江戸東京探訪シリーズ 奥の細道を読む
前途三千里の思い 胸にふさがりて… |
本文目次
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参考情報索引 |
関東地方
草加
室の八島
仏五左衛門
日光
那須
黒羽
雲厳寺
殺生石
蘆野
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本文中、解説付きの語句は 紫色の字 で示し、
旅の日付が分かる箇所は 茶色の字 で示している。
また、右側の欄の「曾良日記より」には、曾良日記中の日付に関する記述を示している。 |
草加 | ページトップへ | |||||||||||||||||||||||
ことし元禄二とせにや、 奥羽長途の行脚、 只かりそめに思ひたちて、呉天に 白髪の恨を重ぬといへ共、耳にふれていまだに見ぬさかひ、 若生て帰らばと定めなき頼の末をかけ、 其日 漸 草加と云宿にたどり着にけり。 痩骨の肩にかゝれる物 先くるしむ。 只 身すがらにと出立侍るを、 帋子一衣は夜の防ぎ、 ゆかた・雨具・墨・筆のたぐひ、あるはさりがたき餞などしたるは、 さすがに打捨がたくて、 路次の煩となれるこそわりなけれ。 |
3月27日に千住を旅立ち、
これからの未知の地への長旅に対する不安を抱きながら、その日のうちに草加に至る。 元禄二とせ : 元禄2年のこと。 呉天 : 紀元前中国で栄えた呉の国の空。同時期に越の国もあり、 呉と越が互いに仲良くすることの意で「呉越同舟」という言葉がある。 呉天に白髪の恨み・・・は、これから旅立つ遠い地を呉国の空にたとえ、そこで白髪になるほど辛く苦しい経験を重ねるかもしれないが、 まだ見ぬ地へいざ出立という芭蕉の決意を表している。 帋子 : 紙製の衣服のこと。 路次の煩 : 路次とは旅の道中のことで、道中のさまたげの意。 | |||||||||||||||||||||||
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室の八島 | ページトップへ | |||||||||||||||||||||||
室の八島に詣す。 同行曾良が曰、 「此神は木の花さくや姫の神と申て富士一躰也。 無戸室に入て焼給ふちかひのみ中に、 火々出見のみこと生れ給ひしより室の八島と申。 又煙を読習し侍るもこの謂也」。 将、このしろといふ魚を禁ず。 縁起の旨 世に伝ふ事も侍し。 |
3月27日埼玉県の春日部、28日栃木県の間々田に泊まり、
明くる29日に栃木県栃木市惣社町にある大神(おおみわ)神社を訪れている。
室の八島 : 現在の栃木県栃木市惣社町の大神(おおみわ)神社の地に「室の八島」があり、 平安時代以来東国の歌枕とされるほどの名所。 「室の八島」とは、神社の境内の池の中に、筑波神社、天満宮、鹿島神社、雷電神社、浅間神社、 熊野神社、二荒山神社、香取神社を鎮座した8つの島があることから名付けられた。 この大神神社は、今からおよそ1800年前に日本最古の神社として有名な奈良県桜井市三輪の 大神神社(おおみわじんじゃ)の分霊を奉った由緒ある神社で、 大物主神( おおものぬしのみこと )、いわゆる七福神の 大国様を祀っている。 このしろ : ニシン科の魚で、江戸前寿司には付きものの小鰭(こはだ)のこと。この魚もぶりなどと同じ出世魚で、5〜6センチのものを「しんこ」、7〜10センチを「こはだ」、 12〜14センチ程度を「なかずみ」、それ以上を「このしろ」と言う。 ただし、ぶりなどと異なり、大きくなるにつれて値段が下がっていく。 | |||||||||||||||||||||||
無戸室 : 戸の無い室のこと。
古事記によれば、天照大神は孫の瓊々杵命( ににぎのみこと )に下記の鏡、剣、勾玉の三種の神器を持たせ、
高天原から地上に降臨させた。いわゆる「天孫降臨」である。
これに対し、木花咲耶姫は、瓊々杵命の子なら無事に出産できるはずだと言い残し、 戸の無い八尋殿( やひろでん )を作ってその中に入り、隙間をすべて壁土でふさいで、室に火を放った。 木花咲耶姫は、炎の中で無事に三柱を産み落とし、貞操を証明した。 この戸の無い室が無戸室( うつむろ )である。 このとき生まれた神々が、火照命( ほでりのみこと 海幸彦 )、火須勢理命( ほすせりのみこと )、 彦火々出見命( ひこほほでみのみこと 山幸彦 )である。 なお、初代 神武天皇( じんむてんのう )は彦火々出見命の孫である。 平安の時代より「煙立つ室の八島の…」と詠われ、東国を代表する歌枕となった「煙立つ」は、 このとき立ち上った激しい煙に由来すると言われている。 | ||||||||||||||||||||||||
