江戸東京探訪シリーズ 奥の細道を読む
前途三千里の思い 胸にふさがりて… |
本文目次
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参考情報索引 |
北陸地方
金沢
小松
山中温泉
那谷寺
全昌寺・汐越の松
天竜寺・永平寺
等裁
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本文中、解説付きの語句は 紫色の字 で示し、
旅の日付が分かる箇所は 茶色の字 で示している。
また、右側の欄の「曾良日記より」には、曾良日記中の日付に関する記述を示している。 |
金沢 | ページトップへ | ||||||||||||||||||
卯の花山・くりからが谷をこえて、
金沢は七月中の五日也。
爰に大坂よりかよふ商人何処と云者有。
それが旅宿をともにす。
一笑と云ものは、
此道にすける名のほのぼの聞えて、世に知人も侍しに、
去年の冬、
早世したりとて、其兄追善を催すに、
ある草庵にいざなはれて
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7月15日に金沢入りし、たまたま金沢に来ていた知り合いの大阪の商人 何処と宿を共にしたが、
会いたいと思っていた一笑はすでに亡くなっていた。それでも、各所を訪れたり、俳句の会などで、金沢での滞在を楽しんでいる。
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小松 | ページトップへ | ||||||||||||||||||
途中ぎん
小松と云所にて
此所、太田の神社に詣。 実盛が甲・錦の切あり。 往昔、源氏に属せし時、 義朝公より給はらせ給とかや。 げにも平士のものにあらず。 目庇より吹返しまで、菊から草の ほりもの金をちりばめ、竜頭に鍬形打たり。 真盛(実盛)討死の後、 木曾義仲願状にそへて、 此社にこめられ侍よし、 樋口の次郎が使せし事共、 まのあたり縁起にみえたり。
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7月24日に小松に着いて3泊し、27日に山中に向かっている。
26日には俳句の会が催されている。
ぎん : 原本では口偏に金という字であるが、「吟」の誤りか。小松に行く途中に俳句を吟じたという意味と解釈する。 太田の神社 : 石川県小松市上本折町の多太(ただ)神社のこと。平維盛に仕えて木曽義仲を討伐する折、逆に討死した斎藤実盛(さいとうさねもり)の兜を祀っている。 実盛 : 斎藤実盛。当初源義朝に仕えていた実盛は、平治の乱で義朝が失脚した後平宗盛に仕え、寿永2年(1183年)倶利伽羅峠における木曾義仲との戦では、白髪を染めて奮戦したが討死した。 平士 : 下級武士のこと 樋口の次郎 : 斎藤実盛の親友。討死した実盛の首実験をしたときに、「あな むざんやな」と言って涙したと言われている。 | ||||||||||||||||||
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山中温泉 | ページトップへ | ||||||||||||||||||
温泉に浴す。
其功有明に次と云。
あるじとする物は、久米之助とて、 いまだ小童也。 かれが父俳諧を好み、洛の貞室、 若輩のむかし、爰に来りし比、 風雅に辱しめられて、 洛に帰て貞徳の門人となって世にしらる。 功名の後、此一村判詞の料を請ずと云。 今更むかし語とはなりぬ。 曾良は腹を病て、伊勢の国長島と云所にゆかりあれば、 先立て行に、
と書置たり。 行ものゝ悲しみ、残るものゝうらみ、 隻鳧のわかれて雲にまよふがごとし。 予も又、
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7月27日に山中温泉入りしている。
この月は大の月で30日まであるので、27、28、29、30、そして8月1日から4日まで山中温泉に滞在している。 しかし、ここに到り曾良は、病が悪化し、親戚のいる伊勢長島に向けて一足先に出立することになる。
(注)曾良の最後の句 曾良は、山中まで芭蕉に同行したが、病が悪化したため、ここで芭蕉と別れて先を急いだ。 奥の細道の本文中にも以下の記述がある。
