江戸東京探訪シリーズ
奥の細道を読む
芭蕉 前途三千里の思い
胸にふさがりて…
本文目次
最初に
序章・旅立
関東地方へ
東北地方(白川の関〜武隈)へ
東北地方(宮城野〜石の巻)へ
東北地方(平泉〜最上川)へ
東北地方(羽黒山〜象潟)へ
越後地方(越後路〜那古の浦)へ
北陸地方(金沢〜等栽)へ
美濃の国へ(敦賀〜大垣)


参考情報索引
関東地方   草加 室の八島 仏五左衛門 日光 那須 黒羽 雲厳寺 殺生石 蘆野
【参考】 室の八島  無戸室  このしろ  本文と曾良日記の食い違い  日光から那須へのルート  那須に長逗留した理由  那須与一 
那須連峰  雲岸寺  仏頂和尚  殺生石伝説  芦野の遊行柳
本文中、解説付きの語句は 紫色の字 で示し、 旅の日付が分かる箇所は 茶色の字 で示している。 また、右側の欄の「曾良日記より」には、曾良日記中の日付に関する記述を示している。
 草加 ページトップへ
ことし元禄げんろくふたとせにや、 奥羽長途ちょうど行脚あんぎゃただかりそめに思ひたちて、呉天ごてんに 白髪のうらみを重ぬといへども、耳にふれていまだに見ぬさかひ、 もしいきて帰らばとさだめなきたのみすえをかけ、 其日そのひ やうやう 草加という宿にたどりつきにけり。 痩骨そうこつの肩にかゝれる物 まづくるしむ。 ただ 身すがらにと出立いでたちはべるを、 帋子かみこ一衣いちえは夜のふせぎ、 ゆかた・雨具・墨・筆のたぐひ、あるはさりがたきはなむけなどしたるは、 さすがに打捨うちすてがたくて、 路次ろしわずらいとなれるこそわりなけれ。 3月27日に千住を旅立ち、 これからの未知の地への長旅に対する不安を抱きながら、その日のうちに草加に至る。
 

元禄げんろくふたとせ :  元禄2年のこと。
 

呉天ごてん :  紀元前中国で栄えた呉の国の空。同時期に越の国もあり、 呉と越が互いに仲良くすることの意で「呉越同舟」という言葉がある。
呉天に白髪の恨み・・・は、これから旅立つ遠い地を呉国の空にたとえ、そこで白髪になるほど辛く苦しい経験を重ねるかもしれないが、 まだ見ぬ地へいざ出立という芭蕉の決意を表している。
 

帋子かみこ :  紙製の衣服のこと。
 

路次ろしわずらい :  路次とは旅の道中のことで、道中のさまたげの意。
 室の八島 ページトップへ
室の八島むろのやしまけいす。 同行曾良そらいわく、 「この神は木の花このはなさくや姫の神ともうして富士一躰いったいなり無戸室うつむろに入てやきたまふちかひのみ中に、 火々出見ほほでみのみこと生れたまひしより室の八島むろのやしま もうす。 又けむり読習よみならわはべるもこのいはれなり」。  はたこのしろといふ魚を禁ず。 縁起えんぎむね 世につたふ事もはべりし。 3月27日埼玉県の春日部、28日栃木県の間々田に泊まり、 明くる29日に栃木県栃木市惣社町にある大神(おおみわ)神社を訪れている。
 

「曾良日記」より
・廿七日夜 カスカベニ泊ル。
・廿八日 マゝダニ泊ル。カスカベヨリ九里。辰上尅止ニ依テ宿出 ・・・ 此日栗橋ノ関所通ル。
・廿九日 辰ノ上尅マゝダヲ出。小山ヘ一リ半 ・・・(中略)・・・ 室ノ八島ヘ行 ・・・(中略)・・・ 壬生ヨリ楡木へ二リ ・・・(中略)・・・ 同晩、鹿沼ニ泊ル。

室の八島むろのやしま : 現在の栃木県栃木市惣社町の大神(おおみわ)神社の地に「室の八島」があり、 平安時代以来東国の歌枕とされるほどの名所。
「室の八島」とは、神社の境内の池の中に、筑波神社、天満宮、鹿島神社、雷電神社、浅間神社、 熊野神社、二荒山神社、香取神社を鎮座した8つの島があることから名付けられた。
この大神神社は、今からおよそ1800年前に日本最古の神社として有名な奈良県桜井市三輪の 大神神社(おおみわじんじゃ)の分霊を奉った由緒ある神社で、 大物主神( おおものぬしのみこと )、いわゆる七福神の 大国様を祀っている。
 

