◆ 江戸の町火消しと纏
「火事と喧嘩は江戸の華」と言われるほど江戸は火災の多い都市でした。
大岡越前守忠相は、江戸の町全体の消防組織として本格的な町火消し組を組織し、各組に火事場での目印となる纏を作らせました。
江戸時代の最大の大火は「明暦の大火」です。この頃はまだ町火消しは結成されていませんでしたが、
この大火でほとんど焼失した江戸の町を復興させたのが 「保科正之」 でした。
彼は、会津藩の藩祖として
「会津藩15ヶ条の家訓」 を残した名君でもありました。平成25年の大河ドラマ「八重の桜」で有名になった
「ならぬことはならぬものです」という名言も、その家訓に基づく教えのひとつです。
(右図はいろは四十八組の内、一番組は組の纏)
江戸時代は徳川家、それ以前は道灌が江戸を治めていましたが、江戸という地名はもっと古くからありました。
平安末期から鎌倉期にかけては、武蔵国の最大勢力であった秩父一族の江戸氏がこの地を治めていたのです。
家康は、江戸幕府を開府する前から五街道の整備に着手し、東海道には最終的に五十三の宿場が設置されました。
浮世絵師 歌川広重が、有名な「東海道五十三次」の浮世絵を描いています。
(右の絵は東海道53次の「蒲原」を模写したもの)
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島崎藤村の「夜明け前」の”木曾路はすべて山の中である”の書き出しで知られる木曽路は、
中仙道(木曽街道)六十九宿の内、贄川から馬籠までの十一宿の区間を指しています。
歌川広重は、渓斎英泉と分担して木曽街道六十九宿の浮世絵も描いています。
木曽路には、近江八景を参考にして選んだ景勝地「木曽八景」があります。
◆ 広重の八景もの
歌川広重は、「東海道五十三次」や「木曽街道六十九次」の他にも、八景ものの浮世絵を得意としていました。
その代表作に、近江八景、金沢八景、江戸近郊八景などの名所絵があります。
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