部に嘗て分布した二棟造の影響を多分に帯びていると考察し、間取りの不思議を解き明かしているが、私は少し無理がある見立てではないかと考えている。この点について、少し判り辛くなることを承知のうえで以下に解説を試みたい。 そもそも二棟造は熊本県下に広く見られた建築様式で、土間棟と居室棟を並列に別々に建てつつも隣接させることで、内部空間を一体化させたものである。先述の昭和49年の民家緊急調査では県北の菊池地方を中心に7棟の二棟造家屋が確認されているが、令和の世にあっては県内では既に失われたものと推察されている。唯一の例として熊本県菊池市に所在していた等覚寺庫裏のみが残存しているが、現在は福岡県の宮地嶽民家園に移築されている。。一方、当住宅の場合は屋根裏の小屋組の構成から座敷とアラケから成る西棟と台所とドウジから成る東棟の二棟が軒を接して並び、且つ両棟を南北方向に約3間程ずらしつつ、両棟の間に納戸を設けて上部の屋根を鉛直に伏したことで両棟をZ型に繋ぐ二棟造の特殊派生形となったと考えられている。通常の二棟造は両棟の表側が面一に並び鉤屋の形態にはならないところ、当住宅の場合は両棟を南北方向にずらしたことで、ドウジが前面に、座敷が裏手に突出した二鉤造の様な形状に偶々なったのだと解説される。しかし私の見立てとしては、二棟造の場合は、単なる分棟型民家とは異なり、片方の棟を土間専用の建屋とし、残りの棟を居室専用とする形が基本で、それぞれの棟の役割が明確化されており、当住宅の様に居室と土間の両方の要素が東西棟でそれぞれに設えられるという機能未分化な形態とは根本的に異なるのではないかと考えている。当住宅を農家建築と位置付けるならば、熊本県下に顕著な鉤屋造と二棟造のいずれかの影響を受けるものとして系統的な発展形態を模索しがちであるが、これが商家建築と見立てたときには、その束縛的な視点からは解き放たれるのである。帯に短し、襷に長し。当家は生業として農業と焼酎販売を営んだことは間違いないが、家作においてどちらに軸足を置いて為されたかまでは明らかになっていない。新田村に所在したからといって、必ずしも農家建築である必要性はない。当住宅の存在は誠に不思議な立ち位置に基づくものだったのではないかと考えるのである。 私は当住宅を訪れるたびに思う。人吉盆地という中世的な文化を色濃く残す閉ざされた空間にあって、通常の民家の発展形態をそこに落とし込むこと自体が間違いではないかと。ひよっとすると農家と商家という概念さえ未分化であったかもしれない。これこそが中世である。人吉盆地には国指定の重文民家として錦町の桑原家住宅という郷士身分の家屋が残されているが、さほど大規模な建前ではないにも関わらず、主屋の前面には式台玄関が2箇所も設えられている。こうした他の地域では考えられない造作が当たり前に存在している。昭和30年代に民俗学者の宮本常一が球磨地方を訪れた際に、人吉の野は実に明るく豊かであると称賛している。球磨川からの灌漑用水路が発達し、人吉5万石と云われたけれども実高は20万石、乞食でも貯金していると描いた。しかし一方、人吉藩の歴史を紐解くと、表高は2万2100石で、実高は4万石〜5万石もあったというが、藩の財政は常に窮乏し借金漬けであったとされている。先述の幸野溝を開削した最大の功労者・高橋政重は、当初30石取の藩士であったが、新田開発の功によって受けた加増は僅か20石に過ぎない。実に吝嗇な話である。人吉の本当の姿はどこにあったのか、調べる程に判らなくなることばかりである。中世の混沌が残る場所、そこにある民家も然りである。 (2025.12.3記述) 【参考文献】 街道の日本史51「火の国と不知火海」吉川弘文館/藩史大辞典第7巻九州編 雄山閣出版 平成5年5月20日再版/熊本県の民家 昭和45年度熊本県民家緊急調査概報 熊本県教育委員会 昭和46年3月刊/解説版 新指定重要文化財12 建造物編U 毎日新聞社 昭和57年2月15日発行/INAX ALBUM19 南国の住まい 宮澤智士著 1993年12月20日第1刷発行/太田家住宅解体修理報告書 |