このしろ : ニシン科の魚で、江戸前寿司には付きものの小鰭(こはだ)のこと。この魚もぶりなどと同じ出世魚で、5〜6センチのものを「しんこ」、7〜10センチを「こはだ」、 12〜14センチ程度を「なかずみ」、それ以上を「このしろ」と言う。 ただし、ぶりなどと異なり、大きくなるにつれて値段が下がっていく。
無戸室うつむろ : 戸の無い室のこと。 古事記によれば、天照大神は孫の瓊々杵命( ににぎのみこと )に下記の鏡、剣、勾玉の三種の神器を持たせ、 高天原から地上に降臨させた。いわゆる「天孫降臨」である。
・ 「八咫鏡(やたのかがみ)」
・ 「天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)」
      (「草薙剣(くさなぎのつるぎ)」とも言う)
・ 「八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)」

瓊々杵命は、大山祇命( おおやまつみのみこと )の娘 木花咲耶姫(このはなさくやひめ )に恋して結婚した。 木花咲耶姫は瓊々杵命と一夜を共にし身ごもったが、瓊々杵命は誰か国つ神の子ではないかと疑惑を抱いた。
これに対し、木花咲耶姫は、瓊々杵命の子なら無事に出産できるはずだと言い残し、 戸の無い八尋殿( やひろでん )を作ってその中に入り、隙間をすべて壁土でふさいで、室に火を放った。 木花咲耶姫は、炎の中で無事に三柱を産み落とし、貞操を証明した。 この戸の無い室が無戸室( うつむろ )である。
このとき生まれた神々が、火照命( ほでりのみこと 海幸彦 )、火須勢理命( ほすせりのみこと )、 彦火々出見命( ひこほほでみのみこと 山幸彦 )である。 なお、初代 神武天皇( じんむてんのう )は彦火々出見命の孫である。
平安の時代より「煙立つ室の八島の…」と詠われ、東国を代表する歌枕となった「煙立つ」は、 このとき立ち上った激しい煙に由来すると言われている。

 仏五左衛門 ページトップへ
卅日みそか、日光山のふもとに泊る。 あるじのいいけるよう、「我名わがなほとけ五左衛門ござえもんいうよろず正直を旨とするゆえに、 人かくは申侍もうしはべるまゝ、 一夜の草の枕も打解うちとけて休みたまへ」という。 いかなる仏の濁世塵土ぢょくせぢんど示現じげんして、 かゝる桑門そうもん乞食順礼こつじきじゅんれい ごときの人のたすけ給ふにやと、あるじのなす事に心をとゞめてみるに、 ただ無知無分別むちむふんべつにして正直偏固へんこの者なり剛毅朴訥ごうきぼくとつじんに近きたぐひ、 気稟きひん清質せいしつもっとも尊ぶべし。 奥の細道本文では、3月30日に日光に到着し、仏五左衛門宅に宿泊したことが記されている。 五左衛門は、素朴で純真で正直な仏のような人物であったようである。
 

「曾良日記」より
・卅日 (この日の記述はなし)

濁世塵土ぢょくせぢんど : 仏教用語で、濁った世の中、塵にけがれた世の中の意。
 

桑門そうもん : 仏門のこと。
 

気稟きひん清質せいしつ : 気稟とは持って生まれたの意。清質は清らかとか、素直な性質のこと。
本文と曾良日記の食い違い : 本文には、 卅日日光着とあるが、曾良日記には3月30日の記述はない。これは何を意味するのであろうか。 実際、元禄2年の3月は小の月で29日までしかなかったのである。 芭蕉が30日に日光の麓に泊まるとしているのは、日光への参詣の日を4月1日として強調するために脚色したもののようである。 したがって、3月29日に鹿沼に泊り、翌4月1日に日光到着、その日に二荒山神社を詣で、 麓の五左衛門宅に泊まったことになる。
 

