矢野家住宅
Yano



登録有形文化財 (平成11年6月7日登録)
熊本県阿蘇郡西原村河原2524

熊本の中心部より阿蘇山に向かって伸びる一本の道路がある。県道28号線だ。
現在ではこれより北側に道幅も広く整備された国道57号線が走っているため、大概の人は阿蘇に向かうルートはこちらを採るが、往古にはこの県道側が幹線であった。
阿蘇に向かって遡ると、世界一といわれる火口を形成する外輪山のなだらかな傾斜に差し掛かる。この外輪山の中腹に猫の額ばかりの平地が形成されており、ここにわずかばかりの戸数からなる集落がある。おそらくは、阿蘇周辺地域から熊本城下へ運ばれる物資の中継地としての役割を担っていたに違いない。
矢野家はこの小集落の中心部に板塀で囲まれた広大な敷地を有する豪家である。屋敷の規模から相当な地主であったろうことは容易に想像がつく。屋敷の西側に開かれた表門付近の様子は、なかなか洗練されたもので田舎のものでは決してない。背伸びをしない質実な屋敷構に、まったく根拠の無いことではあるが中世豪族の系譜を引く館の雰囲気を感じるのは私だけであろうか。一方、主屋は熊本の民家にありがちな武骨な外観を呈している。この辺りの落差が悲しいところではある。

当家が所在する西原村は阿蘇の外輪山の一つである俵山の西麓に拡がる緩やかな傾斜状の純農村である。歴史は浅く、江戸期において肥後細川藩の手による積極的な灌漑開拓事業により拓かれたことに始まる。当住宅は西原村の西端、河原地区に所在する地主邸宅であるが、当家の発展はこうした開拓の歴史と何らの関わりがあるに違いない。屋敷は、規模も半端なものではないが何よりも表門を中心とする屋敷前面の風情が素晴らしい。明治の建築ながら抑制の効いた非常に品格漂う一級品である。

矢野姓を称するので、当村の布田で惣庄屋を務め、監物池の大破を受け、1855年に1000貫匁の御用金を受け、鳥子川に堰堤を作り、大切畑堤を完成させ小森・鳥子方面に水田100町歩に及ぶ灌漑に成功した矢野甚兵衛との関連を想起するが、私の手持資料からは不明である。いずれにせよ、屋敷は明治初年の建築ながら、その規模、構えは並外れたものである。
また慈善事業家として矢野幸左衛門(1735-1817)も当村出身であるため、何らの関係があるのであろうか。
ちなみに西原村は、昭和35年に山西村と河原村が合併してできた村。村名は両村から一字ずつを取った。



 

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