9/1/2021/WED
8月のアクセス解析
6月以来の総アクセス数、2,000以上。
今月は当月の箱庭(ブログ)が比較的よく読まれた。
安定の「山村先生」、「iTunes再構築」、「メビウス」。
総アクセス数、2,000のウェブサイト。
ブログの読者は50人程度。
Twitterのフォロワーは増えない。
ツイートに「いいね」もつかない。
それだけ、特別なメッセージを発信していると思っている。
さくいん:山村良橘
6月以来の総アクセス数、2,000以上。
今月は当月の箱庭(ブログ)が比較的よく読まれた。
安定の「山村先生」、「iTunes再構築」、「メビウス」。
総アクセス数、2,000のウェブサイト。
ブログの読者は50人程度。
Twitterのフォロワーは増えない。
ツイートに「いいね」もつかない。
それだけ、特別なメッセージを発信していると思っている。
さくいん:山村良橘
日曜日、厳しい残暑のなか、遠くまで散歩した。
途中で見つけたハンバーガーショップでランチ。よく通る道なのに、ここに店があることも気づいていなかった。
平日、在宅勤務でたいして動いてもいないので昼食は抜いている。その代わり、週末は散歩して外食する。好きなので、ハンバーガーをよく食べる。今は3軒ほどを回っている。新しい店の発見はうれしい。
夜は居酒屋になるらしい。カウンターに焼酎の一升瓶が並んでいる。
どこへ行っても頼むチーズバーガーを注文した。食レポが下手なので詳しく解説はできないけれど、美味しかった。
バンズはやや硬め。玉ねぎがたっぷり入っている。ソースが美味。肉も十分な厚み。
週末の散歩の楽しみが増えた。
『絶望読書』(頭木弘樹)の感想を書きながら考えた。私は今、絶望しているだろうか。
現在、私は不遇な環境に置かれている。第一線の営業職から、うつ病を発症して退職、今は障害者枠の非正規雇用で働いている。収入は激減した。会社に馴染んでいないし、働きがいもない。5年間昇給もない。
確かにこの状況は絶望的にみえる。しかし、違う見方もできる。
責任のない仕事だけして、最低限の報酬は得ている。急な出張や休日出勤もない。接待もない。加えて在宅勤務なので時間の配分は任されていて、満員電車に乗ることもない。
これは絶望どころか、希望どおり、十分にお気楽な労働者ではないだろうか。
ほとんど毎日、この両極端な見方を行ったり来たりしている。結論としては後者に落ち着くことが多い。それだけ、スタートアップ企業での5年間は辛かった。
夕方、散歩の途中で輸入車を見かけると「オレだって、あのまま働いていればこれくらいの高級車に乗れたのに」と思う。
では今、実際にお金を持っていてクルマが欲しいかと言えば、そうではない。クルマのない暮らしに慣れてしまったから。
要するに高級車が欲しいのは見栄を張りたいだけ。今は見栄の張りようのない「ほどほどかげん」の暮らしを送ることができている。
それを忘れたとき、「見栄」が膨らみ、「絶望」が忍び寄る。
今の暮らしがどれほど恵まれたものか、かつての暮らしがどれほど異常なものだったか、「日常」のなかで常に意識する必要がある。
ところで、「見栄」は欲望と言い換えることもできる。ずっと前に、「絶望と欲望と希望の三点の中心に何があるか」と自問したことがある。答えはまだ見つけられずにいた。
絶望と欲望と希望の中心にあるもの。それは自分自身かもしれない。
映画で観たシリーズの第一作。テレビドラマも見てなかったし、原作を読むのも初めて。
短編集なので一編ずつの事件は軽い。犯人像も映画化された後の長編に比べてシンプル。犯行の動機も複雑なものではない。
湯川のクールな性格と物理学の知識を使った謎解きはすでに出来上がっている。
大人気作家に成長していくミステリ作家の原点を見た気がした。
作家も、執筆を重ね技量を上げて、作品を高めていく。優れた作家ほどマンネリを嫌い、文章にしろ、トリックにしろ、スキルの向上に努めるのだろう。
ところで、この本は横浜に本店がある有隣堂で買った。都内にも支店がある。10代の頃は本を買うといえば必ず有隣堂だった。ここで買うのはかなり久しぶり。モザイクを基調としたデザインのブックカバーがとてもなつかしい。
健康診断の結果が届いた。