 日光 ページトップへ
卯月朔日うづきついたち御山おやま詣拝けいはいす。 往昔そのかみこの御山を二荒山ふたらさんと書きしを、 空海大師くうかいだいし開基かいきの時、 日光にっこうと改め給ふ。千歳せんざい未来をさとり給ふにや、 今比御光このみひかり一天にかゝやきて、 恩沢八荒おんたくはっこうにあふれ、 四民安堵しみんあんどすみかおだやかなり。 なおはばかり多くて筆をさし置ぬ。

あらたふと 青葉若葉あおばわかばの 日の光


黒髪山くろかみやまは霞かゝりて、雪いまだ白し。

剃捨そりすてて 黒髪山くろかみやまに 衣更ころもがへ      曾良


曾良は河合氏かわいうじにして惣五郎そうごろうへり。 芭蕉の下葉したばのきを並べて、 予が薪水しんすいろうをたすく。 このたび松しま・象潟きさがたながめ共にせん事をよろこび、 かつ羈旅きりょの難をいたはらんと、 旅立たびだつあかつき 髪をりすて墨染すみぞめにさまをかへ、 惣五を改て宗悟とす。よって黒髪山の句あり衣更ころもがへの二字、力ありてきこゆ。廿余丁にじゅうよちょう山を登つて滝あり岩洞がんとうの頂より飛流ひりゅうして百尺はくせき千岩せんがん碧潭へきたんに落ちたり。 岩窟がんくつに身をひそめ入りて、滝の裏よりみれば、うらみの滝申伝もうしつたはべなり

暫時しばらくは 滝にこもるや  はじめ
4月1日に日光を参拝する。 曾良日記によれば、その日は日光の麓の上鉢石町に泊まっている。 曾良は、頭髪を落とし墨染めの衣に着替えて僧のいでたちとなり、 霊験新たかな気持ちで芭蕉と旅を共にする喜びを表している。
 

「曾良日記」より
・四月朔日 ・・・辰上尅、宿ヲ出。・・・午ノ尅、日光ヘ着。 ・・・(中略)・・・ 大樂院ヘ使僧ヲ被添。折節大樂院客有之、未ノ下尅迄待テ御宮拝見。終テ其夜日光上鉢石町五左衛門ト云者ノ方ニ宿。
・同二日 辰ノ中尅、宿ヲ出。ウラ見ノ滝見巡、漸ク及午。  鉢石ヲ立、奈(那)須・太田原ヘ趣。常ニハ今市ヘ戻リテ大渡リト云所ヘカゝルト云ドモ、五左衛門案内ヲ教ヘ、 日光ヨリ廿丁程下リ、左ヘノ方ヘ切レ、川ヲ越、せノ尾・川室ト云村へカゝリ、大渡リト云馬次ニ至ル。三リニ少シ遠シ。 ・・・(中略)・・・ 大渡ヨリ船入ヘ壱リ半ト云ドモ壱里程有。絹川ヲカリ橋有。大形ハ船渡し。 船入ヨリ玉入ヘ弐リ。同晩 玉入泊。

二荒山ふたらさん : 今から約1200年前の奈良時代末期 天応2年(782) 勝道上人(しょうどうしょうにん)が、 二荒山(男体山)頂上に祠(現在の奥宮)を作り、二荒権現を祀った。 延暦3年(784)には、二荒山の中腹 中禅寺湖北岸に日光山権現を祀る中宮祠、 延暦9年(790)年には本宮神社(ほんぐうじんじゃ)が建立された。これが二荒山神社の始まりである。

なお、奥の細道に空海大師開基とあるが、これは芭蕉の誤りか。実際は、勝道上人の開基になる。
 

恩沢八荒おんたくはっこう : その恵みが広く隅々まで広がっていること。
 

四民しみん : 士農工商のこと。
 

黒髪山くろかみやま : 現在の男体山のこと。したがって、黒髪山も二荒山も男体山と同じである。
なお、男体山は標高2484mの火山で、女峰山(2464m)と共に日光連山の中核をなす。
 

衣更ころもがへ : 江戸時代、 旧暦の4月1日が春の衣替え、10月1日が夏の衣替えの日であった。衣替えというのは、 季節を区別するための行事であり、気持ちを入れ替えて新しい季節を迎える意味があった。
折りしも4月1日、男体山も雪解けを迎えており、曾良も衣替えをして旅の決意をした。
 

