絶望図書館、頭木弘樹編著、ちくま文庫、2017
絶望書店 - 夢をあきらめた9人が出会った物語、頭木弘樹編、河出書房新社、2019
病と障害と、傍らにあった本。、頭木弘樹編、里山社、2020
日経新聞夕刊のコラム、プロムナードで頭木弘樹を知った。文章が面白く、「文学紹介者」という耳慣れない肩書きに惹かれて、図書館で検索して著書を借りてきた。
余談。今期のプロムナードは面白い。頭木の他にも、温又柔と万城目学も読み応えのある文章を寄せている。
頭木弘樹が「文学紹介者」になった経緯は、『病と障害と、傍らにあった本。』に簡潔に書かれていた。二十歳で難病にかかり、13年間、絶望に打ちひしがれた。その間にカフカやドストエフスキーに出会い、読書と文章に目覚めた。以降、絶望の淵にある人へ本を紹介し続けている。
暗い気持ちのときには無理に明るい音楽ではなく暗い音楽を聴くと心が落ち着く
こういうことを聞いたことがある。頭木は、本についても同じことが言えると考えている。絶望的な気持ちでいるときには無理に励ますような本ではなく、絶望に寄り添う本が必要と彼は説く。「絶望に寄り添う本」とは、バッドエンドの小説や悲しみや苦しみを掘り下げるエッセイ。今回、図書館で借りてきた4冊は、いずれもそういう文章を集めたアンソロジー。『病と障害と、傍らにあった本。』では、自らの経験を踏まえて本を紹介している。
絶望的な気持ちのときには絶望に寄り添う本が必要
頭木の主張には両手をあげて賛同する。私自身もこれまで、辛いときや苦しいときに本や音楽に力を借りて絶望の崖っぷちにしがみついてきた。
それは「慰め」や「癒し」ではない。あえて傷口に塩を塗るような、悲しい気持ちをより悲しく、暗い気持ちをより暗くするような体験だった。
でも、そういう体験は、希望に満ちた本や明るい調子の音楽よりも、ずっと心に沁みて落ち着かせてくれた。
頭木の場合、そこで心が落ち着いただけではなく、自覚的にその道を切り拓き、職業にしてしまった。その力強い立ち直りは"PTG"(心的外傷後成長)と呼んでもいいだろう。
私も20年近く自覚的に本を読み、感想を書いてきたけど、職業にしようとは思ったことはないし、そうしたきっかけもない。どういうきっかけでこういう人は世に出るのだろうか。編集者が見つけてスカウトするのか。自分から売り込むのか。ちょっと知りたい気はする。
似たような書名の4冊の違い。
『絶望読書』はおそらく最初に書かれた本。絶望した期間、どう過ごせばよいか、どんな本がよいか、エッセイとして語られている。
頭木の絶望や悲しみについての考えが整理されて提示されている。含蓄のある言葉も多い。以下、いくつか、引用しておく。
- 共感できる絶望の本との出会いが心を救う
- 悲しいときにはとことん悲しむ
- 悲しみは自分だけのもの
- 物語だけが絶望を語ってくれる
- 暗い道をいっしょに歩いてくれる本
『絶望図書館』は頭木が編んだアンソロジー。児童文学、エッセイ、ミステリ、小説などさまざまなジャンルから「絶望したときに読む本」が選ばれている。文学作品だけではなく、手塚治虫『ブラック・ジャック』の一話も入っている。
『絶望書店』は「夢の諦め方」をテーマに9編の作品が収録されている。本書にも文字の本だけでなく、藤子・F・不二雄の漫画も収録されている。
『病と障害と、傍らにあった本。』は、病気や障害といった絶望とともに生きている著名人が選んだ「絶望の本」のアンソロジー。
内容はファンタジー風のものが多い。絶望という極限の感情を別の色をした絶望がやわらかく包み込む。
掲載された作品のなかで印象に残ったもの。
「虫の話」(李清俊)(『絶望図書館』)。
衝撃の結末。気持ちが本当に沈んでいるときだったら、私は耐えられなかったと思う。
「瞳の奥の殺人」(Wiliam Irish)(『絶望図書館』)。
究極の絶望状況、一筋の希望の光、スリリングな追い込み、爽快な結末。
「パラレル同窓会」(藤子・F・不二雄)(『絶望書店』)。
藤子・Fには毒の効いた作品がいくつもある。本作もその一つ。もしも人生をやり直せたらどうなるか、という仮説の暗い結末。
ところで、私は今、絶望しているか。「絶望に寄り添う本」を求めているか。場所を変えて考えてみたい。
さくいん:日経新聞、悲しみ、手塚治虫、『ブラック・ジャック』