江戸東京探訪シリーズ
奥の細道を読む
芭蕉 前途三千里の思い
胸にふさがりて…
本文目次
最初に
序章・旅立
関東地方へ
東北地方(白川の関〜武隈)へ
東北地方(宮城野〜石の巻)へ
東北地方(平泉〜最上川)へ
東北地方(羽黒山〜象潟)へ
越後地方(越後路〜那古の浦)へ
北陸地方(金沢〜等栽)へ
美濃の国へ(敦賀〜大垣)


参考情報索引
東北地方   平泉 尿前の関 尾花沢 立石寺 最上川
【参考】 金色堂   春望(杜甫)   尿前の関   出羽の国   南部藩   南部曲がり屋   尾花沢での逗留日数   養泉寺   立石寺  
慈覚大師   みちのく   最上川のルート

本文中、解説付きの語句は 紫色の字 で示し、 旅の日付が分かる箇所は 茶色の字 で示している。 また、右側の欄の「曾良日記より」には、曾良日記中の日付に関する記述を示している。
 平泉 ページトップへ
三代の栄耀えいよう一睡いっすいの中にして、 大門だいもんの跡は一里こなたに有。 秀衡ひでひらが跡は田野でんやなりて、 金鶏山きんけいざんのみ形を残す。 まづ高館たかだちにのぼれば、 北上川南部より流るゝ大河たいがなり衣川ころもがわ和泉が城いずみがじょうをめぐりて、 高館たかだちの下にて大河たいが落入おちいる泰衡やすひら旧跡きゅうせきは、衣が関をへだてて、 南部口なんぶぐちをさしかため、えぞをふせぐとみえたり。 さて義臣ぎしんすぐつて此城このしろにこもり、 功名こうみょう一時のくさむらとなる。 「国やぶれて山河さんがあり、 しろ春にして草あおみたり」と、 笠打敷かさうちしきて、 時のうつるまでなみだを落しはべりぬ。

夏草や つはものどもが 夢の後
卯の花に 兼房かねふさみゆる 白毛しらがかな      曾良


かね耳驚みみおどろかしたる二堂開帳かいちょうす。 経堂きょうどう三将の像をのこし、光堂は三代のひつぎを納め、 三尊さんぞんの仏を安置あんぢす。 七宝しちほうちりうせて、 たまの扉とぼそ風にやぶれ、 こがねの柱霜雪そうせつくちて、 すでに頽廃空虚たいはいくうきょくさむらなるべきを、四面しめんあらたかこみて、 いらかおおって、風雨をしのぐ暫時しばらく千歳せんざい記念かたみとはなれり。

五月雨さみだれの ふりのこしてや 光堂ひかりどう
5月13日、平泉を訪れる。 この日は一関で1泊していると思われる。5月14日には一関を立ち、岩手山あたりで宿泊している。
 

「曾良日記」より
・十三日 巳ノ尅ヨリ平泉へ趣。高館・衣川・衣ノ関・中尊寺・(別当案内)光堂(金色堂) ・泉城・サクラ川・サクラ山・秀平(衡)ヤシキ等ヲ見ル。
・十四日  一ノ関(岩井郡之内)ヲ立。・・・(中略)・・・岩手山ニ宿ス。

三代さんだい栄耀えいよう : 奥州藤原氏は、 清衡・基衡・秀衡の親子三代にわたって栄華を極めた。
 

大門だいもんの跡 :  かっての毛越寺の南大門の跡
 

秀衡ひでひら : 藤原秀衡のこと。 秀衡は、藤原氏第3代当主として奥州に一大勢力を築き、平泉の地には伽羅の御所と呼ばれる絢爛豪華な館があった。 源義経が兄 頼朝の追手から逃れて平泉に落ち延びてきたときに、義経を匿って面倒を見る。 そして、義経が平氏打倒の軍に加わるときに、秀衡は佐藤継信・忠信兄弟を義経の家来として送り出した。
 

高館たかだち : 中尊寺の東南にある丘。衣川館または判官館とも呼ばる。この丘から北上川や衣川が眺望できる。岡の上部に義経を祭る義経堂があり、義経最期の地としても有名。
 

句碑
毛越寺にある「夏草や
兵どもが 夢の後 」の句碑
北上川きたかみがわ : 岩手県、宮城県を流れる一級河川。全長249km、流域面積10,150km2は東北最大の大河。
 