有明 : 「有馬」の誤り。山中温泉は、有馬温泉に次いで効能があるということ。 久米之助 : 芭蕉が泊まった温泉宿の主であるが、まだ子供だった。彼の父は俳諧に通じた人であった。 貞室 : 貞門の中心的俳人 安原貞室。 貞徳 : 貞門俳諧の祖 松永貞徳。 判詞の料 : 俳諧指導料のこと 隻鳧 : 仲間と別れた一羽の鳧(せり)という鳥のこと。 | ||||||||||||||||||
山中温泉での滞在日数 : 曾良日記から、7月27日から8月4日までの8日間滞在していることが分かる。 やはり温泉地なので長期滞在している。 ただし、奥の細道からも曾良日記からも読み取れない 空白の4日間 がある。 もしこの空白の4日間も山中温泉に滞在したとしたら、合計12日間となる。 | |||||||||||||||||||
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那谷寺 | ページトップへ | ||||||||||||||||||
山中の温泉に行ほど、
白根が嶽跡にみなしてあゆむ。
左の山際に観音堂あり。
花山の法皇、
三十三所の順礼とげさせ給ひて後、
大慈大悲の像を安置し給ひて、
那谷と名付給ふと也。
那智・谷汲の二字をわかち侍しとぞ。
奇石さまざまに、古松植ならべて、萱ぶきの小堂、
岩の上に造りかけて、殊勝の土地也。
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芭蕉は、8月5日に那谷寺に趣いている。
曾良は、病のため山中温泉で芭蕉と別れて先に出立したので、那谷寺には行っていない。 なお、曾良日記によれば、曾良は8月5日に全昌寺で宿泊している。
白根が嶽 : 石川県、福井県、岐阜県に跨る白山のこと。白山の山頂部は、御前峰(2,702m)、大汝峰(2,684m)、剣ヶ峰(2,677m)が連なる。 昔から信仰の山として知られ、御前峰山頂に白山奥宮がある。 花山の法皇 : 平安時代中期の第65代天皇。花山法皇は、西国三十三所の観音巡礼をしたことで有名で、西国三十三所巡礼は現在でも継承されている。 那谷寺 : 養老元年(717) 奏澄大師が岩窟に千手観音を安置して開基した真言宗の名刹。現在の小松市那谷町にある。 那智・谷汲 : 和歌山県 勝浦にある那智観音と谷汲観音のこと。 那谷寺の那谷は、那智観音と谷汲観音にあやかって頭文字をとって名付けたものである。 | ||||||||||||||||||
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全昌寺・汐越の松 | ページトップへ | ||||||||||||||||||
大聖寺の城外、
全昌寺といふ寺にとまる。
猶加賀の地也。
曾良も前の夜、此寺に泊て、
と残す。一夜の隔千里に同じ。 吾も秋風を聞て衆寮に臥ば、 明ぼのゝ空近う読経声すむまゝに、 鐘板鳴て食堂に入。 けふは越前の国へと、心早卒にして堂下に下るを、 若き僧ども紙・硯をかゝえ、階のもとまで追来る。 折節庭中の柳散れば、
とりあへぬさまして、草鞋ながら書捨つ。 越前の境、 吉崎の入江を舟に 棹して、 汐越の松を尋ぬ 。
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加賀の国に入り、大聖寺藩の城下町にある全昌寺に宿をとった。 なお、これ以降の芭蕉の旅の日程については、曾良日記に記述されていないので、定かではない。 (注) 全昌寺,汐越の松を訪れた期日は : 曾良日記から、曾良は8月5日に全昌寺に着き、その日宿泊し、さらに6日の日も雨で滞留している。 6日は小松の安宅の関あたりの菅生石天神を参拝して過ごしている。したがって、全昌寺を出立したのは8月7日である。 奥の細道のこの項には「曾良も前の夜、此寺に泊て、 」とあり、すれ違いであったことが明記されているので、 芭蕉が全昌寺に泊まったのは8月7日ということになる。 さらに推測を進めると、この項に「一夜の隔千里に同じ。 吾も秋風を聞て衆寮に臥ば、 明ぼのゝ空近う読経声すむまゝに、 鐘板鳴て食堂に入。けふは越前の国へと、・・・」というくだりがあり、 この文は、芭蕉が全昌寺で過ごしたのは8月7日の1泊だけと解釈してもよさそうである。