全項目、昨年より改善! 肥満度と腹囲は劇的に改善していて、あと少しでメタボの境界線を下回るというところまで来た。
昼食抜き、腹が空いたらゆで卵かナッツ、毎日、スクワット。酒は週末だけ(の努力)。炭水化物を減らす。この節制生活が奏功した。とくにγ-GTPは最悪時(2014年)の1/4まで下がった。
外食なし、接待なし、遅い夕食なし。これは大きい。在宅勤務のおかげ。
AST(GOT)、ALT(GPT)、血小板の値から肝臓の状態を算出するFIB-4 indexも標準値。
ただ、腹部超音波検査では肝臓は脂肪肝と指摘されている。やはり、散歩中の買い食いが原因か。とくに揚げ物は要注意。この先の課題。
そらまめさん、こと、滝良子さんの訃報を知った。8月17日。76歳。早過ぎる。
そらまめさんはラジオ・パーソナリティ。1976年から84年まで、ニッポン放送の日曜夜の番組「全日空ミュージックスカイホリデー」で司会を務めていた。
そらまめさんが産休の間、代役を務めた森山良子の番組を聴き逃し配信で聴いた。番組のテーマソングだったTINNA「Shining Sky」が流れた。
姉が好きな番組だった。よく月曜日の朝に「昨夜のそらまめさんは」と家族に話していたことを覚えている。私も小学校高学年になってから眠い目をこすりながら聴くようになった。少しでも姉と話を合わせられるように、いつも背伸びをしていた。
そんな「あの頃」のことを、少し思い出した。
そらまめさんの旅立ちに手を振る。おつかれさまでした。さようなら。
「Shining Sky」はいつでも聴けるように"Memories"というプレイリストに入れてある。
さくいん:滝良子
先週、土曜日の日経新聞。読書コラム「半歩遅れの読書術」で神学者である森本あんりが書いていた。
森有正を読むということは、結局そこに書かれたことを自分の個的内面に構築し直すことなのだ。
まったくその通り。森有正を読むということは、自分自身を読むことに他ならない。
同じことをプルーストも書いていて、森有正が訳して日記に書き写している。
私の本は、それを通して、彼らに自分自身の中を読む手段を提供するものなのである。(一部変更。『失われた時を求めて 第七編 見出された時』)
(『森有正エッセー集成 5』、日記1970年12月26日)
森本あんりはコラムの終わりで悲観的な見方を示している。
振り返ってみると、森有正を読んでいたのはわたしの年代までのような気がする。今の学生たちは、自分の人生に決定的な影響を与える本の一節に出会う、などという経験をすることがあるのだろうか。
森有正ではなくても、「自分の人生に決定的な影響を与える本の一節に出会う」ことは、きっと今もある。Twitterの読書タグを見ればわかる。真剣に読書している人は今もいる。
私は40歳を過ぎてから森有正に出会い、「決定的」と言えるくらい大きな影響を受けた。『森有正エッセー集成』は今も書店に並んでいる。
21世紀の今でも、森有正の文章は人を惹きつける魅力を持っている。森有正を読む若者もきっといる。そう信じている。
さくいん:森有正、マルセル・プルースト
在宅勤務が定着して、1日のほとんどを自宅で過ごしている。
24時間のうち、1/3は寝ている。1/3は在宅勤務。つまり、1日の2/3は自室にいる。
しかも在宅勤務のほとんどの間はすることがなく、ぼんやりパソコンの画面を見ている。
外へ出るのは夕方の散歩だけ。
まったく、いつの間にか奇妙な生活を送るようになった。
平日、家にこもっている代わりに、週末は外へ出るようにしている。病院へ行ったり、母の顔を見に帰省したり、実際、出かける用事がある。
平日は昼食を取らない。週末は外で何かふだんは口にしないものを食べる。最近はホームメイドのハンバーガーにハマっている。
夕方の散歩は貴重な時間。とはいえ、残暑が厳しいので30分程度で帰ってきてしまう。
まるで若隠居のような暮らし。余生と言ってもいい。
隠居する余生のあとに来るのは「お迎え」。案外、早く来るかもしれない。
隠居といえば歳をとったせいか、最近、朝早く目が覚める。今朝は5時前に起きてしまったので久しぶりに映画『君の膵臓をたべたい』を観た。朝から泣いた。
さくいん:日常、『君の膵臓をたべたい』
『中井久夫との対話』の著者によるウェブセミナー。とても勉強になった。