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仏五左衛門 | ページトップへ | |||||||||||||||||||||||
卅日、日光山の麓に泊る。 あるじの云けるよう、「我名を仏五左衛門と云。 万正直を旨とする故に、 人かくは申侍まゝ、 一夜の草の枕も打解て休み給へ」と云。 いかなる仏の濁世塵土に示現して、 かゝる桑門の乞食順礼 ごときの人のたすけ給ふにやと、あるじのなす事に心をとゞめてみるに、 唯無知無分別にして正直偏固の者也。 剛毅朴訥の仁に近きたぐひ、 気稟の清質、尤尊ぶべし。 |
奥の細道本文では、3月30日に日光に到着し、仏五左衛門宅に宿泊したことが記されている。
五左衛門は、素朴で純真で正直な仏のような人物であったようである。
濁世塵土 : 仏教用語で、濁った世の中、塵にけがれた世の中の意。 桑門 : 仏門のこと。 気稟の清質 : 気稟とは持って生まれたの意。清質は清らかとか、素直な性質のこと。 | |||||||||||||||||||||||
本文と曾良日記の食い違い : 本文には、
卅日日光着とあるが、曾良日記には3月30日の記述はない。これは何を意味するのであろうか。
実際、元禄2年の3月は小の月で29日までしかなかったのである。
芭蕉が30日に日光の麓に泊まるとしているのは、日光への参詣の日を4月1日として強調するために脚色したもののようである。
したがって、3月29日に鹿沼に泊り、翌4月1日に日光到着、その日に二荒山神社を詣で、
麓の五左衛門宅に泊まったことになる。 | ||||||||||||||||||||||||
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日光 | ページトップへ | |||||||||||||||||||||||
卯月朔日、
御山に詣拝す。
往昔、
比御山を二荒山と書きしを、
空海大師開基の時、
日光と改め給ふ。千歳未来をさとり給ふにや、
今比御光一天にかゝやきて、
恩沢八荒にあふれ、
四民安堵の栖穏なり。
猶、憚多くて筆をさし置ぬ。
黒髪山は霞かゝりて、雪いまだ白し。
曾良は河合氏にして惣五郎と云へり。 芭蕉の下葉に軒を並べて、 予が薪水の労をたすく。 このたび松しま・象潟の眺共にせん事を悦び、 且は羈旅の難をいたはらんと、 旅立暁 髪を剃りすて墨染にさまをかへ、 惣五を改て宗悟とす。仍て黒髪山の句有。 衣更の二字、力ありてきこゆ。廿余丁山を登つて滝有。 岩洞の頂より飛流して百尺、 千岩の碧潭に落ちたり。 岩窟に身をひそめ入りて、滝の裏よりみれば、うらみの滝と申伝へ侍る也。
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4月1日に日光を参拝する。
曾良日記によれば、その日は日光の麓の上鉢石町に泊まっている。
曾良は、頭髪を落とし墨染めの衣に着替えて僧のいでたちとなり、
霊験新たかな気持ちで芭蕉と旅を共にする喜びを表している。
二荒山 : 今から約1200年前の奈良時代末期 天応2年(782) 勝道上人(しょうどうしょうにん)が、 二荒山(男体山)頂上に祠(現在の奥宮)を作り、二荒権現を祀った。 延暦3年(784)には、二荒山の中腹 中禅寺湖北岸に日光山権現を祀る中宮祠、 延暦9年(790)年には本宮神社(ほんぐうじんじゃ)が建立された。これが二荒山神社の始まりである。 なお、奥の細道に空海大師開基とあるが、これは芭蕉の誤りか。実際は、勝道上人の開基になる。 恩沢八荒 : その恵みが広く隅々まで広がっていること。 四民 : 士農工商のこと。 黒髪山 : 現在の男体山のこと。したがって、黒髪山も二荒山も男体山と同じである。 なお、男体山は標高2484mの火山で、女峰山(2464m)と共に日光連山の中核をなす。 衣更 : 江戸時代、 旧暦の4月1日が春の衣替え、10月1日が夏の衣替えの日であった。衣替えというのは、 季節を区別するための行事であり、気持ちを入れ替えて新しい季節を迎える意味があった。 折りしも4月1日、男体山も雪解けを迎えており、曾良も衣替えをして旅の決意をした。 薪水の労 : まきと水の労力、すなわち煮炊きの仕事を助けたということ。 象潟 : 象潟 参照 羇旅 : 馬の手綱を引きながら、 旅をすること。 うらみの滝 : 華厳ノ滝や霧降ノ滝と共に日光三名瀑の一つで、大谷川の支流荒沢川にかかる高さ約45メートルの裏見の滝のこと。以前は滝の裏側からも眺めることができた。 | |||||||||||||||||||||||
