江戸東京探訪シリーズ 江戸幕府以前の江戸       

1 江戸重継と江戸城の前身 2 江戸という地名 【参考】
江戸氏の系図
荒川の開発史
3 鎌倉時代と秩父一族 4 鎌倉末期と楠木正成
5 室町時代と道灌の誕生 6 太田道灌の江戸城
7 戦国時代から安土桃山時代 8 家康の江戸の町作り


 江戸重継と江戸城の前身 








1051年
昔の江戸湊 平安末期から鎌倉時代にかけて、平氏の流れを汲む豪族 秩父一族 が活躍していました。
秩父一族は、桓武天皇から出た 桓武平氏 (参考1) の流れを汲み、 武蔵国秩父郡中村郷において秩父氏を名乗った平将常を源流とする一族です。

はっきりした年代は不明ですが、将常の子の武基が、平安時代中期 永承6年(1051)から始まった 「前九年の役] (参考2)に出陣したという記録がありますから、 将常の活躍した年代はそれより少し前ということになります。

なお、平安時代は、桓武天皇が平安京に都を開いた延暦13年(794)から、 征夷大将軍 (参考3) に任ぜられた源頼朝が鎌倉幕府を開いた建久3年(1192)までの約400年間です。 ちなみに頼朝は清和天皇から出た 清和源氏 (参考1) の流れを汲む武将でした。





1100年代
秩父一族 (参考4) は、 秩父から江戸湾に至る入間川(当時は現在の隅田川が入間川下流域でした)沿いの一帯を支配し、 武蔵国で大きな勢力を持っていた部族でした。
その一族に 「重継」 という人がいました。 重継は、平安末期に秩父地方を出て 武蔵国の江戸郷 に移り、 この地を治めて 江戸氏 を興した武将です。 あまり記録が残っていないようで重継が活躍した時期は明確ではありませんが、前後の関係から1100年代後半と思われます。
江戸氏の代々の系図と年代との関係を次の「江戸氏の系図」にまとめてみました。 不確実な部分が多々ありますが、おおよその目安になると思います。

江戸氏の系図

江戸郷という地域は、当時の太日川(今の江戸川)の下流域と言われており、江戸湾岸沿いの一帯を指すと考えられます。
当時、今の日比谷あたりは 日比谷入江 と呼ばれる入り江であり、 江戸前島と呼ばれる小さな半島との間に挟まれていました。
重継は、そのような江戸湊沿いの一帯を支配するために、日比谷入江のそばの高台、 後の江戸城の本丸・二の丸の辺りに館を築きました。この館が江戸城の前身です。

当時すでに存在していた 浅草寺 も江戸郷の一部にありました。 当時の地形は現在とはかなり異なり、海がもっと内陸に入り込んでいて、たくさんの小島があったそうです。 当時の浅草はすぐ目の前が海で、浅草寺も江戸湾に浮かぶ小島のような地形の中にあったようです。
なお、浅草寺の起源は、推古天皇の御世628年に、宮戸川(今の隅田川)で漁をしていた檜前浜成・竹成兄弟の網に観音像がかかり、 これを祀ったのが始まりと言われています。
その後、大化元年(645)に勝海上人によって浅草寺が開基されました。これはいわゆる飛鳥時代のことです。 雷門や仁王門が作られたのは天慶5年(942)と伝えられていますので、平安時代です。 したがって、重継が江戸城を築く以前のことになります。


(参考1) 桓武平氏と清和源氏 
桓武平氏 : 日本の第50代天皇  桓武天皇 [天平9年(737)〜 延暦25年(806)]の曾孫である 高望王 は平姓を賜り 上総介として関東に降り、秩父氏、千葉氏、上総氏、三浦氏など八つの氏族、いわゆる坂東八平氏を生み出し一大勢力を築いていった。
なお、桓武天皇は、784年に長岡京、794年に平安京を造営したり、 蝦夷討伐のため坂上田村麻呂を征夷大将軍として陸奥に送りこんだことでもよく知られている。
高望王の子孫には、平将門[9世紀終わり頃から10世紀初め頃]がいる。 また、桓武平氏の流れから伊勢平氏も出てきて、その子孫に 平清盛 [元永元年(1118)〜治承5年(1181)]がいる。