中井久夫『治療文化論』から、精神疾患には、「普遍症候群」「文化依存症候群」「個人症候群」の三層があるという解説があった。精神疾患は時と場所によりとらえ方が異なるという「文化依存症候群」の考え方は『うつの文化人類学』(北中淳子)にも書かれていた。
「個人症候群」という言葉から詩人、石原吉郎の「痛みはその生に固有なものである」という言葉を想起した。ゴッホが例にされていたように、芸術家とは「痛み」を表現に変えることができる人、と言えるかもしれない。むろん、表現することで「痛み」が完全に癒えるわけではない。それどころか、表現を突き詰めることは痛みを強めるかもしれない。そこに芸術家にとって作品を創りだす「産みの苦しみ」があるのだろう。
芸術家ではない人でも、「個人症候群」、自分に固有の痛み、ととらえることは、病気を悪いものとみなすのではなく、世界の見方を新しく変えるきっかけにもなる。この考え方はうつ病患者である私にとって、非常に大きな励ましになる。
また、個人に固有の痛み、という考え方は個人にとっての物語としての病、「ナラティブ・アプローチ」にも関連づけられるだろう。
そもそも、病名で人を分類することは個人の尊厳を傷つける懸念があるとかねてから考えていた。命がかけがえのないものであるならば、その病も痛みも、またかけがえのないものであるはず。
図書館で見つけた新しい図鑑、2冊。『消えた屍体』は『世界の陰謀論』の姉妹篇のような内容。
グレン・ミラーの死の原因が謎となっていることは知らなかった。イギリスからフランスに飛行中、消息を断ち、遺体は見つかっていないという。
『世界を変えた戦い』を読んでいると、30年以上前に予備校で受けた世界史の講義を思い出す。詳細は忘れてしまったものの、名前は覚えている戦争についての講義を追体験した。
日本が関わった戦争では、文禄・慶長の役、奉天会戦、日本海海戦のほか、太平洋戦争の真珠湾攻撃とミッドウェー海戦、硫黄島の戦いが詳述されている。
たくさんの兵士が投入される戦争の解説を読んでいて不思議に思うこと。食料やトイレは、どうしていたのだろう。掠奪だけでは賄えないだろう。戦争の雌雄は兵站によって決まるとも言われる。兵站の歴史についてもっと知りたい。
人類の歴史は戦いの歴史と言っても過言ではない。いったい、どれだけの人が戦争で命を落としてきたのだろう。
現代では、戦争の防止と平和の構築を目指した条約や国際機関が作られるようになった。それでも、戦争はなくならない。歴史に学ばない、人間ほど愚かな生き物はいない。
繰り返す戦争の図鑑を眺めていると、そう思わずにいられない。
さくいん:グレン・ミラー
ブクログ:図鑑
黒人初のメジャー・リーガー、ジャッキー・ロビンソンの伝記映画。彼の名前は知っていたけど、彼の背番号42を毎年4月15日に全選手がつけることは知らなかった。
物語の始まりは第二次世界大戦直後。まだ公民権運動も始まっていない。差別が当然の「慣習」とされていた時代。そういう時代に差別の撤廃を企てたブルックリン・ドジャースのオーナー、ブランチ・リッキーの慧眼には驚くほかない。背景に彼の信仰心があったように描かれている。
ロビンソンの不屈の忍耐にも頭が下がる。「こんな屈辱を味わうくらいなら黒人リーグにいた方がよかった」と思ったこともあったのではないか。映画では妻と専属記者のスミスが強い支えになっていたと描く。
物語は伝記的なエピソードを網羅していてわかりやすい流れだった。
アメリカはつくづく不思議な国。差別に立ち向かう勇気ある人々がいる一方で、21世紀になっても差別はなくなってはいない。昨年の"Black Lives Matter"運動をみてもわかる。
現在もチャップマンのようにヘイトスピーチを撒き散らす人がいる。アメリカ社会は差別をなくす道を本当に進んでいるのだろうか。
一部の勇気ある人々が努力をしてはいても、二歩進んでは三歩下がるようなことをしているように感じることがある。
さくいん:アメリカ合衆国
直木賞受賞者、36人の受賞後のエッセイを集めたアンソロジー。テーマは「直木賞作家になるまでの道のり」が与えられているらしい。多くの人が半生記を書いている。
馴染みのある作家を選んで読んだ。朱川湊人、東野圭吾、三浦しをん、朝井リョウ。