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日光から那須へのルート : 芭蕉は、鹿沼から日光に向かい、 男体山麓の「上鉢石村」の仏五左衛門宅に一宿の世話になっている。 翌日五左衛門宅を後にした芭蕉は、まず大谷川上流の荒沢にある「裏見の滝」を訪れている。 その後、今市の「瀬尾」、「川室」、鬼怒川の渡し「大渡」を渡り、「船入」(現在の栃木県塩谷町船生(ふにゅう))を経て、 「玉入」(現在の栃木県塩谷町玉生(たまにゅう))で一泊している。 翌日玉入をたち、「矢板」から「沢」に入り、そこで箒川を渡っている。 このあたりで芭蕉は「かさね」という名の女の子に出会っているが、 現在その子の名前を取って名づけられた橋「かさね橋」がこのあたりに架かっている。 なお、曾良日記によれば、船生を船入、玉生を玉入と記しているが、地名の発音から「入」の字をあてたものと思われる。 また、沢村とは現在の矢板市沢のことで、大田原市薄葉との境に「かさね橋」が架けられている箒川が流れている。 沢村を過ぎてから、芭蕉は大田原に向かい、黒羽の「余瀬」の桃翠宅を訪れている。 現在の地図に照らしてみると、芭蕉は、日光から今市までほぼ現在の国道120号線、 今市から余瀬まではほぼ現在の国道461号線をたどったことになる。 | ||||||||||||||||||||||||
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那須 | ページトップへ | |||||||||||||||||||||||
那須の黒ばねと云所に知人あれば、
是より野越にかゝりて、直道をゆかんとす。
遥かに一村を見かけて行に、雨降日暮る。
農夫の家に一夜をかりて、明れば又野中を行く。
そこに野飼の馬あり。草刈おのこになげきよれば、
野夫といへども、さすがに情しらぬには非ず。
「いかゞすべきや。 されども此野は縦横にわかれて、
うゐうゐ敷旅人の道ふみたがえん、あやしう侍れば、
此馬のとゞまる所にて馬を返し給へ」とかし侍ぬ。
ちいさき者ふたり、馬の跡したひてはしる。
独小姫にて、名を「かさね」と云。
聞なれぬ名のやさしかりければ、
頓人里に至れば、 あたひを鞍つぼに結付て馬を返しぬ。 |
4月3日に、玉生を経ち、矢板、沢村、大田原、那須黒羽を経て余瀬に着き、
桃翠宅に泊まっている。曾良日記によれば、芭蕉は桃翠宅が余瀬にあると思っていたが、
実際はそれよりも20丁ほど手前であったことが記されている。
那須の黒ばね : 那須野が原の東南端に位置する。
あたひ : お礼の銭のこと。道に迷いそうなときに、 誰の馬か分からない野飼いの馬に連れられて人里まで辿りつけたことで、お礼のために何がしかの銭を鞍つぼに結び付けて馬を返した。 | |||||||||||||||||||||||
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黒羽 | ページトップへ | |||||||||||||||||||||||
黒羽の館代浄坊寺何がしかの方に音信る。
思ひがけぬあるじの悦び、日夜語つゞけて、
其弟 桃翠など云が、
朝夕勤とぶらひ、自の家にも伴ひて、
親属の方にもまねかれ、日をふるまゝに、
ひとひ郊外に逍遥して、犬追物の跡を一見し、
那須の篠原をわけて、玉藻の前の古墳をとふ。
それより八幡宮に詣。
与一扇の的を射し時、「別しては我国氏神正八まん」とちかひしも、
此神社にて侍と聞ば、
感応殊しきりに覚えらる。
暮れば桃翠宅に帰る。
修験光明寺と云有。
そこにまねかれて、行者堂を拝す。
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4月4日以降、桃翠宅を基点に雲岩寺、光明寺、金丸八幡宮など那須野の各所を訪れている。
また、16,7日は高久の角左衛門方に宿泊している。
