「ゆっこロードショー」でおすすめヒューマンドラマとして紹介されていた作品。タイトルだけメモしておいて何の予備知識もなく観はじめた。
鑑賞後、激しい動揺と深い感動の入り混じった複雑な気持ちになった。
予備知識なしで観たので、衝撃の事実が明らかになったとき、本当に強い衝撃を受けた。そのあとは、観ていて辛くなる場面も少なくなかった。終幕には、大きな感動が押し寄せてきた。
ここから先、ネタバレの感想。
脚本、演技、演出、すべて素晴らしい。とくに重ねる年齢と病気の寛解過程を演じ分けたラッセル・クロウにはとても感心した。老け顔を作るメーキャップの技術にも驚いた。
徐々に寛解していくことはわかったので、それで話は終わると思った。まさか教壇に立てるようになるまで回復するとは思わなかった。統合失調症は寛解が難しいと聞いていたので、とても驚いた。今では薬も進化しているだろうけど、1980年代ではここまで回復できた人は少なかったのではないか。
ノーベル賞授賞式でのスピーチで"reason"という言葉が印象に残る。Reasonは学問的知においては「理」と「合理性」を示す。日常生活では「理由」と訳される。ナッシュ博士は学問上の「理」を探求したあと、生きる「理由」に気づいたと述べる。
そして、客席に座る妻、アリシアに向けて彼は言った。
You are all the reasons I am. You are all my reasons.
この掛詞のような"reason"の使い方にとても感動した。
本作を観て、激しく動揺した理由。
2007年ごろからうつ病の症状が現れ、スタートアップ企業に転職した2009年から病気で退職する2014年までは、かなりひどい症状を呈していた。強い不安と人間不信、終わらない心身の緊張、強烈な眠気と相反する浅い眠り。金曜の夜に床について月曜の朝まで寝ていることもあった。
とくに、「わかってもらえない」という人間不信がかなり強く、妻と衝突することも少なくなかった。これが、妻を苦しめていたことをこの作品を観て気づいた。アリシアがジョンの看病と逃げ出したくなるような絶望のあいだで葛藤する場面では、自分の体験を思い出して胸が痛くなった。迷いながらも支えていくことを選ぶ妻を演じるジェニファー・コネリーの演技も素晴らしい。ともかく、妻にはたいへんな心配と迷惑をかけた。
2年間の休養のあと、障害者手帳を取得し、非正規雇用で社会復帰した。寛解状態とはまだ言えないものの、症状はかなり安定している。
ようやくここまで回復した、というのが最近の実感。
家族の献身的な支えが精神疾患の寛解には非常に重要。そのことについて、本作はあらためて気づかせてくれた。妻にはほんとうに感謝している。いつかきちんと言葉で伝えたい。
人は重い精神の病からも立ち直ることができる。自分の才能を活かすことができる。
この映画は確かにそのようなメッセージを伝えている。
では、私はどうだろう。
もう一度、自分の持っている能力、例えば錆びつきはじめた英語力を、職業や、いや職業でなくても、日常生活のなかで活かすことができるようになるだろうか。
この映画を観ていて、英語で全部わかったら楽しいだろうなとは思った。実際のところ、だいたいの筋は英語でわかった。そのスキルをどうにか活かせないものか。
18年間、米系企業で営業職をして培った能力をどうにか活かすことはできないだろうか。
このまま障害者枠の非正規雇用で、たいした仕事もせずに老いていくのはさすがに寂しい気がする。それとも、そういう未練こそ、きっぱり捨てて、今の生活に満足すべきだろうか。
ジョン・ナッシュは"physical, metaphysical, and delusion"の世界を彷徨い、そして、現実に戻った。私は、抑うつと不安と疑心暗鬼の世界を彷徨い、今、ようやく出口が見えたところ。
いや、私が求めているのはもっと俗物的なもの。私は報われるだろうか、ということ。
天才ではない私はもちろんノーベル賞など望んではいない。でも、ふと思う。自分なりに努力し、精力を傾けたあの年月は報われるときがあるのだろうか。それは無いものねだりというものだろうか。
初回の鑑賞後には、自分に対して悲観的な見方しかできなかった。後半部分をもう一度見直して、少し希望のある気持ちに感想が変わった。
また何かできるかもしれない
そんな望みを感じながら
オフコース「水曜日の午後」
まだ自信はないけれど、ひとときでも、そんな気持ちにさせてくれる映画だった。
追記。
妻に自分の言葉で感謝を伝えることがよくできなかったので、映画の最後を観てもらい、ナッシュ教授に感謝の言葉を代弁してもらった。