薪水しんすいろう : まきと水の労力、すなわち煮炊きの仕事を助けたということ。
 

象潟きさがた :  象潟 参照

羇旅きりょ : 馬の手綱を引きながら、 旅をすること。
 

うらみの滝 : 華厳ノ滝や霧降ノ滝と共に日光三名瀑の一つで、大谷川の支流荒沢川にかかる高さ約45メートルの裏見の滝のこと。以前は滝の裏側からも眺めることができた。
日光から那須へのルート : 
日光ルート
芭蕉は、鹿沼から日光に向かい、 男体山麓の「上鉢石村」の仏五左衛門宅に一宿の世話になっている。 翌日五左衛門宅を後にした芭蕉は、まず大谷川上流の荒沢にある「裏見の滝」を訪れている。 その後、今市の「瀬尾」、「川室」、鬼怒川の渡し「大渡」を渡り、「船入」(現在の栃木県塩谷町船生(ふにゅう))を経て、 「玉入」(現在の栃木県塩谷町玉生(たまにゅう))で一泊している。
翌日玉入をたち、「矢板」から「沢」に入り、そこで箒川を渡っている。 このあたりで芭蕉は「かさね」という名の女の子に出会っているが、 現在その子の名前を取って名づけられた橋「かさね橋」がこのあたりに架かっている。
なお、曾良日記によれば、船生を船入、玉生を玉入と記しているが、地名の発音から「入」の字をあてたものと思われる。 また、沢村とは現在の矢板市沢のことで、大田原市薄葉との境に「かさね橋」が架けられている箒川が流れている。 沢村を過ぎてから、芭蕉は大田原に向かい、黒羽の「余瀬」の桃翠宅を訪れている。
現在の地図に照らしてみると、芭蕉は、日光から今市までほぼ現在の国道120号線、 今市から余瀬まではほぼ現在の国道461号線をたどったことになる。

 那須 ページトップへ
那須の黒ばね云所いうところ知人しるひとあれば、 是より野越のごえにかゝりて、直道すぐみちをゆかんとす。 遥かに一村を見かけて行に、雨降あめふり日暮ひくるる。 農夫の家に一夜をかりて、あくれば又野中のなかを行く。 そこに野飼のがひの馬あり。草刈くさかるおのこになげきよれば、 野夫やふといへども、さすがになさけしらぬにはあらず。 「いかゞすべきや。 されどもこの野は縦横じゅうおうにわかれて、 うゐうゐしき旅人の道ふみたがえん、あやしうはべれば、 この馬のとゞまる所にて馬を返したまへ」とかしはべりぬ。 ちいさき者ふたり、馬のあとしたひてはしる。 ひとりは小姫こひめにて、名を「かさね」というききなれぬ名のやさしかりければ、

かさねとは 八重撫子やえなでしこの 名成ななるべし       曾良


やがて人里ひとざといたれば、 あたひくらつぼに結付むすびつけて馬を返しぬ。
4月3日に、玉生を経ち、矢板、沢村、大田原、那須黒羽を経て余瀬に着き、 桃翠宅に泊まっている。曾良日記によれば、芭蕉は桃翠宅が余瀬にあると思っていたが、 実際はそれよりも20丁ほど手前であったことが記されている。
 

「曾良日記」より
・同三日 辰上尅、玉入ヲ立。鷹内ヘ二リ八丁。鷹内ヨリヤイタヘ壱リニ近シ。 ヤイタヨリ沢村ヘ壱リ。沢村ヨリ太田原ヘ二リ八丁。太田原ヨリ黒羽根ヘ三リト云ドモ二リ余也。桃翠宅、 ヨゼト云所也トテ、弐十丁程アトヘモドル也。

那須なすくろばね : 那須野が原の東南端に位置する。
那須野
(那須野が原)
芭蕉はこの黒羽に14日間逗留するが、旅の全行程の中で最も長く滞在した場所である。なお、黒羽町は平成17年に大田原市に編入されている。
 