館代 : 領主の館の留守居役のこと。 黒羽の館の館代浄坊寺何がしというのは、浄法寺高勝(通称図書)のことで、俳号を桃雪という。 その弟が桃翠であり、芭蕉の俳諧の仲間であった。 玉藻 : 大田原市篠原にある 玉藻の前(九尾の狐)の神霊を祭る玉藻稲荷神社のこと。玉藻の前とは、 鳥羽院を殺すことに失敗し那須野に逃げた九尾の狐で、絶世の美女に姿を変えて悪事を尽したという伝説の狐。 謡曲「殺生石」はこの妖怪の狐をテーマとしている。 (参考)殺生石伝説 | |||||||||||||||||||||||
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与一 : 那須与一のこと。
現在の栃木県那須郡那珂川町で誕生した。
与一に関する伝説として、あるとき与一が弓で雲雀を射て遊んでいるところに一人の旅の僧が通りかかり、
「小鳥を射落とすのは大変無残なこと、殺さないように射なさい」と言って、金丸八幡宮の森に消えて行った。
与一は、「さては、今の旅の僧は八幡大菩薩の化身であったか」と金丸八幡宮に手を合わせ、
小鳥を殺さずに射落とす訓練をして弓の名手になったと言われている。 平安末期 元暦2年/寿永4年(1185)2月に讃岐国(現在の香川県)屋島で行われた源平の屋島の合戦において、 那須与一が平家の小船に掲げられた小さな扇の的を射るとき、 「南無八幡大菩薩、別しては我が国の明神、日光の権現、宇都宮、那須の湯泉大明神、 願はくは、あの扇の真中射させたまへ。」と祈り、見事扇を射抜いて源氏を勝利に導いたと伝えられている。 このときに祈ったのが金丸八幡宮である。 また、日光の権現とは二荒山神社、那須の湯泉大明神とは那須温泉にある温泉神社である。(殺生石の項 参照) 与一は、戦勝記念に太刀を金丸八幡宮に寄進したが、今もこの太刀が残されているという。 八幡宮 : 栃木県大田原市にある 金丸八幡宮、現在の那須神社のこと。仁徳天皇の御代下野国国家鎮護ために築かれた。 その後、坂上田村麿東夷征討の時に応神天皇勧請により金丸八幡宮と号し奉った。 その後、那須氏の氏神、黒羽城主大関氏の氏神を経て、明治六年に那須神社と改名された。 正式には那須総社金丸八幡宮那須神社という。 修験光明寺 : 現在の栃木県那須郡黒羽町余瀬に、文治2年(1186)那須与一が弥陀仏を勧請して建立したといわれている寺。 後に修験道の寺になり、行者堂もそのために作られた。なお、現在は修験光明寺跡に芭蕉の句碑が建っている。 | |||||||||||||||||||||||
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那須連峰
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雲厳寺 | ページトップへ | |||||||||||||||||||||||
当国雲岸寺のおくに、
仏頂和尚山居跡あり。
妙禅師の死関、 法雲法師の石室をみるごとし。
木啄も 庵はやぶらず 夏木立
と、とりあへぬ一句を柱に残侍りし。
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4月5日に雲岩寺を訪れている。雲岩寺には佛頂和尚が山ごもりした跡があり、
ぜひそれを見たいと思っていた芭蕉は大きな感動を覚えたようである。
仏頂和尚 : 常陸国鹿島根本寺の住職。 寛永19年(1642)常陸国に生まれ、8歳で禅門の道を歩み始めた。鹿島神宮の寺領争いの提訴ため江戸に出てきてから、 天和2年(1682)に勝訴するまでの約7年間江戸に暮らしたが、延宝8年(1680)頃にたまたま深川の臨川庵に滞在した折、 芭蕉と知り合いになった。仏頂禅師は、晩年雲巌寺の山中にこもり修行を積んだが、正徳5年(1715)病によりこの山庵で没した。享年74歳であった。 妙禅師の死関、 法雲法師の石室 : 妙禅師は南宋時代の臨済宗の高僧で、 「死関」と名付けた洞窟で15年も隠棲したと言われている。 また、法雲法師は中国南朝時代の高僧で、大岩の上で終日談論したと言われている。この大岩の上の居場所を「石室」と言う。 | |||||||||||||||||||||||
【雲岸寺(雲巌寺)】
現在の大田原市黒羽町にある臨済宗妙心寺派の禅寺。
雲岸寺(雲巌寺)は、大治年間(1126〜1131)に叟元和尚が開基、弘安6年(1283)仏国国師によって開山、時の執権・北条時宗の庇護を受けた古名刹。