衣川ころもがわ : 北上川の支流。全長27kmで、流域のほとんどは奥州市に属し、下流部が平泉町を流れる。  この地は、衣川の戦で源義経が非業の最期を遂げたことで有名。兄頼朝に追われて平泉に逃れた義経は、 頼朝の命を受けた追討の兵に襲われ、衣川館において妻子と共に堂に篭り自害して果てたと言われている。 義経は、享年で31であった。
 

和泉が城いずみがじょう : 秀衡の三男 忠衡の居城。
 

泰衡やすひら : 藤原秀衡の次男で、藤原第4代の泰衡。が住んでいた館を指す。
 

二堂にどう :  中尊寺の金色堂経堂のこと。
 

三将の像、三代の棺 : 経堂には藤原清衡・基衡・秀衡の3人の像が祀られており、光堂には3人の棺が安置され、3体のミイラが眠っている。
 

光堂
中尊寺 金色堂
金色堂こんじきどう :  中尊寺は、天台宗の大本山で、嘉祥3年(850)に天台宗の高僧 慈覚大師円仁が開基した。 江戸時代には、幕府の政策で羽黒山同様江戸の寛永寺(武江東叡と言う)の末寺に位置付けられていた。 金色堂は光堂ともいい、奥州藤原初代当主の清衡が天治元年(1124)に建立した。金色堂には、藤原三代の棺が安置され、 中に清衡・基衡・秀衡のミイラが残されている。金色堂は、その名が示すように総金箔貼りの豪華な堂であった。 『東方見聞録』を書いたマルコポーロは、金色堂を見て日本を「黄金の国」と称したとも言われている。
経堂は、本尊の菩薩像を祭ってある堂で、藤原3代の象が祭られているとも言われていたが、実際には存在していない。
 

「国破れて山河さんがあり、 しろ春にして草あおみたり」 :  中国の唐代の詩人 杜甫の詩「春望」の一節。

「春望」(杜甫) :  この詩は、安緑山の反乱で捕虜として長安に幽閉され、 妻子と別れ別れになったていたときに作ったものである。杜甫46才の時である。 その後、杜甫は多くの時間を家族と共に放浪の旅をして、多くの詩を作り、後世に多大な影響を与えた詩人であった。

春 望
国破山河在 国破くにやぶれて山河さんがあり)
城春草木深 城春しろはるにして草木深そうもくふかし)
感時花濺涙 ときかんじてははなにもなみだそそぎ)
恨別鳥驚心 わかれをうらみてはとりにもこころおどろかす)
烽火連三月 烽火三月ほうかさんげつつらなり)
家書抵万金 家書万金かしょばんきんあたる)
白頭掻更短 白頭掻はくとうかけばさらみじかく)
渾欲不勝簪 べてしんえざらんとほっす)
単語の意味
烽火敵の来襲を知らせる狼煙、
すなわち戦を意味する
三月3ヶ月、転じて長い間の意
家書家族のたより
万金何ものにも
代えがたいの意
白頭しらが頭
すっかりの意
冠を止めるかんざし
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南部道なんぶみちはるかにみやりて、 岩手いわでの里に泊る。 小黒崎おぐろさき・みづの小島おじますぎて、 なるごの湯より尿前しとまえの関にかゝりて、出羽の国こえんとす。 此路このみち旅人まれなる所なれば、 関守せきもりにあやしめられて、 ようようとして関をこす。 大山おおやまをのぼつて日既暮すでにくれければ、 封人ほうじんの家を見かけてやどりを求む。 三日風雨あれて、よしなき山中に逗留とうりゅうす。

蚤虱のみしらみ 馬の尿しとする 枕もと
(注) 尿を「ばり」と読む説もある。


あるじのいうこれより出羽でわの国に、 大山をへだてて、 道さだかならざれば、道しるべの人を頼みてこゆべきよしをもうす。 さらばというて、人を頼侍たのみはべれば、究竟くつきょうの若者、 反脇指そりわきざしをよこたえ、 かしの杖をたづさへて、 我々が先にたちいく。 けふこそかならずあやうきめにもあふべき日なれと、 からき思ひをなしてあとについていく。 あるじのいうにたがはず、 高山森々こうざんしんしんとして一鳥いっちょう声きかず、 木の下このしたやみ茂りあひて、いくがごとし。 雲端うんたんにつちふる心地ここちして、 しのの中踏分踏分ふみわけふみわけ、 水をわたり岩につまづいて、肌につめたき汗を流して、 最上もがみしょうづ。 かの案内せしおのこのいうやう、 「このみちかならず不用ぶよう事有ことありつつがなうをくりまいらせて仕合しあわせしたり」と、よろこびてわかれぬ。 跡(後)あとききてさへ胸とゞろくのみなり

