隅田川上流
 
岩淵水門 新神谷橋新田橋 豊島橋小台橋 尾久橋尾竹橋 千住大橋 水神大橋
隅田川上流にかかっている橋。(写真は全て1992年8月撮影)

 
岩淵水門
旧岩淵水門 旧岩淵水門 荒川の中に位置する小島と荒川河岸との間に旧岩淵水門が残っています。 旧岩淵水門は、大正13(1924)年3月に作られましたが、 橋の色彩から別名「赤水門」と呼ばれています。
新岩淵水門 新岩淵水門 隅田川が分岐する入り口に新岩淵水門があります。新岩淵水門は昭和57年(1982)に作られました。 こちらは「青水門」と呼ばれています。
隅田川分岐点 隅田川分岐点 隅田川は、北区の岩淵で荒川から分岐しています。手前が隅田川、向こうが荒川。
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千住大橋
千住大橋 千住大橋 江戸時代、千住宿は奥州街道、日光街道の第1番目の宿場町として栄えました。 千住宿は江戸と地方を結ぶ物資の集散地として発展しましたが、千住大橋は 隅田川で最初に架けられた橋でもあります。すでに16世紀頃には千住大橋のたもとに、 「やっちゃ場」( *1 ) という市場ができて賑わっていたそうです。

千住大橋の碑を見ると、すでに1594年には千住大橋が架けられていたようですが、 千住宿は、慶長6年(1601年)ころ、ちょうど徳川家康が将軍になった頃に徳川幕府の統治下に入り、 三代将軍家光の時代になった寛永2年(1625年)に日光街道の第1番目の宿に指定されたと言われています。 その当時から千住大橋は、江戸発展のための要衝の地であったようです。
千住宿は、東海道品川宿、中山道板橋宿、甲州街道内藤新宿と並んで江戸四宿の1つに数えられています。
千住大橋の碑 <碑の内容>---------------------------------

「千住大橋」は「千住の大橋」とも呼ばれている。最初の橋は、徳川家康が江戸城に入って4年目の文禄 3年(1594)に架けられた。隅田川の橋の中では、一番先に架けられた橋である。 当初は、ただ大橋と呼ばれていたが、 下流に大橋(両国橋)や新大橋がつくられてから千住の地名を付して呼ばれるようになった。 江戸時代の大橋は木橋で、長さ66間(約120メートル)、幅4間(約7メートル)であった。
奥州、日光、水戸3街道の要地をしめて、千住の宿を南北に結び、 三十余藩の大名行列がゆきかう東北への唯一の大橋であった。
松尾芭蕉が、奥州への旅で、人々と別れたところもここである。
現在の鉄橋は、関東大震災の復興事業で、昭和2年(1927)に架けられ、近年の交通量の増大のため、 昭和48年(1973)新橋がそえられた。

------------------------------------ 昭和59年3月 東京都
(奥の細道 旅立から)
彌生も末の七日(元禄2年3月27日のこと。 陽暦では5月16日)、明ぼのゝ空朧々として、月は在明にて光おさまれる物から、不二の峰幽かに見えて、 上野・谷中の花の梢、又いつかはと心ぼそし。むつましきかぎりは宵よりつどひて、舟に乗て送る。 千住と云所にて舟をあがれば、前途三千里のおもひ胸にふさがりて、 幻のちまたに離別の泪をそそぐ。 
(参考) 奥の細道 旅立

行く春や 鳥なき魚の 目は泪 (芭蕉)
(*1) 「やっちゃ場」  江戸時代以前からあったと言われていますが、 江戸時代には、隅田川を利用して船で農産物を集積して栄えた、いわゆる市場です。 せりの掛け声が「やっちゃやっちゃ」というところから「やっちゃ場」と呼ばれるようになったそうです。
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