江戸東京探訪シリーズ 奥の細道を読む
前途三千里の思い 胸にふさがりて… |
本文目次
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参考情報索引 |
序章・旅立
序章
旅立
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本文中、解説付きの語句は 紫色の字 で示し、 旅の日付が分かる箇所は 茶色の字 で示している。 また、右側の欄の「曾良日記より」には、曾良日記中の日付に関する記述を示している。 |
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月日は百代の過客にして、
行きかふ年も又旅人也。
舟の上に生涯をうかべ
馬の口とらへて老いをむかふるものは、日々旅にして、旅を栖とす。
古人も多く旅に死せるあり。
予もいづれの年よりか、片雲の風にさそはれて、
漂泊の思ひやまず、
海浜にさすらへ、去年の秋
江上の破屋に
蜘の古巣をはらひて、
やゝ年も暮、
春立る霞みの空に、
白河の関こえんと、そゞろ神の物につきて心をくるはせ、
道祖神のまねきにあひて取るもの手につかず、
もゝ引の破れをつゞり、
笠の緒つけかえて、
三里に灸すゆるより、
松島の月先心にかゝりて、
住める方は人に譲り、
杉風が別墅に移るに、
面八句を庵の柱に懸置。
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奥の細道本文によれば元禄2年(1689)3月27日(「旅立」の項 ”弥生も末の七日”:
末とは7の付く最後の日27日のこと)、
芭蕉は、齢46歳で門弟 曾良と共に陸奥(みちのく)へ旅立つが、その前年の秋頃から陸奥(みちのく)への思いを募らせ、旅の決意をしていた。
旅立ちにあたり、住みなれた芭蕉庵を人に譲り、近くに住む門弟 杉風(さんぷう)の別宅(採茶庵)に身を寄せ、
ここから出立する。 片雲 : 一片の浮き雲。片雲の風とは、漂う一片の浮き雲を運ぶ風のことで、これからの芭蕉の旅を形容している。 白河の関 : 栃木との県境にあった福島の関所。当時は、この関を越えるということが厳しい陸奥(みちのく)に踏み入ることを意味しており、 芭蕉もここを越えたら後へは戻れないという思いで最後の決意をしたことが分かる。 松島 : 宮城県の松島。芭蕉は旅立つ前から松島に対する思い入れが深かったことが分かる。 三里 : お灸の足のつぼで、ひざのすぐ下を通る向こう脛の骨の外側あたりのこと。 杉風 : 芭蕉門下の代表的な俳人 杉山杉風。正保4年(1647)日本橋で生まれる。幕府御用の魚問屋を営み、 深川に土地を多く所有し、経済的に恵まれていたので、採茶庵などの住まいなど何かと芭蕉を支援した。 別墅 : 別宅のこと。杉風が別墅とは、門弟の杉風の別宅で深川六間堀にあった採茶庵(さいだあん、又は、さいとあん)のこと。 現在、記念に深川の清澄庭園近くの仙台堀川に架かる海辺橋のたもとに採茶庵が建っている。(左の写真) 面八句 : 俳句は五七五で完結するが、 連句は何人かの人がそれぞれの句を読み連ねる。100句連ねるのを「百韻」、36句連ねるのを「歌仙」と言う。 連句は、2枚の懐紙を真ん中で2つに折って4枚(8頁分)にして、百韻の連句を書き連ねる。 第一紙、第二紙、第三紙、第四紙をそれぞれ初折(しょおり)、二の折、三の折、名残(の折)と呼ぶ。 初折の表には8句書く。これを面八句と言う。その裏には14句、第二紙と第三紙の表と裏にはそれぞれ14句、 名残の表には14句、裏には8句書く決まりである。 すなわち、表紙と裏表紙に各8句、それ以外の頁には各14句、全部合わせて100句である。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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旅立 | ページトップへ | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
弥生も末の七日、
明ぼのゝ空 朧々として、
月は在明にて光おさまれる物から、
不二の峰幽かにみえて、
上野・谷中の花の梢、
又いつかはと心ぼそし。
むつましきかぎりは宵よりつどひて、
舟に乗りて送る。
千住と云う所にて船をあがれば、
前途三千里のおもひ胸にふさがりて、
幻のちまたに離別の泪をそゝぐ。