どの文章もよかった。小説が面白い作家はエッセイの名手でもある。こうして並べて読んでみると各作家の個性も際立つ。三浦しをんの文体は名前がなくても彼女の文章とわかる。
なかでも朱川湊人「あのカバンの意味を探して」がよかった。「いっぺんさん」を読んだときも、『さよならの空』を読んだときも、朱川湊人には強く影響を受けた死別体験があるのではないか、と感じていた。その予測は当たっていた。彼の文章には悲しみの影がある。
十代のあいだの親しい人との死別体験はその人の感受性に大きな影響を与える。そういう経験があるかないかで人間性は大きく異なる。もちろん、優劣の問題ではない。質の違い。
ふだん、あまり小説を読まないので、ほとんどの作家は名前さえ知らなかった。毎年二人ずつ受賞者が輩出されるのだから、受賞後も人気作家の地位を維持するのは容易いことではないだろう。作家は苦労の多い職業ということが、どの文章を読んでもよくわかった。
書くことが好きだからと言って安易になろうとするものではない。
ちなみに、私が好きな直木賞作家は、胡桃沢耕史、山口瞳、新田次郎。皆、昭和の作家。
さくいん:朱川湊人、東野圭吾、三浦しをん、朝井リョウ、悲嘆、胡桃沢耕史、山口瞳、新田次郎
横浜の実家からの帰り道。電車の中で映画『君の膵臓をたべたい』のサントラ盤を聴いていたら涙が止まらなかった。
切ない物語を思い出したせいだけではない。
週末、実家で古いアルバムを眺めていて、一枚の写真を見つけた。18歳で亡くなった姉、敦子の幼いころの写真。たぶん、3歳くらい。1964年前後か。
姉は第一子だったから幼いころの写真はたくさんある。この写真は見たことがなかった。とてもかわいらしく撮れている。私の娘によく似ている。
父はどんな思いでこの一枚を写したのだろう。まさか15年後に亡くなることになろうとは夢にも思っていなかっただろう。
涙腺が緩んだのは、そんなことを考えていたせいだろう。
さくいん:『君の膵臓をたべたい』、自死遺族
最近、東野圭吾原作の映画を観たり、小説を読んだりしてきたので、好きなジャンルであるエッセイも読んでみることにした。意外なことが多くて、何度も驚いた。
今では作品が次々と映画化される超売れっ子作家のイメージがある東野が、実は、下積み時代が長かったという事実がまず意外だった。
とくに面白かったのは、文学賞受賞の発表を編集者たちと待つ「十連敗のあと」。文壇の楽屋を覗いたようで楽しい。
もう一つ、意外だったのはエッセイの文体。小説とはまったく違い軽妙洒脱で話し言葉のような文体で書いている。なかには抱腹絶倒の文章もある。
小説の文体が硬質で、探偵、湯川学の台詞は、ときに冷徹と思えるほど沈着冷静なので、著者もそういう人だろうと勝手に想像していた。こんなに剽軽な人とは思いもしなかった。
「文は人なり」という言葉が確かにある。一方で、いくつもの文体を書き分けられる人もいる。漫画家でも多様な画風を描きわける人もいる。
プロフェッショナルは時と場所に応じて披露する技を選ぶ。それができる人がプロと呼ばれる。こんなふうに自在に文体を変えてスラスラ書けたら楽しいだろう。著者もむずかしいと言う、笑わせる文章は、私にはとても書けない。
「エッセイが苦手」と公言する著者は本作以降、エッセイ集を出していない。これから先も彼のエッセイを読めないと思うと残念でならない。
仕方がない。十八番であるミステリを楽しむことにする。
さくいん:東野圭吾
散歩の途中、古書店で購入。かつて話題になっていたので、そのうち読みたいと思っていた小説。
感想を書くのがむずかしい作品。読んでいるあいだは没入できたものの、読後には「これで終わった」という感覚よりも「これで終わり?」という消化不良の感覚が残った。
ジャンルでいうとミステリやサスペンスというよりもノワールと呼びたい内容。登場人物は悪人ばかりで、結末には希望のかけらもない。
『シキュロスの剣』を読み終えたときと同じような嫌悪感が残った。作品としては、それで成功だろう。一気に読ませて嫌な読後感を残す。それが本作や、この手の作品の狙いだから。
主人公は物語の初めから最後まで異常心理をむき出しにしている。徐々に狂っていく過程を詳しく描いていたら、恐怖心がもっと高まったと思う。
この種の本は読む時を選ぶ。ダークな気分に浸りたい時もある。そういう時に読むは好適だろう。今の私はそうではない。
