江戸東京探訪シリーズ
江戸の城下町

江戸以前の戦国時代には、武士も農民も農村に住み、自分たちの土地を一緒に守っていました。 秀吉の時代に、政治や軍事は武士、農業は農民というような兵農分離が進められましたが、 江戸時代になって、武士と農民の明確な区分、および工商も含めた身分的な制度である「士農工商」が完成しました。

また、幕藩体制も完成し、武士がお城を守り、政を司るために、城の周りに集められました。

寛永12年(1635年) 3代将軍家光のときに作られた 参勤交代 は、諸国の大名が1年毎に江戸と国元を行き来し、 妻子は江戸に残すという制度でしたが、これは、大名行列や江戸の生活のための莫大な出費と同時に、 妻子を人質とすることにより、大名の力を削ぐことをねらいとする制度でした。 しかし、一方で街道の整備や宿場町の発達などの効果もありました。
また、江戸城の周りに武家屋敷を集中させることによる 高度な都市計画 も進んだということができます。
江戸城下町
上図は、天保14年(1843)頃の江戸の城下町です。(台東区教育委員会発行「江戸古地図で見る池波正太郎の世界」を参考にして作成。) 図中の赤色部分が町人地、青色部分が下級武士の武家地、黄色部分が上級武士の武家地(武家屋敷)、茶色部分が寺社地です。

江戸城下町の構成
江戸城 は、寛永13(1636)年に3代将軍家光によって完成させられましたが、そのときに、 江戸城の最外周に外堀が作られました。外堀は、現在の神田川と汐留川にあたり、 その内側には何重もの内堀や濠が巡らされました。地図を見ても分かるように、 江戸城は多くの濠に囲まれた城郭都市というわけです。 この外堀や内堀には多数の橋が架けられ、その内側にいくつもの 御門 が作られました。 それぞれの御門は、敵の侵入を防御するための戦略的な 「枡型門」 という形で配置されています。
江戸城下町
この当時には、まだ隅田川に両国橋、永代橋、吾妻橋などは架けられておらず、 隅田川と外堀によって、江戸城はしっかり防御されていたのです。

(参考) 現在の江戸城(皇居)

江戸時代は、貨幣経済が発達した時期でもあり、 5代将軍綱吉の元禄年間(1688〜1703)には、紀伊国屋文左衛門や奈良屋茂左衛門などの豪商が出ています。 また、町人文化が隆盛し始めた時期でもあり、特に元禄時代には、井原西鶴、近松門左衛門、 松尾芭蕉、菱川師宣、尾形光琳など、そうそうたる文人が活躍しています。

このころの 江戸の城下町 は、見事な都市計画によって整然とした都市つくりが行われています。 上の図は、天保14年(1843)に改版された江戸 城下町の地図を基に作成したものですが、 江戸城を中心として3つの地帯、武家地、寺社地、町人地が整然と配置されています。 その都市計画には、徳川幕府の緻密な政策が隠されていたようです。

武家地 お城に近いところから、 お城の周りを取り囲むように 武家屋敷 が配置されていました。
お城の近くに下級武士の武家地が集中しているのは江戸城の守りを固めるためでした。
江戸の 約60%以上の土地が武家地でした。 
寺社地 武家地や町人地を取り囲むように、 神社 が配置されていました。
江戸の約 20%程度の土地が寺社地でした。 
町人地 町人地には、士農工商の工商すなわち 町人 が暮らしていました。 この町人地は、現在の中央区、台東区、千代田区の一部などの限られた範囲に集中し、 商人の大店や小店、庶民が住んでいた長屋が立ち並んでいました。
江戸の約 20%に満たない土地が町人地でした。 

番所 町人 は、 この狭い町人地 にひしめいていました。
享保の改革を行った8代将軍徳川吉宗の享保年間(1716〜1735)の頃には、江戸の人口は、町方が 約50万人、 武家方 約50万人と推定されています。僧侶は3、4万人というところでしょうか。 町人の人口は 「宗門人別帳」(*1) によりかなり明確に把握されていたようですが、 武家や僧侶の数は公表されず、あくまでも推測の域をでないようです。
この数字を基にすれば、江戸全体の 約20% の土地に 人口全体の 約50% を占める町人が密集していたことになります。
江戸の町は火事が多いことでも有名ですが、商人の店や長屋など木造建築が密集するこの地区に火事が起こったら ひとたまりもありません。 明暦の大火(振り袖火事) (*2) では、 江戸城を含めて江戸の町のほとんどが燃えてしまったと言われています。
しかし、町人たちは長屋住まいの暮らしを謳歌していたのも事実のようです。

(参考)  江戸庶民の暮らし

一方、この時代 農民 はどこに住んでいたのでしょうか。
農民は、この3つの地帯よりももっと外側の農村地帯に住んでいました。ですから、 この3地帯の住民とは一線を画していたということができます。 昔のことですから、それほど簡単には町人が住む地に来ることもできなかったのかもしれません。 実は、それが徳川幕府のねらいでした。すなわち、 「農民を自給自足経済の中に閉じ込める」 という徳川幕府の政策であったのです。 なぜ、農民だけをこのように切り離したのでしょうか。
その理由は、この時代の徳川幕府の収入は農民からの年貢米にほとんどを頼っていました。 もし農民が農業を離れて、別のことに興味を持つようになったら、年貢米が減ってしまいます。 これを恐れた徳川幕府は、農民たちが、武士や町人たちのような経済社会や享楽的な生活に染まらないようにして、 せっせと農業に励むように仕向けたわけです。
元禄以降、享保、天保などの時代は、芝居小屋も立ち、いろいろな娯楽も増え、 町人の生活は大変豊かになりましたが、 農民がそれを経験したら、米作りをないがしろにし、自給自足の生活から商売を始めたり、あるいは、 いろいろな娯楽にうつつを抜かしてしまうかもしれませんからね。

(*1) 宗門人別帳 とは
住民を近くの寺の檀家として登録した帳簿のこと。現在の戸籍簿にあたり、 どこどこの寺の檀家であるという証明は寺の住職や庄屋が行いました。 そのため、長屋の家主などは「親父」同然の存在だったということができます。 なお、宗門人別帳が付けられるようになったのは、寛永14年(1637)に起こった「島原の乱」に端を発するといわれています。 すなわち、キリシタンを取り締まるために、住民を信仰の有無に拘わらず寺に所属させ、 幕府が掌握できるようにする必要があったわけです。

 
(*2) 振り袖火事(明暦の大火) について
明暦3年(1657)1月18日に本郷の本妙寺から出火し、折からの強風で、 江戸8百8町に燃え広がり、江戸城本丸、天守閣、二の丸までも焼き尽くし、焼死者10万8千人にも 上るといわれる江戸の大火です。
振り袖火事といわれる所以ですが、17才のうら若き娘が恋わずらいで 亡くなったときに、愛用していた振袖を棺に掛けて葬儀が行われたのですが、 その振袖が古着屋に売られ、翌年、また翌年と3度にわたり同じ月日に、同じ年の娘が亡くなるという 事態が起こりました。この振袖には、娘たちの怨念がこもっていると考えた本妙寺の僧は、供養のため この振袖を燃やして読経しているときに、折からの強風に振袖が舞い上げられて、 本堂の屋根に燃え移り、江戸市中を焼き尽くす大火となったということによります。 ただし、この話は後の作り話のようです。

(参考)  振り袖火事(明暦の大火)の焼失範囲(イメージ)
 

[参考] 江戸時代の年号と将軍
江戸 年号

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