江戸東京探訪シリーズ 江戸幕府以前の江戸       

1 江戸重継と江戸城の前身 2 江戸という地名 【参考】
江戸氏の系図
荒川の開発史
3 鎌倉時代と秩父一族 4 鎌倉末期と楠木正成
5 室町時代と道灌の誕生 6 太田道灌の江戸城
7 戦国時代から安土桃山時代 8 家康の江戸の町作り


 家康の江戸の町作り  
<江戸の選択>
1590年 家康 天正18年(1590) 家康 は、駿府から江戸に移り、道灌が築いた江戸城を居城としました。
当時の江戸は、江戸氏や道灌が支配していた頃の地形とそれほど変わってはいなかったようです。 江戸城間際まで日比谷入江が入り込み、現在の皇居外苑のあたりまで海だったそうです。
また、道灌が築いた江戸城も、徳川家が移り住むにはあまりにも小さな城であったと言うことができます。

この頃、江戸の地は、前に海が迫り、江戸湾沿いの地帯には多くの汐入地が点在し、満潮になれば海水が入り込み、 潮が引けば、葦や萱などが生い茂る湿地帯になったことが伝えられています。
また、後ろには、山や武蔵野の林に覆われた原野が広がり、平坦な土地は極めて少なく、 大勢の人が生活するような場所ではなかったと言われています。

そのため、家康も最初は居城をどこにするか、小田原か、鎌倉か、江戸か、思案したときもあったようです。
確かに当時日本で最大の勢力を誇った徳川家ですから、一族の数は半端でなく、 皆を引き連れて移り住むには、江戸の地はあまりにも狭く、あまりにも悪い環境でした。 しかも、道灌が築いた江戸城は、身内だけでも満足に住めるスペースがありませんでした。

江戸に比べれば、鎌倉や小田原の方がはるかに大きな都市であり、環境も整っていたわけです。
それでも、家康は江戸を選びました。
いくら秀吉に命じられたとはいえ、すでに大きな勢力を持っていた家康です。本当に気が進まなかったら、辞退していたことでしょう。 おそらく家康には何か期するところがあったのです。 国家100年の計を考えていたかもしれません。実際、徳川の世はこの地で260年余も栄えたのですから。

いずれにしろ、道灌といい、秀吉といい、家康といい、確かに先見の明がある人物であったのは間違いないようです。

<江戸の大改造>
家康入城前
大勢の人が永住でき、行く末は日本の中心とするために、家康は 江戸の大改造 に着手しました。 土地も、城も、堀も、寺も、町も、そしてあらゆるシステムも。

まず、江戸の土地を広げるために、大規模な 江戸湊の埋立 を行いました。 神田山 を切り崩し、切り崩した土で 日比谷入江 を埋立てました。 数多くあった汐入地も埋め立てました。
切り崩された神田山の跡地は平坦な人の住める土地に変わりました。 今も、高台の神田駿河台として昔の名残を留めています。
また、家康は、上水道の整備も積極的に行いました。平川は、江戸市中へ物資を運ぶ輸送路として、さらに江戸城を守るための濠としても 利用されましたが、神田山を切り崩した際に平川を隅田川に合流させ、江戸城外堀として機能させると同時に 江戸市中へ水を運ぶ上水としても活用しました。(後の神田上水です。)

当時は現在の行徳が塩の一大産地であったので、 道三堀 や 小名木川 などの運河 が作られ、 塩や米を運ぶ重要な水上輸送路となりました。
当然、江戸城も拡張し、 本丸、二の丸、三の丸、西の丸 などが築かれました。
江戸城の周りには多くの 濠割 を作り、それによって敵の防御はもとより、水上輸送の便を得て商業発展の礎をも築きました。

江戸湊埋立前 江戸湊埋立後

また、家康は、大勢の人が暮らしていくためには飲料水が重要であることをいち早く見抜いていました。 当時の江戸は、満潮になれば海水が押し寄せ、風雨による水害も多く、常時十分な飲み水を確保することが困難でしたから、 家康は、 小石川上水 (後の神田上水)の建造に着手したのです。 神田上水として完成を見るのは3代将軍家光の時代になってからです。
水源は、湧水に恵まれ水量の豊富な吉祥寺村の井の頭池でした。 このあたりは武蔵野の原野でしたが、江戸城のあたりよりも土地がかなり高く、水を引くのに適していたのです。

このようにして、江戸は、日本第一の 城下町 として変貌をとげていったのです。

1594年 さらに、家康は、文禄3年(1594)に隅田川で最初の橋である 千住大橋 を架けています。 明暦3年(1657)の明暦の大火で大勢の死者を出すまでは、江戸の防御のため、 この橋以外は隅田川に橋を架けるのが禁止されていました。
なお、明暦の大火の後に、隅田川で2番目となる 両国橋 が架けられました。 千住大橋完成から66年後のことです。両国橋は花火のメッカとしてもよく知られており、 この橋が完成したおかげでさらに江戸は拡大し、 本所、向島、深川 なども発展します。 庶民の文化や生活も豊かになっていきました。

このように、家康が徳川幕府を開く以前から、極めて大規模な都市改革が進められましたが、まさに家康の天下取りの準備という感がします。



1600年
1603年
かってない大工事を行った家康は、天下統一のためには、江戸を関東一というだけでなく、 日本一の都市にする必要があったのです。
実際、慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いでは、豊臣群の総大将石田光成を討ち破り、 慶長8年(1603)に征夷大将軍に任ぜられると、その年の内に 江戸幕府 を開いています。
石田光成亡き後、大坂夏の陣、大坂冬の陣において豊臣一族を完全に滅ぼし、まさに徳川の天下となったわけです。

<家康以降の江戸>
家康以降も引き続き江戸城の大改築が続けられ、広大な土地に大城郭が出来上がることになります。 幾重にも掘割が取り囲み、神田川、隅田川なども利用した一大防御システムが構築され、水運の高度な発達を見ることになります。 このように、江戸城を中心とした江戸の町作りが、家康を始めとする徳川3代の間にほぼ完成したのです。
徳川2代将軍 家忠のときには、もとの平川を浅草橋の方面に伸ばし、隅田川とつなげて 神田川 を完成させています。 徳川幕府260猶予年の基となる江戸城や 江戸城下町 は、 3代将軍家光のころまでにはほぼ完成しています。

承応2年(1653)徳川4代将軍 家綱のときには、江戸の飲料水不足を解消するため 玉川上水 の開削工事が開始され、 翌年には多摩の羽村から四谷大木戸までの全長43kmが完成しています。 羽村から四谷までの標高差がわずか100メートル程度しかなかったので工事は困難を極めたようです。 しかし、幕府から上水工事の命を受けた農民 庄右衛門・清右衛門兄弟の努力により、短期間での完成を見たのです。 この功績によって兄弟は「玉川姓」を許され、玉川上水役のお役目を命じられたということです。

その後、江戸は急速に拡大し、人口が増加し、当時世界一の人口を誇る100万都市となったのです。 そして、様々な庶民文化や商業が花開いていくことになります。

(江戸城と現在の皇居の対応)
江戸城 皇居
本丸,二の丸,三の丸 現在の皇居東御苑
西の丸皇居
西の丸下皇居外苑
吹上皇居吹上御苑
北の丸北の丸公園

(参考) 現在の皇居

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