あたひ : お礼の銭のこと。道に迷いそうなときに、 誰の馬か分からない野飼いの馬に連れられて人里まで辿りつけたことで、お礼のために何がしかの銭を鞍つぼに結び付けて馬を返した。
 黒羽 ページトップへ
黒羽くろばね館代浄坊寺かんだいじょうぼうじ何がしかの方に音信おとづる。 思ひがけぬあるじのよろこび、日夜かたりつゞけて、 その弟 桃翠とうすいなどいうが、 朝夕つとめとぶらひ、みずからの家にも伴ひて、 親属しんぞくの方にもまねかれ、日をふるまゝに、 ひとひ郊外に逍遥しょうようして、犬追物いぬおふものの跡を一見し、 那須の篠原しのはらをわけて、玉藻たまもの前の古墳こふんをとふ。 それより八幡宮はちまんぐうもうづ与一よいちおおぎまとし時、「べっしては我国氏神正八まんわがくにのうぢがみしょうはちまん」とちかひしも、 この神社にてはべるきかば、 感応かんのうことにしきりに覚えらる。 くるれば桃翠とうすい宅に帰る。 修験光明寺しゅげんこうみょうじ云有いふあり。 そこにまねかれて、行者堂ぎょうじゃどうはいす。

夏山に 足駄あしだおがむ 門途哉かどでかな
4月4日以降、桃翠宅を基点に雲岩寺、光明寺、金丸八幡宮など那須野の各所を訪れている。 また、16,7日は高久の角左衛門方に宿泊している。
 

「曾良日記」より
・同四日 浄法寺図書ヘ
・同五日 雲岩寺見物。
・六日〜
 九日
六日ヨリ九日迄、雨不止。九日、光明寺ヘ・・・
・十一日 余瀬桃翠ヘ帰ル。
・十二日 図書被見廻、篠原被誘引。
・十三日 津久井氏被見廻テ、八幡ヘ参詣・・・
・十四日 雨降リ、図書被見廻終日。
・十五日 昼過、翁と鹿助右同道ニテ図書ヘ被参。
・十六日 余瀬ヲ立。・・・(中略)・・・高久ニ至ル。
・十七日 角左衛門方ニ猶宿。

館代かんだい : 領主の館の留守居役のこと。 黒羽の館の館代浄坊寺何がしというのは、浄法寺高勝(通称図書)のことで、俳号を桃雪という。 その弟が桃翠であり、芭蕉の俳諧の仲間であった。
 

玉藻たまも : 大田原市篠原にある 玉藻の前(九尾の狐)の神霊を祭る玉藻稲荷神社のこと。玉藻の前とは、 鳥羽院を殺すことに失敗し那須野に逃げた九尾の狐で、絶世の美女に姿を変えて悪事を尽したという伝説の狐。 謡曲「殺生石」はこの妖怪の狐をテーマとしている。
(参考)殺生石伝説

那須に長逗留した理由 :     ( 那須一帯の地図 )

芭蕉が奥の細道の旅の全行程中最も長く滞在したのは栃木県の那須である。約14日間逗留している。

なぜ那須が一番長かったのか、確かな理由は分からないが想像するに、

★ 長く厳しい道中で寝泊りすることは最も重要であり、 頼りになる人がいるか否かが大きな問題であったと思われる。 那須の黒羽には知り合いの館代浄坊寺、余瀬にはその弟の桃翠がいた。 また、高久には角左衛門、那須湯元には五左衛門という頼れる人もいた。
特に桃翠は芭蕉と同じ俳人である。これらのことが、那須に一番長く留まった最大の理由であろう。
那須の地図  (上図の薄い矢印の帯は芭蕉がたどったおおよその道順)