いじめや家庭内暴力の場面は読むのが辛い。暴力の描写は映画でも本でも敬遠している。そういう意味では基本的に私には向いていなかったかもしれない。
さくいん:ノワール(暗黒・闇)
『容疑者Xの献身』と『真夏の方程式』、2本の東野圭吾原作の映画を観て、興味を持ち、短編集『探偵ガリレオ』とエッセイ集『たぶん最後の御挨拶』を読んできた。長編小説を読むのは初めて。
いい話だった。先に観た映画の2作品同様、主人公たち兄弟妹は秘密を抱え、苦しみながら何とか生きている。その絆を軸に物語は進む。ミステリというよりは、家族をテーマにしたヒューマン・ドラマとして読んだ。
東野圭吾の魅力は、秘密を抱えながら生きる人の生きづらさを巧みに表現する所にある。一連の作品を観たり読んだりした私の印象。実際、『秘密』というタイトルの作品もある。これは昔、飛行機で映画を観た。
子ども時代に両親を失くすだけでも深い傷を心に受けるだろう。まして殺されたとすればなおさら。犯人への復讐を人生の使命にしてしまうこともわかる気がする。
ミステリは読み慣れていないので、犯人探しをしながらは読まないし、できない。手品を見ている観客のように作者の意のままに騙される。それも心地よい。
犯罪者が犯罪者を追いかける、という構成は面白い。主人公たちの犯罪が成功するのか、その部分だけでもハラハラした。とりわけ胸が苦しくなったのは静奈と行成とのやりとり。ここにも人間ドラマが細やかに描かれている。
横浜、横須賀、吉祥寺。知っている街が次々と登場するので、その点も、個人的には面白いポイントだった。汐入駅や桜木町駅のあたりを思い出しながら読んだ。
終わり方もよかった。直前に湊かなえ『告白』を読んで陰鬱な気持ちになったので、本書の読後感が爽やかで、救われた思いがした。
一点だけ苦言。犯罪者は生きて罪を償うべき。たとえ物語の中であっても。
切ない話だった。事件は解決しても、ハッピーエンドとは言い難い終わり方。むしろ重い。終幕では、登場人物、誰もが厳しい現実に向き合うことを迫られる。
犯罪は、動機が深いものでも計画的なものでもなかった。だから謎解きや犯人当てを期待して見ると失望するかもしれない。
トリックや殺人の動機よりも、事件を取り巻く人間模様を細やかに描いた物語と私は受け止めた。その点では成功していると思う。東野圭吾はそういう物語作りがとても巧い。
豪華なキャスト。ドラマ・映画音痴の私でも知っている役者が次々に登場するので驚いた。とくにまだ年若い松坂桃李がよかった。
切なく、苦い終わり方は、観ている者にも重い問いを突きつける。
罪を背負うとはどういうことか。自分は子どもたちときちんと向き合っているか。良心に従って生きているか。真実から目を背けていないか。
そんなことを考えさせられた。
原作を読んだわけではないけど、筋書きだけで比べれば『流星の絆』の方が好き。
『麒麟の翼』の続編。キャストを見て倒叙ミステリということは予測できたけど、結末は意外なものだった。実際にはそうならなかったけど、心中が裏のテーマかもしれない。
またしても家族の秘密をめぐる物語。
東野圭悟 原作映画をいくつか観てきた。どれも家族の秘密をテーマにしている。
『容疑者Xの献身』、『真夏の方程式』、そして本作。いずれも娘の犯罪を親が隠し秘密にすることが後に続く一連の事件の発端になる。秘密の露見を恐れることから、さらに犯罪を重ねてしまい、また秘密を作る。その繰り返し。やがて秘密は露見し、破綻する。
東野圭吾はこのプロットに執着する理由が何かあるのだろうか。
家族と秘密。
私にとっても永遠のテーマ。
どの家族も秘密を持っているのか。秘密を共有しているから家族なのか。
家族の重い秘密を抱えた人はこの作品を観てきっと戦慄するだろう。そういう秘密を持たない人にはよくできた作り話にしか見えないかもしれない。いや、それどころか出来の悪い作り話に見えるかも。観る人の家族観によって、本作の感想はずいぶん違うものになる。
犯罪ではないけれど、私の家族にも世の中には秘密にしていることがある。
私は、自分が隠している秘密の露見を想像して、それに恐怖しながら観た。
追記。人の心を安らげるる秘密も一つあった。それは恭一郎の父親のつぶやき。
