神代植物公園のテーブルとベンチ

温又柔は日経新聞夕刊のコラム「プロムナード」で知った。本書の内容は、書名の通り。台湾で生まれながらも日本で育ち、中国語や台湾語よりも日本語を第一言語で暮らしてきた著者の言葉をめぐるエッセイ集。「プロムナード」のコラムも同じテーマが多い。

著者の主張は次の一文に集約されよう。

   彼女たちの放つ言葉に共通しているのは、生きているほんものの言葉とは、たった一つの国家に収束されるような言葉などではなく、あくまでも個人に属するものなのだという事実を、清々しく突き付けてくることだ。(「永住権を取得した日」)

「彼女たち」とは生また「国」と「母国語」が違う作家たちを指しているが、彼女自身についても当てはまる。

もとより「国」の境界線と「言葉」の境界線は同じではない。それは田中克彦『ことばと国家』(岩波新書)に教わった。

そして、言葉は多層的であり、一人一人はそれぞれ異なる形態の多層の言語世界に生きている。これは多和田葉子『エクソフォニー』に教えられた。

『エクソフォニー』から読み取った多層的な言語観を今一度、ここに転記しておく。

  • 1. 社会のエクソフォニー。言語と国家の直接的な連関の解体。日本国民は日本語を話す人ばかりではない。また、日本語話者でも日本国民でない人がいる。他の言語でも同じ。国家と言葉は、同根ではない。国語は作られた言葉。
  • 2. 生活世界のエクソフォニー。ラジオからは英語、レストランではハングルやイタリア語に中国語。街の看板からTシャツのプリント、文具のデザインまで、日本語以外の言葉があふれている。日本にいても、日本語だけに接して暮らすわけではない。それは世界のどの場所でも同じこと。
  • 3. 母語のエクソフォニー。日本語といっても、中国からきた漢字、欧米語からきたカタカナ外来語なども含まれる。単語だけではない。「よい週末を」のように日本語を装っていても、考え方が他の言葉から入ってきたものもある。
  • 4. 日常語のエクソフォニー。ふだん何気なく使っている日本語は、上記のように外から見ても「日本語」だけでできているのではない。また、内側から見ても一つの厳格な体系ではない。方言もあれば、性別や職業、年齢、さらに社会階層による言葉の違いもある。また、敬語のように相手によって使い分けられることもある。「X語」といっても、それはどれも一元的ではありえない。
  • 5 自分自身のエクソフォニー。日本語が母語であっても、たとえほかの言葉を話さなくても、自分の中には常にいろいろな言葉がある。それは上記のような多言語世界に生きているから。

著者は日本語、台湾語、中国語を軸にしたエクソフォニーな世界を生きている。ただし、その世界は多和田が描いたような開放的で幸福的なものでは必ずしもない。

日本語はかつて大日本帝国が台湾を領有していた頃に現地で強制された言葉であり、中国本土の言葉もまた、戦後、国民党政府によって強制された言葉だから。

著者は自分が自然に覚えてきた日本語が、かつて祖父たちに強制された言葉であることを知り、日本語に対して複雑な思いを抱く。同様に、両親が「鞭で打たれて」習得した中国語に対しても複雑な思いを隠さない。

初め、三つの言語が並列に存在し、著者はその間はたどたどしい足取りで往来していた。三つの言葉は、それぞれに壁を作っていた。彼女はその言語世界で苦しんだ。

三つの別々の言語のあいだをさまよった著者は、家族史と台湾の文学史をたどりながら、独自の言語観を見つけ出す。

三つの母語がある、というよりも、ひとつの母語の中に三つの言語が響き合っている、としたほうが自分の言語的現実をぴたりと言い表せるのではないか。(「終わりの始まり」)

言葉は個人のもの。その考え方が彼女が到達した心境によく表れている。こうして、エクソフォニーな言語世界を彼女は体得し た。


日本では、「日本語は日本人が話すもの」「正しい日本語を話す人が日本人」、といった日本語ナショナリズムの傾向が非常に強い。

これから温又柔のように、多言語を織り交ぜながら創作をする作家は増えていくだろう。そうして、彼らは日本語の閉鎖性を外側から打破していく。

私のような、生まれながらの日本語話者も、エクソフォニー的な存在であることを認めることで、内側から日本語を外に開いていくことができるだろう。

同時に、忘れてはならないことがある。「日本人」(正確には日本国籍)であっても、日本語が話せない人もいる。彼らが話す言葉も「日本人の言葉」。

「日本人の両親から生まれ、日本で育ち、日本語を話す」。そういう日本人の割合は年々減っているだろう。「日本人」も多様化している。

日本語だけを話す外国籍の人もいれば、日本語を話せない日本国籍の人もいる。そういう多様化も進んでいる。流暢な日本語を話す外国籍の人も少なくない。

もはや「日本語」=「日本人」でもなければ「日本人」=「日本語」ではない。肝に銘じておかなければならない。


さくいん:台湾田中克彦多和田葉子