なお、天正6年(1578)に無住妙徳禅師が住職となり臨済宗妙心寺派に属した。 茨城/福島/栃木の県境を南下し筑波山に至る八溝山地(やみぞさんち)の栃木県側山裾に位置する黒羽(現在は大田原市に合併)の地、 茨木県の馬頭や常陸大子に向かう国道461号線から少し奥に入った県道321号線沿いに雲巌寺がある。県道沿いに渓流が流れ、 雲巌寺への入口から山門に向かうところに橋が架かっており、その下を渓流が流れている。山裾とはいえ比較的樹木が多く、 鬱蒼とした雰囲気の中に、豪壮な山門がたたずんでいる。山門をくぐり、仏堂、鐘楼を見ながら、さらに上に上がると庫裡や禅堂がある。 庫裡の裏手の山に、仏頂禅師が修行したと言われている石上の小庵があったようであるが、現在はがけ崩れの危険もあるとかで立ち入り禁止になっている。
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殺生石 | ページトップへ | |||||||||||||||||||||||
是より殺生石に行。
館代より馬にて送らる。此口付のおのこ、
「短冊 得させよ」と乞。
やさしき事を望侍るものかなと、
殺生石は温泉の出る山陰にあり。 石の毒気いまだほろびず、蜂・蝶のたぐひ、真砂の色の見えぬほどかさなり死す。 |
4月19日に、那須湯本温泉にある殺生石を訪れ、その日は湯本温泉で1泊している。
湯泉ヘ参詣(曾良日記) : 那須湯本温泉の奥に位置する「温泉神社」のこと。 この神社の裏手に「殺生石」がある。 殺生石 : 那須湯本温泉の源泉付近に位置する岩肌がむき出し、有毒ガスが噴出している一帯。蜂や蝶などの生き物も死に、古来石に宿る霊の仕業と考えられて「殺生石」と呼ばれている。 | |||||||||||||||||||||||
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【殺生石伝説】
鳥羽院に仕えた才色兼備な「玉藻の前」は、自分がこの世を支配しようと鳥羽院の殺害を企てたが、
陰陽師阿部泰成によって妖怪「九尾の狐」と見破られてしまう。白面金毛九尾の狐の姿で那須野に逃げた九尾の狐は、
ここでも婦女子をさらう悪事を働く。那須の領主須藤権守貞信は、朝廷にこの妖怪退治を要請し、
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蘆野 | ページトップへ | |||||||||||||||||||||||
又、清水ながるゝの柳は、蘆野の里にありて、田の畔に残る。
此所の郡守
戸部某の、
「此柳みせばや」など、折おりにの給ひ聞え給ふを、
いづくのほどにやと思ひしを、今日此柳のかげにこそ立より侍つれ。
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4月20日、芦野を訪れ、その足で福島の白河の関を越えている。
蘆野の里 : 現在の栃木県那須郡那須町芦野。芦野は、那須一族の芦野氏の居城のあった町で、江戸時代にはの3000石の旗本芦野氏の城下町として栄えた。 関東最北に位置する奥州街道の宿場町でもあった。今も御殿山に芦野氏の陣屋跡がある。 芦野の町を越えると間もなく福島との県境となる。 郡守 戸部某 : 当時の芦野の領主であった芦野資俊を指して 「戸部某」と言った。 | |||||||||||||||||||||||
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芦野の遊行柳 : 本文中の清水流るる柳を「遊行柳(ゆぎょうやなぎ)」と言う。
遊行とは、僧侶が修行のため諸国をめぐり歩くことを言い、
浄土真宗時宗(じしゅう)の開祖である鎌倉時代の僧「一遍上人(遊行上人とも言う)(1239 - 1289)」がこの地を訪れたときに
柳の精が現れて、西行の出家の話を聞かせ、一遍を導いたことから、
「遊行柳」と呼ばれるようになったと言われている。
芦野は、鎌倉時代初期の僧 西行(1118〜1190)が奥州への旅の途中この地に立ち寄ったときに詠んだ
「道のべに 清水流るる 柳かげ しばしとてこそ 立ちどまりつれ」 の歌で有名な謡曲『遊行柳』の舞台になった歴史の町。
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