清和源氏 : 日本の第56代  清和天皇 [嘉祥3年(850)〜 元慶4年(881)]の孫である 経基王 が 源姓を賜ったことから生まれた一族。 源氏一族は、最初摂津国を本拠地として武士団を形成したが、その傍流として大和国を本拠地とする大和源氏、 河内国を本拠地とする河内源氏などが生まれた。 そして、河内源氏の流れを汲む源頼義が、前九年の役で陸奥国の安倍氏を討ち破ったわけである。

源平の合戦 : 源平の合戦は、それより約20年遡る後白河天皇と崇徳上皇による皇位をめぐる争いに起因する。 保元元年(1156)、源義朝や平清盛が味方に付いていた後白河天皇側がその争いに勝利するが、これが保元の乱。 その後、天皇に不満を持った源義朝が反旗を翻すが、平治元年(1159) 平清盛 は源義朝を打ち破る。これが平治の乱。
保元・平治の乱 で後白河天皇の信任を得た平清盛は、武士では初めての太政大臣に任ぜられ、 「平氏にあらずんば人にあらず」と言われるほど平氏一族は隆盛を極めた。 しかし、次第にこれに不満を持つものが多くなり、ついに源頼朝が平氏打倒の兵を挙げる。 このとき、兄頼朝に加勢して大活躍し、一ノ谷の戦いや屋島の戦いに勝利し、 そして壇ノ浦の戦で平清盛を打ち破り、平氏を滅亡させたのが源義経であった。 治承4年(1180)から元暦2年(1185)の6年間に及ぶこの一連の戦を治承・寿永の乱と言うが、世に言う 源平の合戦 である。

(参考2) 前九年の役 
永承7年(1052) 時の朝廷は、陸奥地方の土着の豪族安倍氏を討伐するため、 源頼義を陸奥守として陸奥国に派遣した。 源頼義は、清和源氏の流れを汲む河内源氏の祖 源頼信の嫡男であった。 安倍氏は、当時陸奥で大きな勢力を持っていた蝦夷の長であったと言われている。
鎮守府将軍に命じられ陸奥国に赴いた源頼義は、約12年の歳月をかけて安倍氏一族を滅ぼし蝦夷討伐に成功したが、 この間嫡男の義家と共に安倍氏と戦っている。 この戦の始まりから最初の9年間を 「前九年の役」 、後の3年間が 「後三年の役」 と呼ばれている。
ちなみに、この戦を遡ること2百数十年の延暦15年(796)にも、当時の朝廷が、 蝦夷討伏のため坂上田村麻呂を征夷大将軍に任命して陸奥国に派遣しており、 このときも田村麻呂が当時の蝦夷を討伐している。
話を戻すと、前九年の役で安倍氏を滅亡させた頼義・義家ではあったが、征夷大将軍に任じられることはなかった。 しかし、その活躍から後に源氏が最高の格式を持つ武門となり、義家も八幡太郎義家として英雄化されることになった。 八幡太郎と称された理由は、義家が京都の石清水八幡宮で元服式を挙げたことによると言われている。

(参考3) 征夷大将軍 
征夷大将軍とは、律令制度の下での官職であり、夷敵を征服するため東国に派遣された軍の長であった。 鎌倉幕府を開いた源頼朝も、河内源氏の流れを汲む源氏の嫡流であり、征夷大将軍に任じられている。
また、室町幕府を開いた足利尊氏や徳川幕府を開いた徳川家康らも、河内源氏の血を引く武将であり、 いずれも最高の格式を持つ武門の長という自負心から自ら「征夷大将軍」と名乗ったことはよく知られている。 ただし、その頃の征夷大将軍は夷敵討伐のための官職というより、いわば名誉職であった言える。

(参考4) 秩父一族 
上総に趣いた高望王の子孫たちは関東各地に広がり豪族となり、いわゆる関東地方の武士集団 「坂東八平氏」 を生み出していったが、 高望王の第五子「良文」は武蔵守に任ぜられ 武蔵国 で勢力を伸ばした。 良文の子「忠頼」は、 平将門 の娘の春姫を妻とし、将門の将をとって名付けた子 平将常 をもうけた。 その将常が、秩父地方で秩父氏を起こし、秩父一族として一大勢力となる礎を築いていった。平将常を祖とする秩父一族からは、 土肥氏、畠山氏、千葉氏、豊島氏、葛西氏、江戸氏、河越氏、川崎氏、稲毛氏、渋谷氏 などの豪族が生まれており、 今も各地の地名として残っている。

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