さくいん:東野圭悟、秘密、HOME(家族・家庭)
在宅勤務が常態化したので、働きやすい環境づくりの参考にするために、そういう特集を組んでいる雑誌を買ってきた。雑誌も本と同様、ふだん図書館で何ヶ月も前の号を借りて読むので最新号の雑誌を買うのは珍しい。
今の環境。パソコンデスクに液晶ディスプレイにつなげて閉じっぱなしの私物Mac Book。引き出しタイプのデスクに会社パソコン。それを開いた上に私物のキーボード。公私混同のデスクトップ。
雑誌には、さまざまな在宅勤務の環境が紹介されている。どれも上手に公私混同している。お気に入りの絵や本、レコードが飾ってあったり、ギターが立てかけてあったり。公私混同のバランス。ここに在宅勤務の環境づくりのポイントがある。
今の環境は機能的ではあるものの、何か足りない。ディスプレイの横には卓上カレンダーと家族の写真。パソコンデスクも金属剥き出しなので殺風景で味気ない。
何か潤いを与えてくれるものを置きたい。趣味のいい置き物が欲しい。観葉植物がいいか。ミニカーやミニチュアの飛行機か船か。
私的空間なので、自分好みの文房具も欲しい。雑誌にも文房具の特集ページがある。ボールペンと万年筆はすでにいい物を持っている。それに実のところ、仕事はパソコンだけで完結してしまうので、筆記具は出番がない。
椅子は安物だけど、5本足で肘掛けもついているので当分はこれでいい。
そうなると足りないのは、やはり趣味のいい置き物ということになる。
よし、クリスマスにサンタクロースに無機質なデスクを飾る置き物を頼むことにする。
さくいん:労働
昨日、天気がよかったので、神代植物公園へ行ってきた。
一回りして一度出て、深大寺そばを食べてから、再入場してもう一回りした。11,000歩。よく歩いた。
写真は、ダリア、ベゴニア、ヒガンバナ、シュウカイドウ。バラは一つも咲いてなかった。
季節外れの夏日で気温は高いものの、雑木林から吹いてくる風は涼しい。快適な散策と森林浴ができた。心も身体も洗われた気がする。健康的な休日になった。
日曜日の夜は久しぶりに快眠度が100%だった。ここのところ調子がいい。土曜日の月一診察でも、S先生にそう伝えた。この安定を維持することがどれだけできるか。
ビジネス映画と法廷ドラマを足したような作品。一人の女性が銃規制のロビー活動を成功させるまでの紆余曲折を描いたサスペンス映画。
終盤、何度もどんでん返しがあり、その度に驚かされた。主人公は宣言する。
ロビー活動は予見すること(foresight)。相手の一歩先を読み、相手が切り札を出してから、それを凌駕する自分の切り札を切る。
この言葉通り、最後にあっと驚く切り札を切る。結末は勧善懲悪調でスカッとする。娯楽作品としては十分楽しめた。
現実世界でこういう人は存在する。実際、私はこういう人物に何人か出会い、仕事を共にした。
その人たちは主人公と同じくらい仕事中毒で、目的達成のために手段を選ばず、利己的で、倫理感覚も欠けていて、さらにパワハラ体質だった。
私はついていけず、抵抗することもできず、押し潰され、組織から放り出された。
現実世界で私が出会ったいわゆるパワーエリートに比べると、主人公は優しく、ナイーブなところさえある。
とんでもない人と出会うのはスクリーンの中だけで十分。
図書館で借りてきた図鑑、2冊。
江戸の庶民の生活は、江戸東京博物館で実寸大のジオラマで見たことがある。狭い長屋の一室で出産している女性の人形があったことを覚えている。
本書はその展示を一冊の本にまとめたような図鑑。
江戸の街で驚くことは識字率の高さ。商業都市では読み書きそろばんは独り立ちするためには必須の技能だった。識字率の高さから娯楽としての読書も生まれた。
「趣味は読書」の歴史は江戸に始まった。
『旧約聖書の考古学』は新刊棚で見つけた。
聖書の記述はすべて史実ではないとしても、すべてが創作というわけでもない。そのような記述が残される何らかの事実があったのではないか。本書はそのような立場にたち、最新の考古学の知見を紹介する。
アブラハムの移住も出エジプトも、何らかの史実をもとにして伝説化したという。本書によれば、紀元前2300年から2000年にシリア地域からカナン地域への移住が起こり、紀元前1500年頃、一時エジプトに退避していた部族がカナン地域に移動した。