岩手山で1泊した後、5月15日に鳴子峡近くの険しい峠 尿前の関を越える。 奥の細道本文によれば、この日は山中に野宿したようである。 明くる16日には、国境を越えて出羽の国(山形県)最上の庄 堺田に至り、そこで1泊している。
 

「曾良日記」より
・十五日 ・・・シトマヘヽ取付左ノ方、川向ニ鳴子ノ湯有。・・・
・十六日 堺田ニ滞留。宿 和泉庄ヤ、新右衛門兄也。

南部道なんぶみち : 岩手県盛岡市方面に通じる街道、 すなわち平泉から、より北の盛岡方面に通じる奥州街道と思われる。 なお、南部街道と呼ばれる街道はいくつか存在する。たとえば文化庁選定の「歴史の道」には、 岩手県安代町から秋田県雄勝郡羽後町の梨ノ木峠を越えて秋田県鹿角市を結ぶ「鹿角・南部街道」がある。 また、盛岡から国見峠を越えて秋田の角館方面に至る秋田街道も南部街道と呼ばれることもあったようである。 いずれも奥羽山脈越えの街道である。 しかし、芭蕉がイメージしていたのがこれらの街道かどうかは定かではない。
南部街道とか南部道とかいう呼び名は、このあたりが南部藩の領地であったことによる。 南部藩については、脚注参照。
 

岩手いわでさと : 現在の宮城県大崎市岩出山のあたり。
 

小黒崎おぐろさき :  現在の宮城県大崎市岩出山池月(字上宮小黒崎)のあたり。鳴子温泉の近く。
 

なるごの :  現在の宮城県の鳴子温泉。
 

尿前しとまえせき :  尿前の関は、東北地方中央を南北に走る奥羽山脈に位置し、陸奥(宮城県)と出羽(山形県)の国境にある険しい峠。 ちょうど鳴子温泉のあたりに位置する。この峠は、修験道の聖地出羽三山へ行く経路であった。 また、表日本地方と裏日本地方との境界でもあった。

なお、尿前という名前は、昔若かりし頃の義経がこの峠を越えるときここで尿をしたことに由来すると言われている。
出羽でわくに : 出羽の国は、 今日の山形県と秋田県にほぼ相当するが、秋田県北東の鹿角市と小坂町は含まれない。 羽州(うしゅう)とも呼ばれた。明治元年に、現在の山形県にほぼ相当(庄内地方最上川以北は含まれない)する羽前国と、秋田県にほぼ相当する羽後国に分割された。
みちのく 参照
封人ほうじん :  国境の番人のこと。
 

雲端うんたんにつちふる :  風に巻き上げられた土が雲の切れ端から降ってくるという意。
 

南部藩なんぶはんについて : もともとは山梨の南部氏が現在の青森県南部町あたりに進出したのが、南部藩の始まりと言われている。 天正18年(1590)に南部信直(1546〜1599)が豊臣秀吉から所領を認められ、 さらに慶長5年(1600)には信直の子利直が徳川家康からも所領を認められ、現在の盛岡市に盛岡城を築城した。
その後、盛岡城が本格的に完成したのは、寛永10年(1633年)3代藩主重直の時代であった。 当時の所領は、岩手県北上市、遠野市以北全て、および秋田県鹿角市に及んでいた。
南部なんぶ曲がり屋まがりや 当時南部藩は、牧場の整備や馬の改良に力を注ぎ、改良の結果できたのが丈夫な「南部馬」である。 首に鈴を付けた馬の置物「チャグチャグ馬っ子」もこの南部馬である。 また、L字型の構造をした南部曲がり屋も有名であるが、これは馬と生活を共にする風土から生まれた家の構造である。 右の写真は、遠野の南部曲がり屋 千葉家を撮影したものである。 なお、南部藩は文化14年(1817)に盛岡藩に改称されている。

南部曲がり屋 南部曲がり屋

 尾花沢 ページトップへ
尾花沢おばなざわにて清風せいふう云者いうものたずぬ。 かれはとめるものなれどもこころざしいやしからず。 みやこにも折々おりおりかよひて、 さすがに旅のなさけをもしりたれば、 日比ひごろとゞめて、長途ちょうどのいたはり、 さまざまにもてなしはべる。