★  もう1つの理由は、 白河の関 が目と鼻の先にあったことである。 この関を越えるということは、みちのくに踏み入ることを意味する。 古くは「道の奥」と呼ばれていたのが「みちのく」になったと言われているように、 この当時ですらまだみちのくがどのような所かよく知られていなかったようである。 芭蕉は、那須の地において、異国に旅立つような思いでみちのくへの旅をおもんばかっていたのは確実である。 白河の関を越えてみちのくに踏み入るべきか、ここで引き返したほうがよいかの瀬戸際であり、 迷いを吹っ切るのに相当な時間が必要であったと思われる。
与一よいち : 那須与一のこと。 現在の栃木県那須郡那珂川町で誕生した。 与一に関する伝説として、あるとき与一が弓で雲雀を射て遊んでいるところに一人の旅の僧が通りかかり、 「小鳥を射落とすのは大変無残なこと、殺さないように射なさい」と言って、金丸八幡宮の森に消えて行った。 与一は、「さては、今の旅の僧は八幡大菩薩の化身であったか」と金丸八幡宮に手を合わせ、 小鳥を殺さずに射落とす訓練をして弓の名手になったと言われている。
平安末期 元暦2年/寿永4年(1185)2月に讃岐国(現在の香川県)屋島で行われた源平の屋島の合戦において、 那須与一が平家の小船に掲げられた小さな扇の的を射るとき、 「南無八幡大菩薩、別しては我が国の明神、日光の権現、宇都宮、那須の湯泉大明神、 願はくは、あの扇の真中射させたまへ。」と祈り、見事扇を射抜いて源氏を勝利に導いたと伝えられている。 このときに祈ったのが金丸八幡宮である。
また、日光の権現とは二荒山神社、那須の湯泉大明神とは那須温泉にある温泉神社である。(殺生石の項 参照)
与一は、戦勝記念に太刀を金丸八幡宮に寄進したが、今もこの太刀が残されているという。
 

八幡宮はちまんぐう : 栃木県大田原市にある 金丸八幡宮、現在の那須神社のこと。仁徳天皇の御代下野国国家鎮護ために築かれた。 その後、坂上田村麿東夷征討の時に応神天皇勧請により金丸八幡宮と号し奉った。 その後、那須氏の氏神、黒羽城主大関氏の氏神を経て、明治六年に那須神社と改名された。
正式には那須総社金丸八幡宮那須神社という。
 

修験光明寺しゅげんこうみょうじ : 現在の栃木県那須郡黒羽町余瀬に、文治2年(1186)那須与一が弥陀仏を勧請して建立したといわれている寺。 後に修験道の寺になり、行者堂もそのために作られた。なお、現在は修験光明寺跡に芭蕉の句碑が建っている。


那須連峰
茶臼岳(1915m)、三本槍岳(1917m)、 旭岳(1896m)などの火山が連なる那須連峰。 那須岳という呼び名は特定の山を指すわけではなく、茶臼岳、三本槍岳、旭岳などの総称で那須連峰のこと。 写真のほぼ中央の高く見える山が茶臼岳、その右手に三本槍岳、さらに右の方に旭岳が聳える。 旭岳は福島県側に属し、阿武隈川の源流となっている。 茶臼岳の活発な火山活動により豊富な温泉が湧き出て、那須温泉を支えている。 那須温泉の一番奥まったところに温泉神社があり、さらにその奥に殺生石がある。 ここを越えると、茶臼岳に向かうルートがある。 (H20.2.10撮影)
那須連峰
雪割橋 雪割橋から見た紅葉の阿武隈川。 阿武隈川は、茶臼岳、三本槍岳に連なる旭岳を源流とする。 雪割橋

雪割橋は、白河から那須高原に向かう国道289号線沿い、 福島県西白河郡西郷村に位置する。
 
(H18.11.4撮影)

 雲厳寺 ページトップへ
当国とうごく雲岸寺うんがんじのおくに、 仏頂和尚ぶっちょうおしょう山居さんきょの跡あり。
竪横たてよこの 五尺にたらぬ 草のいほ  
むすぶもくや 雨なかりせば
と、松の炭して岩に書付かきつけはべりと、いつぞや聞え給ふ。 其跡そのあとみんと雲岸寺につえひけば、 人々すゝんで共にいざなひ、若き人おほく道のほどうちさはぎて、 おぼえず彼麓かのふもとに到る。 山は おくあるけしきにて、谷道たにみちはるかに、 松杉黒くこけしたゞりて、卯月うづきの天  今猶いまなおさむし。 十景つくる所、橋をわたつて山門さんもんいる。 さて、かのあとはいづくのほどにやと、後の山によぢのぼれば、 石上せきしょう小庵しょうあん岩窟がんくつにむすびかけたり。
妙禅師みょうぜんじ死関しかん
法雲法師ほううんほうし石室せきしつをみるごとし。

木啄きつつきも いほはやぶらず 夏木立なつこだち


と、とりあへぬ一句を柱に残侍のこしはべりし。

雲巌寺
雲巌寺境内にある
「木啄も・・・」の句碑
4月5日に雲岩寺を訪れている。雲岩寺には佛頂和尚が山ごもりした跡があり、 ぜひそれを見たいと思っていた芭蕉は大きな感動を覚えたようである。
 

