江戸東京探訪シリーズ 江戸幕府以前の江戸       

1 江戸重継と江戸城の前身 2 江戸という地名 【参考】
江戸氏の系図
荒川の開発史
3 鎌倉時代と秩父一族 4 鎌倉末期と楠木正成
5 室町時代と道灌の誕生 6 太田道灌の江戸城
7 戦国時代から安土桃山時代 8 家康の江戸の町作り


 太田道灌の江戸城   
父資清の命でもあり、 道灌 は早速城を築く土地の検討に入り、江戸の地を選びました。

当時の江戸氏はかなり勢力が衰えていました。 江戸氏の子孫である重広 は、 道灌に追われるように江戸の地を去り、現在の世田谷区喜多見に退くことを余儀なくされたようです。 このときに、重広は慶元寺も喜多見の地に移しています。
その後も江戸氏の一族はほそぼそと存続していましたが、勝忠の代に徳川家康に仕え、 名前も喜多見氏と改称し、しばらくは徳川幕府の下で存続していたことが伝えられています。
しかし、5代将軍綱吉の時代に、喜多見重政は、身内の刃傷沙汰の責めを負って失脚し、 ついに江戸氏の系統が途切れることになります。




1457年
さて、道灌が 江戸 の地を選んだころのこのあたりは、 いわば勢力を持った領主のいない荒涼寂寞たる土地だったようです。
しかし、道灌は、そのような茫漠たる江戸の地が地勢、形勝に優ると判断し、 長禄元年(1457)ここに 江戸城 を築城しました。 そして、この城を拠点として南関東一帯を治めるようになりました。

しかし、道灌はなぜこのような荒れた地を選んだのでしょうか、 また、ここが地勢、形勝に優れていると判断した理由はどこにあったのでしょうか。

今でもその地名が残っていますが、当時このあたりには 千代田村、宝田村、祝田村 と呼ばれる小さな村がありました。 それらの村が後々まで繁栄する縁起のいい名前であったことや、 このあたりから眺める富士や海辺が絶景であったことを道灌は気に入っていたようです。

もちろんそればかりではありません。江戸は奥羽へ通ずる要衝の地であること、 荒川の存在によって水運の便に恵まれ、川越と江戸とを結ぶ重要な交通路が確保できること、 さらに荒川は敵の侵入を防ぐ格好の自然の要害であることなどを見抜いていたようです。

実際、時代は下って、江戸(徳川時代の)となり、東京となり、しかも天皇が住む日本最大の都市になったのですから、 先見の明があったというか、100年の計を考えていたと言うか、道灌の英断と言わざるを得ません。

道灌は江戸城を築きましたが、 精勝軒 と呼ばれる櫓も作りました。 この櫓は、現在の皇居の 富士見櫓 のある場所に作られました。 道灌は、この櫓から富士山や海の素晴らし眺望を楽しんでいたのです。 道灌が精勝軒で詠んだつぎのような句があります。

わが庵は 松原つづき 海近く 富士の高嶺を 軒端にぞ見る

この句からも、当時海岸の松原が精勝軒のすぐそばまでせまっていたことが分かります。 その海岸とは、言うまでもなく日比谷入江の海岸です。そして、一望のもとに富士の雄姿が眺められる絶景の地だったことも確かなようです。

さて、太田道灌といえば、何をおいても「山吹伝説」に触れないわけにはいきません。

「山吹伝説」
太田道灌 道灌が狩の途中、越生の地に差し掛かると、突然にわかに雨が降り出しました。 蓑を借りようと、近くの農家に立ち寄ったところ、娘が出てきて、一輪の山吹の花を差し出しました。
山吹の花 道灌は、蓑の代わりに花を出されて立腹してその農家を立ち去りました。 しかし、帰ってから家臣に話したところ、それは後拾遺和歌集の兼明親王の歌


「七重八重 花は咲けども 山吹の
      実の一つだに なきぞ悲しき」

という和歌に掛けて、”家が貧しく蓑のひとつも持ち合わせていません”という答えだったと知り、 自分の無知を恥じて歌道に励んだという言い伝えです。
山吹伝説の舞台とされる「山吹の里」は、現在の埼玉県越生町の東部を流れる 越辺おっぺ(注)に架かる山吹橋のあたりと言われています。 今はこのあたりは歴史公園になっています。


(注) 越辺を「おっぺ」と読むそうです。この語源はアイヌ語という説があります。 北海道に限らず日本の到るところにアイヌ語を語源とする地名があるのは驚きです。

なお、関東周辺に道灌の銅像が8つもあるようです。新宿西口の中央公園には、ひざまずいて山吹の枝を道灌に差し出している娘の像、 有楽町の東京国際フォーラムには、狩りの衣裳で左手に弓を持った道灌の像、 また、日暮里駅前には、馬に乗り頭上高く弓をかかげて狩りをしている道灌の像があります。

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