ダビデとソロモンが実在したこと、そして彼らの王国は旧約聖書に書かれているように強大だったことも最新の考古学は実証しているという。刺激的な内容で興奮してくる。
さくいん:東京
愉快な話ではあったけど、心に残る作品ではなかった。一人は大富豪で、もう一人はアメリカの典型的な中産階級。東京の感覚で言えば豪邸に住んでいる。環境が違いすぎる。
こちらは老後の2,000万円問題で頭を抱えているというのに、彼らは少なくとも経済的には何の不安もない。そんなことが頭をかすめて、心から楽しむことができなかった。
余命を宣告されたらどうするか。
今、そういう立場になったとしたら特別なことは何もしないと思う。今のままの暮らしを続けるだけ。
二人の大散財を見ても、真似したいと思うことはなかった。「普通の毎日」、「日常」を続けられることが一番幸せと思うから。余命一年の山内桜良もそう言っていた。
「死ぬまでにしたいこと」を考えたこともあるけど、いまはそれほどこだわりはない。
美味しいものを食べたい、という欲はまだあるかもしれない。
美味しいステーキ。美味しい寿司。美味しい酒。美味しいキャビア。これは二人の旅行にも出てきたから、これは真似したいものと言える。
いつ死んでもいい、とまで覚悟ができているわけではないけど、もう十分に幸福な人生を生きてきたとは思っている。
言うまでもなく、幸福は人それぞれ。エドワードが一番に幸せそうな笑顔を見せたのは、ずっと拒否していた娘に会い、孫娘を抱きしめたときだった。
どんなときに最も幸福を感じるか。その時になってみないとわからない。
さくいん:アメリカ合衆国、日常、『君の膵臓をたべたい』
「もし今日が人生最後の日だとしたら」。これはスティーブ・ジョブズの名言の一節。「今やろうとしていることは 本当に自分のやりたいことだろうか?」と続く。
If today were the last day of my life, would I want to do what I am about to do today?
「もし今日が人生最後の日だとしたら」、今の私なら、昨日と同じ暮らしをするだろう。「本当に自分のやりたいこと」をしているわけではないけど、厭世的で人生を投げ出したくなっているわけでもない。今の暮らしで十分。
「やりたいこと」がやれる人はほんの一握り。ふつうの人はいろいろな制約の中で生きている。だからと言って、それだけで不幸なわけではない。
さまざまな制約があっても、「本当にやりたいこと」をできてなくても、十分幸せを感じていいと思う。むしろ、多くの人は「生きがい」や「働きがい」がなければいけないと思い、かえって苦しんでいるように見える。
「置かれた場所で咲きなさい」という言葉が一時期流行った。天邪鬼なので、流行っているその時には反感しかなかった。いまは違う。「置かれた場所で」幸せを感じられるならば、それはそれでいいじゃないか、と考えている。与えられた条件に満足するのも一つの生き方ではないか。
「置かれた場所」が息苦しくて辛いならば、別の場所を探した方がいい。今日と同じ日が明日も来ることを恐れているならば、何か行動を起こした方がいい。ビリー・ジョエルは、そんな苦しい境地を"Tomorrow Is Today"という言葉に託して歌っていた。そう嘆いた日は私にもある。
今日が最後でも昨日と同じでいいと思えるのは、とても恵まれている。日常が充実している証拠だから。その先に「日常を最も深いところで掴んだ」境地があるのかもしれない。
さくいん:スティーブ・ジョブズ、ビリー・ジョエル、日常
お盆にお寺で作ってもらった卒塔婆は酷暑のためにそのままにしてあった。ようやく季節も落ち着いてきたので墓参りに出かけた。
静かに手を合わせただけで、そこに眠る人たちについて会話をすることはなかった。
それぞれが静かに胸のなかで話しかけた。
返答は聞こえなかったけれど、今はこれで十分。伝えることが大事だから。
墓参のあとはバスで鎌倉へ。八幡宮前で下車。「クルミっ子」を土産に買い、鎌倉関連の本をたくさん並べている駅前の本屋に立ち寄った。
江ノ電で海を見に行きたくなったけど、あいにく曇り空なのでまたの機会にした。駅前の中華料理店でお昼を食べて帰宅した。
写真は墓地で咲いていた芙蓉とアベリア。
