江戸東京探訪シリーズ 江戸城の面影(皇居) |
汐見坂から見た石垣 | 伏見櫓と二重橋 | 江戸城天守閣跡 | 富士見櫓 | 巽櫓(桜田二重櫓) |
江戸城の御門 | 大手門 | 桔梗門(内桜田門) | 大番所 | 百人番所 |
(*1) 関八州 : | |
以下に示す江戸時代の関東8ケ国を称して関八州という。 | |
・武蔵の国 | : 現在の埼玉県と東京都の大部分、および神奈川県の一部 |
・相模の国 | : 現在の神奈川県の大部分 |
・上野の国 | : 現在の群馬県の大部分 |
・下野の国 | : 現在の栃木県の大部分 |
・上総の国 | : 現在の千葉県房総半島の北半分 |
・安房の国 | : 現在の千葉県房総半島の突端部分 |
・下総の国 | : 現在の千葉県北部(注) |
・常陸の国 | : 現在の茨城県の大部分 |
元来、武蔵 と 下総の国 は 隅田川 を境としていました。
両国 という地名は、この2つの国にまたがることから名付けられたものです。
したがって、当時は現在の 江戸川区、葛飾区、江東区、墨田区 などは 下総 に属していたわけです。 しかし、江戸の大火の後に、大勢の江戸の人々が対岸の下総に移り住んだために、江戸という領域の区別があいまいになった背景があります。 明治元年には、 江戸川 が 武蔵 と 下総 の国境とされ、現在に至っています。 |
汐見坂から見た石垣 汐見坂は、本丸と二の丸を結ぶ坂道です。当時は、この坂から海がよく見渡せたことから汐見坂と 呼ばれるようになりました。今は日比谷方面が眺望できますが、江戸時代には 江戸城のすぐ間近まで海の入り江が迫っていたようです。 汐見坂の下には白鳥濠があり、二の丸庭園につながっています。このあたりから見る石垣は、江戸城にふさわしい大変立派なものです。 家康が江戸幕府を開いた翌年の慶長9年(1604)、江戸城の普請のために西国の大名に石垣用の石の調達を命じました。 当時、熱海、伊東、川奈、稲取等、伊豆半島東岸に良い石材が多く、大名たちはここに集まって採石したのです。 特に真鶴の小松山という地域で産出される小松石と呼ばれる安山岩は、木目が細かく最高級でした。 江戸城の石垣の大部分は、この安山岩が使われているそうです。 |
伏見櫓と二重橋
伏見櫓は、3代将軍家光の頃に、京都の伏見城の櫓を移築したといわれています。 なお、京都伏見城の櫓は、関ヶ原の合戦後に家康が再建したものです。 伏見櫓は、皇居で最も美しい櫓であり、今も二重橋と共に皇居を代表する建物です。 二重橋は、昔は木の橋でした。その当時、下の濠が深く、 強度を保つために橋桁を二重に組んでいたところから 二重橋と呼ばれるようになったそうです。現在は、鉄の橋になっています。 < center> |
江戸城天守閣跡
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江戸城天守閣は、慶長12年(1607年)に完成し、明暦3年(1657年)の 振り袖火事 で焼失するまでの約50年間、金色の鯱をいただく5重の天守閣がそびえていたそうです。しかし、江戸市中を焼き尽くした 明暦3年の大火で焼失してからは再建されることはありませんでした。 戦国時代と違い戦争のない平和な時代だったからこそ、天守閣の必要もなかったのでしょう。 現在は、44m四方,高さ18mの石垣だけが現存しています。 |
富士見櫓
当初、太田道潅が「精勝軒」と呼ばれた櫓を作り、富士山や海の眺望を楽しんだといわれていますが、 富士見櫓は、その跡地に作られました。 富士見櫓は、高さ15.5mほどの三重の櫓で、万治2年(1659年)に再建されたものが今に残っています。 江戸城の建物の中では、現存する貴重な建物です。 また、富士見櫓を支える石垣は、自然石をそのまま積み上げた堅牢な「野づら積み」 (*3) です。 (*3) 野づら積み : ほとんど加工しない自然の石をそのまま積み上げる方法 |
巽櫓(桜田二重櫓)
巽櫓は、別名「桜田二重櫓」ともいわれています。石落としとしての役目を果たす出窓や、 弓や鉄砲を撃つ狭間という隙間があり、敵の攻撃に対処するために作られた櫓です。 |
江戸城の御門
江戸城の外堀や内堀に数多くの御門が配置されています。
【参考】 江戸城の御門
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大手門
