江戸東京探訪シリーズ 江戸幕府以前の江戸        |
1 | 江戸重継と江戸城の前身 | 2 | 江戸という地名 | 【参考】 江戸氏の系図 荒川の開発史 | |
3 | 鎌倉時代と秩父一族 | 4 | 鎌倉末期と楠木正成 | ||
5 | 室町時代と道灌の誕生 | 6 | 太田道灌の江戸城 | ||
7 | 戦国時代から安土桃山時代 | 8 | 家康の江戸の町作り |
鎌倉末期と楠木正成 | |||||||||
1331年 1333年 1334年 1335年 |
鎌倉末期になり、北条氏による武家政権に不満を抱いた後醍醐天皇が、
天皇政治の再構築を狙って倒幕計画を企てていました。
しかし、その企てが露見し、後醍醐天皇は隠岐島に流罪になってしまいます。
これが、元弘元年(1331)のいわゆる元弘の乱です。
しかし、後醍醐天皇は、元弘3年(1333)に隠岐島を脱出し、それまで幕府側であった足利尊氏
の寝返りにも助けられて北条氏を打ち破り、鎌倉幕府の倒壊に成功します。
そして、翌年の建武元年(1334)後醍醐天皇による新たな政権が樹立されます。
しかし、この新政権も長くは続きませんでした。 新政権に離反する勢力が強くなり、2年後の建武2年(1335)には、いったんは味方になった足利尊氏の反乱に遭うことになります。 後醍醐天皇は、新田義貞らに命じて尊氏追討の軍を差し向けます。このとき、江戸氏も新田義貞に従って戦いました。 すなわち、江戸氏は後醍醐天皇側についていたのです。 それにつけても、尊氏は機をみるに敏だったのか、それとも下克上という時代背景のなせるわざか・・・。 | ||||||||
1336年 |
いったんは敗退し、九州に逃れた尊氏でしたが、再び勢力を整えて挙兵しました。 後醍醐天皇は、今度は 楠木正成 に尊氏追討の命を下しました。 正成は、尊氏率いる大軍の前に敗北せざるをえないことを知りつつ、天皇への忠義のため勇猛果敢に立ち向かいますが、 奮闘むなしく一族全員あえなく自刃して果てる悲劇的な結果に終わります。 建武3年(1336)のこの戦が、日本史上最も激しいと言われている「湊川の戦」です。 なお、湊川は現在の兵庫県にあります。 また、この戦の直前、正成が涙ながらにわが子正行に別れを告げたというエピソードが、 かの有名な桜井の別れです。
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