水茶屋  



 江戸中期になると、町人文化が発達し、江戸後期にかけて船宿・料理茶屋・水茶屋などが栄えた。
 水茶屋は、現在の喫茶店のようなもので、茶釜で湯を沸かし、煮立った湯をほどよい温度に冷まして、客にうまい茶を飲ませるのを商売としていた。
 水茶屋では、女将が店を切り盛りし、娘や嫁が店を手伝うようになり、看板娘のいる店は繁盛していったようである。

 宝暦11年頃(1761)、谷中笠森稲荷の門前で店を始めた鍵屋の娘“おせん”も、当時11,2歳だったと言われるが、江戸3大美人の一人として世間の評判になり、明和6、7年(1769、1770)頃まで看板娘として鍵屋を繁盛させたようである。
 おせんを売れっ子にしたのは、錦絵作者の鈴木晴信だった。晴信は、宝暦の末頃からおせんの錦絵を何枚も描いているが、晴信もまたおせんの絵によって有名になったと言われている。

鍵屋おせん

鍵屋おせん(鈴木晴信画)

 繁盛した水茶屋も時代が下るにつれ、下記のような風俗営業に変わって行ったようである。
「酒食三味線に浮かれて、深夜まで遊びたわむれ、その外よからぬ事のみ多し」
 (三田村鳶魚「水茶屋の女」より)

 天保の改革(1841〜1843)では、水茶屋に対して商売替えのお触書が出され、これを機に水茶屋は衰退していった。

【参考】 谷中の大円寺に「笠森阿仙の碑」と「錦絵開祖鈴木春信」碑があります。しかし、実際には谷中 感応寺(幸田露伴の「五重の塔」で有名)の笠森稲荷境内に鍵屋があったようです。