是を矢立の初として、 行道なをすゝまず。 人々は途中に立ならびて、後かげのみゆる迄はと、見送るなるべし。 |
空が白々と明け、富士がかすかに見え始める頃、芭蕉と曾良は深川から舟に乗り、
千住で下船する。このとき、友人たちも舟に同乗して千住まで見送っている。
末の七日 : 月の最後の7のつく日、すなわち27日のこと。 不二の峰 : 富士山のこと。 矢立 : 筆と墨壷を組み合わせた携帯用の筆記用具一式。「行春や ・・・」が奥の細道の旅の最初に作った句であることから、 芭蕉は「これを矢立の初」と記した。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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千住の宿 :
千住は奥羽街道の第一番目の宿場で江戸への出入り口であった。
街道の両側には旅籠や商家が軒を並べ、旅人の往来も絶えない栄えた宿場であった。千住大橋北詰付近は「やっちゃ場」と呼ばれ、五穀、野菜、魚などの市が立ち、大変な賑わいを見せていた。 やっちゃ場の起こりは古く、天正4年(1576)織田信長の時代に 野菜や川魚などを道端に並べて市を出したのが始まりと言われており、 江戸時代になると幕府御用市場ともなり益々栄えた。 やっちゃ場があったのは現在の千住河原町であるが、ここには現在も千住青果市場があり賑わっている。
千住大橋は、文禄3年(1594)に徳川家康が命じて荒川(現在の隅田川)に架けさせた江戸で最初の橋であり、 隅田川に架かる橋の中では最も古い。町人文化のメッカであった両国橋よりも約60年も前に架けられている。 多くの旅人がこの橋を渡り江戸へ出入りする重要な橋であり、 徳川三代将軍家光の時代 寛永2年(1625)頃には、本格的な宿場として千住宿も誕生した。 千住大橋あたりの川岸には船の発着場があり、商人や旅人が大いに利用していた。 将軍専用の船着場もあったようである。 芭蕉(当時46歳)は、第五代将軍綱吉の時代 元禄2年(1689)3月27日、千住大橋架橋から95年目のことであったが、 門弟河合曾良(当時41歳)を伴い、深川は仙台堀川から舟で荒川(現在の隅田川)を昇った。 その日の午前11時頃にこの発着場に着き、千住の宿からみちのくへ旅立った。 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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当時隅田川に架けられていた橋 :
出立の日の疑問 :
芭蕉は「奥の細道」の中で出立の日を3月27日、
曾良は「曾良日記」の中で3月20日としているが、
いずれが正しいかは定かではない。
■ 1つの考え方は、曾良の誤り説 以下のことから、曾良の言う3月20日は誤りであるという説。 深川を出立する直前に知人宛に書かれた芭蕉直筆の手紙の内容からは、27日以前はまだ深川で旅の準備をしている。 この手紙の内容が事実ならば、3月20日出立はありえない。 また、曾良日記には「三月廿日 深川出船。巳ノ下尅、千住ニ揚ル。」の次に「廿七日夜カスカベニ泊ル。」 と記されており、曾良日記にも20日から27日の8日間の行動が空白である。 さらに、奥の細道の草加の項には「其日 漸 草加と云いう宿にたどり着つきにけり」と記されているが、 「其日」という代名詞は、少なくとも奥の細道の本文からは、出立の日以外に掛かることは考えられない。 ■ もう1つは、芭蕉の脚色説 20日に深川から船出したが、賑わう千住の宿で7日間逗留し、27日に出立したという説。 知人友人が千住まで見送ってくれたことは本文に記されており、 名残が尽きず千住でしばらく共に過ごしたとも考えられる。 ただし、「旅立」の本文からは、26日の夜からみんなが集ってくれて、 明くる早朝に一緒に千住まで舟に乗ったと記されていることと矛盾する。 ということは、奥の細道は、必ずしも事実だけを記したのではなく、芭蕉がかなり脚色して作成したのかもしれない。 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||
各地の滞在日数
芭蕉が滞在した主な場所と滞在日数を下の表に示します。
なお、ここに示した滞在日数は「奥の細道」と「曾良日記」から勝手に割り出したものです。
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