江戸東京探訪シリーズ
江戸庶民の生活 − 当時の江戸庶民の生活を垣間見てみましょう − |
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江戸時代には士農工商の身分制度がありましたが、商工業従事者を町人と言い、江戸は町人の町でした。 町人は長屋に住んでいましたが、右の図のように、表通りに面した所には二階建ての商家が多く、その裏側には 九尺二間程度(約3坪から広くて5坪)の平屋、いわゆる長屋がありました。 | |
一般に、長屋の土地・建物の所有者と、その所有者に代わって貸地・貸家を管理する大家がいたようです。
大家は、右の図の一番大きな家に住み、家賃を徴収し、また店子の身元保証人になったりして、いろいろ世話を焼いたようです。
【注】 光熱費はほとんど煮炊きのための薪代でした「大家を親と思え、店子を子と思え」ということわざがありますが、大家を含めて長屋住人の絆は極めて固かったようです。 長屋は、地域の理想的なコミュニティだったのかもしれません!! |
■ 以下の文から当時の一般庶民の暮らしぶりが分かります。 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
菜籠を担って晨朝 に銭六,七百を携え、蔓菁・大根・蓮根・芋を買い、我力のあるかぎり、肩の痛むのも 屑とせず、脚にまかせて、巷を声ふりたて、蔓菁めせ、大根はいかに、蓮も候、芋や芋やと呼ばりて、 日の足もはや西に傾くころ、家にかえる・・・ 家には妻いぎたなく昼寝の夢まだ覚めやらず、懐にも背にも 幼稚き子ら二人許も横竪に並臥たり。 夫は我家に入って菜籠かたよせ、竈に蒔さしくべ、財布の紐とき翌日の本貨を 算除、また房賃をば竹筒へ納めなどするころ、妻眠をさまし、 精米の代はと云。すはと云て二百文を擲出し、与うれば、味噌もなし、 醤もなしと云。又五十文を与う。妻小麻筒を抱て立出るは、 精米を買いに行なるべし、子供はいおきて、爺々、菓子の代給と云。 十二、三文を与うれば、これも外の方へ走出す。然なお残る銭百文余、また二百文もあらん。 酒の代にやなしけん。積みて風雨の日の心充てにや貯うるらん。これ其日稼 の軽き商人の産なり | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
上の文政年間漫録によれば、その日稼ぎで暮す平均的な町人の1日の生業がどのようなものかが分かります。
宵越しの金を持たないと言われる江戸庶民も、まじめに働けば、上の表のような稼ぎができたようです。 しかし、日銭稼ぎのその日暮らしで、雨が降れば商売を休まなければならなかったのも事実です。 そのため、長屋住人の平均的な1日の稼ぎは、居職で350文、出職で410文程度であったようです。 それが、宵越しの金を持たないと言われる一つの理由だと思いますが、江戸の町は火事が多かったのも一つの理由でしょう。 あっと言う間に燃え広がり、何もかも焼失してしまう大火の町、江戸では、金目のものは持たない方が懸命だったわけです。 また、出火元になるのを避けるために、大店の商店でさえ内湯を持たなかったと言われています。 そのため、銭湯が発達し、庶民の憩いの場、人々のコミュニケーションの場ともなったのです。 地域社会の秩序も道徳もあったよい時代だったと言えるようです。
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夫は未明より草履草鞋にて捧手振りなどの家業に出るに、
妻は夫の留守を幸ひに、近所合壁の女房同志寄り集まり、己が夫を不甲斐性ものに申しなし、 ・・・中略・・・ あるいは芝居見物そのほか遊山物参り等に同道いたし、
雑司が谷、堀の内、目黒、亀井戸、王子、深川、隅田川、梅若などへ参り、またこの道筋、近来料理茶屋・
水茶屋
の類沢山出来たる故、右等の所へ立ち入り、又は二階などへ上り金銭を費して緩々休息し ・・・(後略)・・・
(世事見聞録:武陽隠士) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
日本橋駿河町を行く棒手振り
江戸時代は、男尊女卑と思われがちですが、実はそうでもなかったようです。女性たちは、現代以上に生活を謳歌していたのかもしれません。 長屋では、井戸やトイレが共同でした。炊事や洗濯などのたびに井戸端会議するのは、大きな楽しみであったと同時に、 コミュニティ形成の重要な役割を果たしていたと思われます。 なお、 捧手振り とは、野菜や魚などの商品を入れた篭を天秤棒の両端にぶら下げ、担いで売り歩く商売です。 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
★ 猿若三座あたりの風景 江戸時代の物見遊山は、神社仏閣を中心とした行楽や芝居見物でした。雑司が谷は「鬼子母神」、堀の内は「日蓮さん」、目黒は「お不動さん」、 亀井戸は「天神さま」、王子は「お稲荷さん」、深川は「八幡さま」といった具合です。隅田川近辺は浅草、本所、向島、両国など多くのポイントがありました。 左の図は、市村座、中村座、河原崎座(のちの守田座)など猿若三座が集まる猿若町(現在の台東区浅草)の夕暮れ時です。 ここは、それまで江戸市中に散らばっていた芝居小屋が、 天保の改革 の風俗営業取締りで浅草に集められ、歌舞伎興行物を中心とする行楽地となりました。 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
『天保の改革』 12代将軍家慶のとき、老中水野忠邦が、 天保12〜14年(1841〜1843)に行った江戸幕府の政治改革。天保の飢饉、大塩平八郎の乱、外国船の出没など、 社会的不安が高まる中、諸物価引下令、外国船に燃料・水・食料支給の許可、柳亭種彦・為永春水らの著書・版木の没収,焼却・・・を行う。 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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