さくいん:鎌倉
YouTuber、ゆっこロードショーのおすすめ。「ハズレないドラマ」。
面白い。とても面白い話だった。ふだん、シリーズものは見ない。あまりの面白さに今回は全13話を一気見してしまった。
ほのぼのとしたキャラクターデザインとは裏腹のサスペンス調の展開。哀愁ただよう中年タクシードライバー。登場人物、それぞれが抱える心の闇。主人公の謎めいた過去。
「ゆっこロードショー」でも解説されていたとおり、次々登場する多数のキャラクターとオムニバスのような各話がで徐々に一つにつながり、最終話で驚きと爽快感に昇華される。ここまででも十分楽しめるのに、ホラーを感じさせる最後の場面が辛口の後味を残す。
とぼけたセリフと漫才のような人物たちのやりとりは好き嫌いが分かれるかもしれない。私は楽しめた。"We Are the World"など、セリフに散りばめられた小ネタは、中年にとって面白いものが多い。若い人たちにはわからないネタも少なくないのではないか(ジェネレーション・ギャップをアピールしてみた)。
設定、脚本、登場人物、伏線、謎解き。すべてよくできている。個人的には、暗い過去をもつ中年男が心の闇を打ち破る展開に心動かされた。それは周囲の理解と支えがあってこそ。小戸川ははじめから孤独ではなかった。そして、人はいくつからでも成長できる。
あんまり面白いので初回から見直してみた。主題歌が流れるオープニング映像や第一話から伏線や謎解きのヒントが隠れている。このタクシーは二度乗っても面白い。
「これが戦争というもの」。観終えたあとに浮かんだ率直な感想。
愛国心と忠誠心から生まれる優秀な兵士。戦場で起きる数々の非情。壊れていく兵士の心。実話に基づいているのに、それが伏線になっていることが怖い。
最後には戦争を否定する牧師にでもなるのかと予想しながら観ていたので、結末には少々驚いた。それもまた戦争の一面。戦争の英雄は戦場では死なず、ようやく取り戻した家族との平和な日常のさなかで死ぬ。これ以上の皮肉はない。
『硫黄島からの手紙』を観たときにも思ったこと。クリント・イーストウッドの戦争映画はあえてメッセージ性を排除して、淡々と戦争をのさまざまな面を細やかに描写していく。反戦とか英雄視とか、一言では言い表わすことができない気持ちが観賞後に残る。
映画を観ながら、『ネルソンさん、あなたは人を殺しましたか』を思い出した。ベトナムで地上戦を経験した兵士の悔恨と再生。
敵と直接向かい合う地上戦は戦争のなかでもとりわけ過酷。海上戦や空中戦は機械の戦いなので生々しさが薄い。本作でもヘリコプターの操縦士はボタン一つでミサイルを撃ち込んでいる。この先、無人兵器が発達しても、人が直接、人と戦う地上戦はなくならないだろう。戦争があるかぎり、そこで心を病む人もいなくはならない。
一人の"優れた"兵士の半生を通して、戦争は国家にとってはどれほど有益でも、一人一人の人間にとってはまったく無益であることを教えてくれる作品だった。
追記。作品紹介を見直したら「戦争の恐ろしさを別の視点で教えてくれる作品」とちゃんと解説していた。
さくいん:クリント・イーストウッド、アメリカ
昨日の日経新聞夕刊のコラム「プロムナード」で、つい最近『絶望図書館』を読んだ頭木弘樹が「後悔はしたほうがいいのか」と題して面白いことを書いていた。
気持ちを抑えず、ちゃんと伝えて、やらないよりやって後悔。それはそれで素敵(すてき)な考え方だろう。しかし、気持ちを抑えて、伝えず、やらなくて後悔。それもまた豊かな生き方に思える。振り返ってみたとき、どちらのほうが味わい深いかと言うと、後者なのではないだろうか?
告白しないで後悔する恋愛の方が思い出に残る。
この見方には共感する。
結ばれようが結ばれまいが、結末を見た恋は終わっている、と言ったら眉をひそめる人がいるかもしれない。結婚や愛人という新しい関係は始まるかもしれないとしても、恋としては一度、終わっている。「終わりは始まり」。
結ばれたかもしれない、といつまでも妄想できる片想いは、いつまでも終わらない。
そんな甘酸っぱい恋の思い出が、心にとって疲れたときに一息つける、憩いの場所になっているかもしれない。それが初恋であれば尚更。
家の中で大きな声では言えないけれど、私は密かにそう思っている。