涼しさを 我宿わがやどにして ねまる也
這出はいいでよ かひやが下の ひきの声
まゆはきを おもかげにして 紅粉べにの花
蚕飼こがいする 人は古代の すがた哉      曾良
5月17日に尾花沢入りしている。ここには清風という知人がおり、 芭蕉を大いに歓迎してくれたようである。
 

「曾良日記」より
・十七日 堺田ヲ立。・・・(中略)・・・正厳・尾花沢ノ間、村有。昼過、清風へ着、一宿ス。
・十八日 昼、寺ニテ風呂有。・・・養泉寺移リ居。
・廿一日 ・・・此ノ夜、清風ニ宿。
・廿三日 ・・・ソノ夜清風ニ宿ス。

紅粉べにの花 :  紅花の粉は、女性の化粧に用いられていた。
 

養泉寺ようせんじ :  山形県尾花沢市にある天台宗の寺院。現在は尾花沢観音とも呼ばれている。慈覚大師(円仁)の開基とされる。 境内に「涼しさを我宿にしてねまる也」の句碑があり、「涼し塚」と呼ばれている。
 
尾花沢での逗留日数 :
尾花沢では5月17日から27日までの約11日間という比較的長い時間を過ごしている。 その間いろいろな人のもてなしを受けたようであるが、一番お世話になったのは鈴木清風という人であった。 清風は芭蕉の知人であり、俳諧にも通じていた風流人であったが、 生業はこの地方の特産品である紅花の商いをしており、かなり裕福であったようである。
 立石寺 ページトップへ
山形領に立石寺りっしゃくじいう山寺あり。 慈覚大師じかくだいし開基かいきにして、 ことに清閑せいかんの地なり。 一見すべきよし、人々のすゝむるによりて、尾花沢よりとつて返し、 其間そのかん七里ばかりなり。 日いまだくれず。 ふもとぼうとに宿かりおきて、 山上の堂にのぼる。  岩にいわおかさねて山とし、 松栢しょうはく年旧としふり土石どせき老て苔滑こけなめらかに、 岩上がんしょう院々いんいん扉をとぢて、物の音きこえず。 岸をめぐり、岩をはいて、仏閣ぶっかくを拝し、 佳景寂寞かけいじゃくまくとして心すみゆくのみおぼゆ。

しづかさや 岩にしみいる せみの声
5月27日に尾花沢を立ち、立石寺を訪れる。その立石寺に1泊している。
 

「曾良日記」より
・廿七日 ・・・辰ノ中尅、尾花沢ヲ立テ立石寺へ趣。・・・(中略)・・・山寺 未ノ下尅ニ着。宿預リ坊。

立石寺りっしゃくじ : 山寺天台宗宝珠山立石寺のこと、俗称「やまでら」とも言い、 平安時代初期の天台宗の高僧 慈覚大師の開基となる。奥の院まで1015段もある長い石段を昇る。
(上図の 左の建物は「五大堂」、中の建物は「開山堂」、赤い建物は「納経堂」)

慈覚大師じかくだいし :  第3代天台座主 円仁えんにん(延暦13年(794)-貞観6年(864))のこと。立石寺や松島の瑞巌寺を開いたと言われている。
松栢しょうはく年旧としふり 松や檜は樹齢を重ねて
佳景寂寞かけいじゃくまく : 素晴らしい景観が静寂の中に拡がっていること。
立石寺は奇岩の霊窟としても知られ、周りの岩質が凝灰岩ということもあり一種幽境の趣と音響効果をもたらすことから、 芭蕉の「閑さや 岩にしみ入」の句ができたようである。 芭蕉は、このような環境の中で「わび・さび」の思いを深くしていたことは想像に難くない。
 最上川 ページトップへ
最上川もがみがわのらんと、 大石田おおいしだいう所に日和ひよりまつここに古き俳諧はいかいの種こぼれて、忘れぬ花のむかしをしたひ、 芦角一声ろかくいっせいの心をやはらげ、 此道このみちにさぐりあしゝて、 新古しんこふた道にふみまよふといへども、みちしるべする人しなければと、 わりなき一巻ひとまき残しぬ。  このたびの風流、ここに至れり。 最上川は、みちのくより出て、山形を水上みなかみとす。 ごてん・はやぶさなどいうおそろしき難所なんじょ有。 板敷山いたじきやまの北をながれて、 はて酒田の海にいる。 左右山おおひ、茂みの中に船を下す。 これに稲つみたるをや、いな船といふならし。 白糸しらいとの滝は青葉の隙々ひまひまに落て、仙人堂せんにんどう、 岸にのぞみたつ。 水みなぎつてふねあやうし。