「曾良日記」より
 ( 黒羽 参照 )

仏頂和尚ぶっちょうおしょう : 常陸国鹿島根本寺の住職。 寛永19年(1642)常陸国に生まれ、8歳で禅門の道を歩み始めた。鹿島神宮の寺領争いの提訴ため江戸に出てきてから、 天和2年(1682)に勝訴するまでの約7年間江戸に暮らしたが、延宝8年(1680)頃にたまたま深川の臨川庵に滞在した折、 芭蕉と知り合いになった。仏頂禅師は、晩年雲巌寺の山中にこもり修行を積んだが、正徳5年(1715)病によりこの山庵で没した。享年74歳であった。
 


妙禅師みょうぜんじ死関しかん法雲法師ほううんほうし石室せきしつ : 妙禅師は南宋時代の臨済宗の高僧で、 「死関」と名付けた洞窟で15年も隠棲したと言われている。 また、法雲法師は中国南朝時代の高僧で、大岩の上で終日談論したと言われている。この大岩の上の居場所を「石室」と言う。
雲岸寺うんがんじ(雲巌寺)】
現在の大田原市黒羽町にある臨済宗妙心寺派の禅寺。 雲岸寺(雲巌寺)は、大治年間(1126〜1131)に叟元和尚が開基、弘安6年(1283)仏国国師によって開山、時の執権・北条時宗の庇護を受けた古名刹。 なお、天正6年(1578)に無住妙徳禅師が住職となり臨済宗妙心寺派に属した。 

茨城/福島/栃木の県境を南下し筑波山に至る八溝山地(やみぞさんち)の栃木県側山裾に位置する黒羽(現在は大田原市に合併)の地、 茨木県の馬頭や常陸大子に向かう国道461号線から少し奥に入った県道321号線沿いに雲巌寺がある。県道沿いに渓流が流れ、 雲巌寺への入口から山門に向かうところに橋が架かっており、その下を渓流が流れている。山裾とはいえ比較的樹木が多く、 鬱蒼とした雰囲気の中に、豪壮な山門がたたずんでいる。山門をくぐり、仏堂、鐘楼を見ながら、さらに上に上がると庫裡や禅堂がある。 庫裡の裏手の山に、仏頂禅師が修行したと言われている石上の小庵があったようであるが、現在はがけ崩れの危険もあるとかで立ち入り禁止になっている。

雲巌寺 渓流 山門 鐘楼仏堂
雲巌寺入口 右手に樹齢400年の杉の大木がある 山門に向かう橋(左の写真の赤い橋)の下を流れる渓流 山門 鐘楼と仏堂
 殺生石 ページトップへ
これより殺生石せっしょうせきゆく館代かんだいより馬にて送らる。此口付このくちつきのおのこ、 「短冊たんじゃく 得させよ」とこふ。 やさしき事を望侍のぞみはべるものかなと、

野を横に 馬ひきむけよ ほとゝぎす


殺生石せっしょうせき温泉いでゆいず山陰やまかげにあり。 石の毒気いまだほろびず、蜂・蝶のたぐひ、真砂まさごの色の見えぬほどかさなりす。
4月19日に、那須湯本温泉にある殺生石を訪れ、その日は湯本温泉で1泊している。
 

「曾良日記」より
・十八日 卯尅、地震ス。辰ノ上尅、雨止。午ノ尅、高久角左衛門宿ヲ立。・・・(中略)・・・未ノ下尅、湯元五左衛門方ヘ着。
・十九日 午ノ上尅、湯泉ヘ参詣。神主越中出合、宝物ヲ拝。与一扇ノ的躬残ノカブラ壱本・征矢十本・・・也。  ・・・(中略)・・・夫ヨリ殺生石ヲ見ル。宿五左衛門案内。

湯泉ヘ参詣(曾良日記) : 那須湯本温泉の奥に位置する「温泉神社」のこと。 この神社の裏手に「殺生石」がある。
 

殺生石せっしょうせき : 那須湯本温泉の源泉付近に位置する岩肌がむき出し、有毒ガスが噴出している一帯。蜂や蝶などの生き物も死に、古来石に宿る霊の仕業と考えられて「殺生石」と呼ばれている。