大手門は、慶長11年(1606)藤堂高虎によって作られた江戸城の正門で、 大名や役人が本丸に登下城するときに使われた門です。この門は、 敵が侵入しずらいように、カギ型に曲がって門を配置した「枡形門」 (*4) という戦略的な形をしています。外側の門を「一の門(高麗門)」、内側の門を「二の門(本御門)」といいます。 |
桔梗門(内桜田門)
桔梗門は、別名「内桜田門」ともいい、三の丸の南門です。この門は、 主に幕府の要職者が登下城する門の一つとして利用されていたそうです。桔梗門も、 濠を渡って最初の門をくぐると右側に第二の門があり、カギ型に曲がった 「枡形門」 (*4)になっています。 |
(*4) 枡形門の形 |
(参考1) | 枡形は、戦国時代から江戸時代初期までに見られる戦略的な構造です。 直進できないように進路を直角にして、敵の侵入を防ぎました。 お城の門だけでなく、街道の構造などにも採用されていました。たとえば、木曽路 馬篭宿・妻籠宿の街道にも採用されています。 |
(参考2) |
安政7年(万延元年,1860) 3月3日、登城のため井伊家上屋敷を出て桜田門に向かう大老井伊直弼を、
水戸、薩摩の浪士が待ち伏せし殺害した「桜田門外の変」で有名な桜田門は、この内桜田門ではなく、
外桜田門です。 なお、この事件の7年後 慶応3年(1867)には、15代将軍徳川慶喜によって大政奉還され、政権は朝廷に返還されました。 江戸幕府の終焉と明治維新を迎えたわけです。 |
大番所
与力 (*5), 同心 (*6)が詰めて江戸城の警護にあたっていたところを番所といいます。 番所の中でも、位の高い与力、同心が詰めていた格が上の番所が大番所です。 |
(*5) | 与力 : 徳川幕府の警察組織。現在の警察組織と比べると、警察、庶務、裁判等幅広い活動を行っていた。 与力は、200石取りの武家で、10名で編成されていた。与力の配下に同心がいた。 |
(*6) | 同心 : 同心は、与力の下に置かれ、与力1名に5名の同心が付けられていた。 同心は、30俵2人扶持の下級武士であり、その配下には2〜3名の岡っ引きがいた。 同心は、岡っ引きを手足として使い江戸城下の治安維持にあたっていた。 |
百人番所
江戸城の正門である大手門から本丸に入る最大の検問所が、百人番所です。 ここには、伊賀組 (*7)、甲賀組 (*8)、 根来(ねごろ)組 (*9)、 二十五騎組 (*10) の4組がそれぞれ同心百人ずつを配して鉄砲隊を組織し、 江戸城の護りを固めていたので、百人番所と呼ばれています。 なお、当初は下記のような本来の伊賀、甲賀、根来等の忍者、あるいは黒田二十五騎のような剛の者の 集まりであったが、それが組の名前として存続していったと思われます。 |
(*7) | 伊賀組 : 伊賀上野(三重県上野市)の服部氏が率いる伊賀武士の集団で、家康により召抱えられ、 徳川幕府のために諸大名の内情を探ったり、江戸城下の治安を警護したりした。 伊賀組同心を支配していたのが、服部半蔵であり、江戸城の半蔵門は、伊賀者が警護しており、 服部半蔵の名に因んでその名が付けられた。なお、松尾芭蕉も伊賀上野の出身であり、 隠密であったという説もある。定かではないが、「奥の細道」も密偵の旅であったかもしれない。 |
(*8) | 甲賀組 : 滋賀県の南東部(滋賀県甲賀市)の甲賀武士の集団で、伊賀組同様、家康に召抱えられ、 江戸城の警護に当たっていた。地理的に伊賀上野と隣り合っており、当時は 甲賀流、伊賀流という忍術の2大流派を形成していた。 |
(*9) | 根来衆 : 紀州根来(和歌山県那賀郡)の根来寺の僧兵を中心とした紀州の鉄炮軍団。 信長の時代から活躍していたが、秀吉の根来攻めにより敗北した。しかし、その後 徳川幕府の下で警護の任にあたったようである。 8代将軍吉宗は、紀州から連れて来た者を「お庭番」として活用したが、 これは伊賀や甲賀の忍者とは別といわれている。もしかすると根来衆かもしれない。 |
(*10) | 黒田二十五騎組 : 秀吉の命によって九州を平定した黒田如水(官兵衛)は、その後徳川家康に仕えたが、 如水の下には、黒田長政以下二十五騎の強兵がいた。これが「黒田二十五騎」である。 有名な後藤又兵衛や母里太兵衛(黒田節で有名)もその内の1人である。 |
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