江戸東京探訪シリーズ 江戸幕府以前の江戸       

1 江戸重継と江戸城の前身 2 江戸という地名 【参考】
江戸氏の系図
荒川の開発史
3 鎌倉時代と秩父一族 4 鎌倉末期と楠木正成
5 室町時代と道灌の誕生 6 太田道灌の江戸城
7 戦国時代から安土桃山時代 8 家康の江戸の町作り


 鎌倉時代と秩父一族   
1180年


1192年
源頼朝 江戸重継の子に 重長 がいました。平氏の流れを汲む重長でしたが、 治承4年(1180) 源頼朝 が平氏討伐のため挙兵したとき、頼朝に従って平氏と戦っています。 当時はすでに源氏の世の中でしたから、頼朝に従ったのも当然の成行と言えるかもしれません。
建久3年(1192)源頼朝が征夷大将軍に任ぜられ、鎌倉幕府を興した後も、江戸氏は頼朝に従って活躍しています。

重継も重長も生年没年不詳ですが、いずれにしろ鎌倉以前から鎌倉前期にかけて活躍した秩父一族の武将であることは確かなようです。 重継、重長に続く江戸氏の隆盛は約200年間ほど続いたようです。

なお、現在世田谷区喜多見の慶元寺に江戸重長の銅像があります。
この寺は、もともと重長が江戸氏の館近く(現在の 皇居紅葉山 :宮殿と宮内庁庁舎の裏手あたり)に開いた江戸氏の菩提寺でした。しかし、 重長の時代から数百年を経た室町時代の中ごろ、江戸氏の勢力は衰退し、 江戸氏を継いでいた重長の子孫 重広は、江戸の館を引き払い喜多見の地に移ったと言われています。 喜多見の地に移住したときに、慶元寺も喜多見に移されたそうです。














秩父一族 当時隆盛を誇っていた 秩父一族 には、 江戸氏の他に畠山氏、豊島氏、河越氏などの武将もいて、 武蔵国 (参考1) 一帯を治めていました。
  • 江戸氏武蔵国江戸郷
  • 畠山氏武蔵国畠山郷
  • 豊島氏武蔵国豊嶋郡
  • 河越氏武蔵国入間郡
河越家は、秩父一族の惣領家でした。 その長である河越重頼は、源頼朝の乳母 比企局の娘聟であり、重頼の娘は源義経の妻にもなっています。 また、河越氏は、嘉禄2年(1226)に鎌倉幕府より武蔵国国守の代理という重要な役職を与えられています。

武蔵国江戸郷については前に述べましたが、武蔵国畠山郷は現在の埼玉県深谷市あたり、 武蔵国豊嶋郡は現在の東京都周辺地域、また武蔵国入間郡は埼玉県南部中央地域、 すなわち越生、飯能、入間、所沢、川越などを含む地域を指すと考えられます。
当時、 入間川 は江戸湾に注いでいて、現在の隅田川がその最下流域になっていました。 このことからも、武蔵国秩父郡を発祥とする秩父一族が、入間川沿いの一帯で大いに栄えていたことがよく分かります。

なお、現在の入間川は、飯能市あたりを起点とし、川越市とさいたま市の境、 ちょうど国道16号線の上江橋あたりで荒川と合流していますが、飯能市より上流についてはよく分かっていないようです。 おそらくいろいろな場所のたまり水が飯能市あたりに集まってきているのでしょう。

また、 荒川 も当時から存在していました。 当時の荒川は、熊谷、鴻巣あたりを経て、現在の元荒川につながっていましたが、 後の家康の一大河川工事で入間川に付け替えられたのです。
(参考) 荒川の開発史

秩父一族には、渋谷氏、河崎氏、稲毛氏、葛西氏などの武将もいたことが伝えられています。 その名前から彼らが治めていた地域を容易に想像することができますが、 秩父一族は、入間川沿い、と言うよりむしろ武蔵国一帯を治めていたと言うほうが適切かもしれません。



1219年
さて、鎌倉幕府ですが、武家による初めての政権であり、約150年の間続きました。 武家政権は、鎌倉幕府に始まり、室町幕府、徳川幕府につながり、明治維新まで続いたことは誰でもよく知っている通りです。 その鎌倉幕府も、承久1年(1219)第3代将軍源実朝の暗殺を契機に、北条氏による執権政治に取って代わられます。 この後、約100年余りの間、北条氏の鎌倉時代が続きます。


(参考1) 武蔵国 
武蔵国 とはどのあたりの地域であったのか、下図を参考にもう少し詳しく見てみましょう。

武蔵国 は、現在の熊谷市、深谷市、秩父市などを含む埼玉県の大部分、葛飾区、江戸川区などの一部の地域を除いた東京都の大部分、 さらに川崎市、横浜市など神奈川県の一部を含む広大な地域でした。

武蔵国の国府 は現在の府中であり、 武蔵国の国分寺 は現在でも国分寺市に存在しています。
国分寺というのは、741年に聖武天皇の命により、国家安寧のため各国の国府に建立された寺です。

武蔵国はいくつかの郡から構成されていました。
武蔵国 武蔵国の郡
さて、江戸湊のあたりに注目してみると、当時入間川の最下流域(現在の隅田川)が下総国との国境になっていました。 現在の葛飾区や江戸川区などは下総国に属していたわけです。
武蔵国の河川

江戸時代、明暦3年(1657)に起きた 明暦の大火 では、 江戸の町の大半を焼失し、隅田川に阻まれて多くの死傷者を出しました。 このため、万治2年(1659)に武蔵国と下総国の両国に跨る 両国橋 が隅田川に架けられました。
両国橋は、 千住大橋 に次いで、2番目に隅田川に架けられた橋です。 この後、川向こうも次第に江戸に組み込まれ、深川や本所などが栄えることになるわけです。

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