江戸東京探訪シリーズ 江戸幕府以前の江戸       

1 江戸重継と江戸城の前身 2 江戸という地名 【参考】
江戸氏の系図
荒川の開発史
3 鎌倉時代と秩父一族 4 鎌倉末期と楠木正成
5 室町時代と道灌の誕生 6 太田道灌の江戸城
7 戦国時代から安土桃山時代 8 家康の江戸の町作り


 室町時代と道灌の誕生   
1336年 楠木正成を打ち破った足利尊氏は、建武3年(1336)征夷大将軍となり、京都で幕府を興しました。 いわゆる 室町幕府 です。 花の御所 室町という名前は、足利第3代将軍義満が京都の室町の自邸(花の御所と呼ばれた) で政治を執り行ったことから名付けられたものです。

当時は、秩父一族も足利方についていたと言われていますが、鎌倉幕府の滅亡後は次第に衰退の一途をたどり、 江戸氏の支配していた江戸の地も、人家もまばらな荒涼たる地帯になっていったようです。 道灌の時代になるまでは、館も朽ち果て、この辺は取り残された地域であったようです。

室町時代に話を戻すと、当時天皇家は南朝と北朝に別れて皇位継承の争いを繰り広げていました。 尊氏に失脚させられた後醍醐天皇が吉野山にこもり南朝を開き、尊氏に擁護された光明天皇側が北朝でした。
室町時代は約240年続きますが、北朝と南朝が合体するまでを 南北朝時代 、 応仁の乱(1467年)以降を 戦国時代 と言います (明応の政変(1493)以降とする説もあります)。

1432年 南北朝時代の永享4年(1432) 太田道灌 が、関東管領扇谷上杉家の家臣 太田資清の子として相模国に誕生しました。 相模国は現在の神奈川県ですが、幼少の頃は鎌倉の建長寺で学び、後に栃木の足利学校でも学んでいます。 道灌は文武両道に秀でた人物と言われており、それを伝えるエピソードにも事欠きません。

道灌のエピソード
1. 道灌15歳のとき、その豪胆、磊落な性格を危惧した父親が 「ぐければ立ち、がれば倒る」と諭したとき、 道灌は、「この屏風をご覧あれ、ぐければ倒れ、がれば立つ、 このはいかに」 と応えたという。
2. また、道灌が言行放縦で驕りも見られることから、父親が 「驕者不久おごれるものひさしからず」と言うと、 道灌は間髪をいれず「不驕亦不久おごらざるはまたひさしからず」 と応えたという。

1455年 道灌は、康正元年(1455)24歳で、父資清の後を継ぎます。その翌年、相模国の江ノ島の弁天様に詣でたときに、 舟の中に一匹の魚が飛び込んできました。 その魚は このしろ....(注)でした。 道灌は、この魚を手にとって九城このしろが手に入る」 と喜び、その志の実現に向けてまい進したそうです。

当時、父の資清は武州川越にいて、古河の足利氏と戦をしていましたが、 戦略を練るために道灌を川越に呼び寄せました。 そのときに、道灌は父親に「今の戦に勢力を注げばお互いに怨みが怨みを呼ぶこと必定、 それよりも要衝の地に城を築き、守りを固め、民を憐れみ、徳政を施せば、国は富み・・・」と説いたそうです。 道灌の考えに打たれた資清は、「速やかに要害の地を探し、城郭を築くべし」と道灌に命じたそうです。
(注) このしろ.... という魚は、 江戸前寿司を代表するネタにもなっている「こはだ...」のことです。

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