五月雨さみだれを あつめて早し 最上川
5月28日には立石寺を去り、大石田に着く。6月1日に大石田を立ち、新庄に行き、 舟に乗り最上川舟下りをしている。
 

「曾良日記」より
・廿八日 馬借テ天道(童)ニ趣。・・・(中略)・・・ 巳ノ中尅、大石田一英宅ニ着。
・廿八九日 ・・・発、一巡終テ、翁両人誘テ黒滝へ被参詣。・・・
・六月朔日 大石田を立。・・・(中略)・・・新庄、風流ニ宿ス。
・三日 新庄ヲ立、・・・(中略)・・・舟ツギテ、三リ半、清川ニ至ル。  酒井左衛門殿領地也。此間ニ仙人堂・白糸ノタキ、右ノ方ニ有。・・・

大石田おおいしだ : 尾花沢市に隣接する山形県 大石田町のこと。当寺は、ここが最上川舟下りの起点だった。
 

芦角一声ろかくいっせい : 芦は蘆(あし)のこと。芦角とは葦笛のことで、蘆の葉を巻いて作ったもの。したがって葦笛の音を意味する。
 

みちのく : 陸奥(みちのく)の範囲は時代と共に変わっていったが、この当時は陸奥の国と出羽の国という区分であったと思われる。 陸奥の国は、ほぼ福島県、宮城県、岩手県、青森県を含んだ地域であり、最上川の源流である吾妻山は福島県に属する。
みちのく 参照
最上川もがみがわ : 熊本県の球磨川、静岡県の富士川と並んで日本三大急流のひとつに数えられる一級河川。
福島と山形の県境に位置する吾妻山を源流とし、庄内平野を流れ、酒田で日本海に注ぐ急流。 流域には滝が多く、中でも高さが220メートルの白糸の瀧は最大。
 

ごてん・はやぶさ : 最上川の中流部の村山市周辺にある最上川の三大難所 碁点(ごてん)・三ヶ瀬(さんがせ)・隼(はやぶさ)と呼ばれる急流のこと。
 

板敷山いたじきやま : 最上郡戸沢村に位置する標高680メートルの山。このあたりの山峡に最上峡や白糸の滝などがあり、一帯は最上川随一の景勝を誇る。
 

酒田さかた :山形県酒田市のこと。最上川は、酒田市で日本海に流れ込んでいる。
 

仙人堂せんにんどう : 最上川流域にある祠。義経の家臣常陸坊海尊を祀っている。 義経には二人の僧侶上がりの家臣 弁慶と海尊がいたが、義経が奥州に逃れるときに、 海尊はこの地で義経一行と別れ、終生この山にこもり修験道の奥義を極め、ついに仙人になったと言い伝えられている。
 

最上川のルート :
最上川 右図の薄い緑色の線は、芭蕉がたどったおおよそのルートを表している。 石巻から一関に入り、平泉を見てから、岩出山の麓まできて、そこから鳴子温泉を経て尿前の関を越えている。
鳴子温泉は江合川添いにあり、この川は北上川の支流である。江合川の上流は大谷川と呼ばれ、 この川添いに尿前の関や鳴子峡がある。鳴子峡は断崖に囲まれ川の流れも急な険しい地帯で、 紅葉が素晴らしい。
現在も鳴子峡の近くに中山峠や中山平温泉があるが、ここは寛永年間(1624〜1644年)に中山宿が置かれたところである。 当時奥羽山脈の東側(太平洋側)から西側(日本海側)へ行くには、尿前の関を越え、中山宿で休み、 最上の庄(現在の最上町)を経て出羽の国に入るルートをたどることが普通であった。 このため、「出羽越」とか「出羽街道中山越」と呼ばれ、 特に修験道の聖地羽黒山へ向かうための厳しい峠越えであったようである。

芭蕉は、出羽の国に入って最上川舟下りをしている。 最上川は日本3大急流の1つであり、現在の村山市に位置する碁点・隼など急流の難所地帯が多い。 ただし、芭蕉はここには行っていないようである。 芭蕉が最上川下りをした場所は、大石田から清川までの間で、この間に急流地帯の最上峡がある。 また、左手に板敷山、右手には白糸の瀧や仙人堂などを見ながら最上川を下る。


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