【殺生石伝説】
鳥羽院に仕えた才色兼備な「玉藻の前」は、自分がこの世を支配しようと鳥羽院の殺害を企てたが、 陰陽師阿部泰成によって妖怪「九尾の狐」と見破られてしまう。白面金毛九尾の狐の姿で那須野に逃げた九尾の狐は、 ここでも婦女子をさらう悪事を働く。那須の領主須藤権守貞信は、朝廷にこの妖怪退治を要請し、
九尾の狐
九尾の狐
「目的物に必ず命中し、刺さったら抜けない矢」を得て、これで九尾の狐を射殺する。 九尾の狐は、巨大な毒石に姿を変え、生き物を殺す有毒ガスを噴出しつづけたため、 村人はこの毒石を「殺生石」と呼んで恐れた。僧侶による鎮魂の祈祷を幾たびも捧げるが、 その度に僧は殺生石の毒気で次々と倒れてしまう。 やっと源翁和尚という僧に祈祷してもらったときに、殺生石は3つに割れて飛びちり、毒気を弱めることに成功した。 しかし、割れた石の1つが残り、今もなおその石が毒気を吐きつづけている。

温泉神社 地蔵 殺生石
曾良日記中の「温泉ヘ参詣」の温泉神社 殺生石に向かって手を合わせる地蔵さん 硫黄の臭いが立ち込める殺生石
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又、清水ながるゝの柳は、蘆野あしのの里にありて、田のくろに残る。 この所の郡守ぐんしゅ 戸部こほうなにがしの、 「此柳このやなぎみせばや」など、おりおりにのたまきこたまふを、 いづくのほどにやと思ひしを、今日此柳のかげにこそたちよりはべりつれ。

田一枚植えて 立去たちさる 柳かな
遊行柳
遊行柳
4月20日、芦野を訪れ、その足で福島の白河の関を越えている。
 

「曾良日記」より
・廿日 辰中尅、晴。下尅、湯本ヲ立。・・・(中略)・・・ウルシ塚ヨリ芦野ヘ二リ余。 芦野ヨリ白坂ヘ三リ八丁。芦野町ハヅレ、・・・左ノ方ニ遊行柳有。其西ノ四、五丁之内ニ愛岩(宕)有。・・・

蘆野あしのの里 : 現在の栃木県那須郡那須町芦野。芦野は、那須一族の芦野氏の居城のあった町で、江戸時代にはの3000石の旗本芦野氏の城下町として栄えた。 関東最北に位置する奥州街道の宿場町でもあった。今も御殿山に芦野氏の陣屋跡がある。 芦野の町を越えると間もなく福島との県境となる。
 

郡守ぐんしゅ 戸部こほうなにがし : 当時の芦野の領主であった芦野資俊を指して 「戸部某」と言った。
 


芦野の遊行柳ゆぎょうやなぎ : 本文中の清水流るる柳を「遊行柳(ゆぎょうやなぎ)」と言う。 遊行とは、僧侶が修行のため諸国をめぐり歩くことを言い、 浄土真宗時宗(じしゅう)の開祖である鎌倉時代の僧「一遍上人(遊行上人とも言う)(1239 - 1289)」がこの地を訪れたときに 柳の精が現れて、西行の出家の話を聞かせ、一遍を導いたことから、 「遊行柳」と呼ばれるようになったと言われている。 芦野は、鎌倉時代初期の僧 西行(1118〜1190)が奥州への旅の途中この地に立ち寄ったときに詠んだ
「道のべに 清水流るる 柳かげ しばしとてこそ 立ちどまりつれ」

の歌で有名な謡曲『遊行柳』の舞台になった歴史の町。
 

芦野の里 芭蕉の句碑 田んぼに写る遊行柳
芦野の里 句碑 遊行柳
芦野の里の北のはずれ(福島県境に近い方向)の 田んぼの真ん中に遊行柳がある。田んぼの奥の左手の方向に芦野の町の中心がある。 遊行柳のそばに 「田一枚 植えて立去る 柳かな」の句碑が建っている。 訪れたのは4月26日、間もなく始まる田植えに備え、 水が引かれたばかりの田んぼに遊行柳が写し出されていた。
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