なぜならば、 曾良との別れの悲しさが覚めやらないうちに迎えた明くる8日の早朝には、朝食をとってから早速出立したと読み取れる。 大聖寺 : 加賀百万石の支藩であった大聖寺藩の城下町として栄えた町。 全昌寺 : 現在の石川県加賀市大聖寺神明町にある寺で、大聖寺城主山口玄蕃頭宗永公の菩提寺。 慶応3年(1867)に完成した比較的新しい曹洞宗の寺で、五百羅漢が有名。 折節 : 折良くの意。ちょうど折良く庭の柳が散るのを見たので1句詠んだという意味。 吉崎の入江 : 現在の福井県あわら市吉崎あたりで、当時は大聖寺川が日本海に流れ込む入江であった。 この地には、文明3年(1471) 本願寺の蓮如が浄土真宗の布教拠点として寺を建立した。現在も吉崎御坊として有名である。 汐越の松 : 福井県あわら市浜坂に有った松。浜坂は吉崎の入江にある町。ここの松は、汐が満ちてくると枝まで海水につかることから、この名が付けられた。古来歌枕として有名な松であった。 | ||||||||||||||||||
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天竜寺・永平寺 | ページトップへ | ||||||||||||||||||
丸岡天竜寺の長老、古き因あれば尋ぬ。
又、金沢の北枝といふもの、かりそめに見送りて此処までしたひ来る。
所々の風景過さず思ひつゞけて、
折節あはれなる作意など聞ゆ。
今既別に望みて、
五十丁山に入て、永平寺を礼す。 道元禅師の御寺也。 邦機(畿)千里を避て、 かゝる山陰に跡をのこし給ふも、貴きゆへ有とかや。 |
福井で永平寺とその末寺の天竜寺を訪れている。
金沢の知人北枝がここまで同行しているが、山中で曾良と別れ、今また北枝と別れる切なさを感じているようである。 (注) 天竜寺・永平寺を訪れた期日は : 等栽の項に「福井は三里計ばかりなれば、 夕飯したゝめて出るに、たそかれの路たどたどし。 」というくだりがある。 この文から、等栽宅に着くのは夕方以降になることを予想している。等栽宅で過ごしたのは8月12日、13日であるから、 夕飯をしたためたのは8月12日の午後から夕方の間と考えられる。 奥の細道の本文からは、どこで夕飯をしたためたのか定かではない。 ここで、全昌寺を立ったのが8月8日、等栽宅に着いたのは8月12日、その間に天竜寺と永平寺を訪れたことは明らかであるが、 8月8日、9日、10日、11日の4日間をどこで宿泊し、 天竜寺と永平寺を訪れたのが何日であるかは不明である。 (注) この項の下段の注記を参照。 丸岡 : 現在の福井県坂井郡丸岡町であるが、天竜寺は同吉田郡永平寺町松岡にあるので,松岡の誤記と思われる。 北枝 : 蕉門十哲の一人で、金沢の刀研師の立花 北枝。金沢で芭蕉と北枝が会って以来、ここまでずっと北枝は芭蕉についてきて世話をやいている。 天竜寺 : 現在の福井県吉田郡永平寺町松岡にある寺で、永平寺の末寺。 永平寺 : 現在の福井県吉田郡永平寺町にある曹洞宗の大本山。 寛元2年(1243)に道元禅師の開基になる。 道元禅師 : 鎌倉時代初期の禅僧で、曹洞宗の開祖。 | ||||||||||||||||||
天竜寺・永平寺を訪れるまでの4日間の空白 : 等栽宅に8月12日夕刻に着くように、永平寺またはそのあたりで夕餉をしたためて出立すると仮定すれば、 8月12日の午後で十分な距離である。ということは、次のようなことが考えられる。 1.全昌寺を立ったのは8月8日であるが、全昌寺と山中温泉は近い。 ゆえに、天竜寺・永平寺に向かうまでの数日間 山中温泉 で休養した。 2.全昌寺を立った足で天竜寺・永平寺に向かい、天竜寺か永平寺に数日間滞在した。 1.の場合、温泉休養なのでその様子を奥の細道本文に記述するわけにはいかないであろう。 2.の場合、永平寺に滞在した様子などを奥の細道に記述するはずである。 したがって、1.の方に軍配をあげたい。 | |||||||||||||||||||
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等裁 | ページトップへ | ||||||||||||||||||
福井は三里計なれば、
夕飯したゝめて出るに、
たそかれの路たどたどし。
爰に等栽と云古き隠士有。
いづれの年にか、江戸に来りて予を尋。
遙十とせ余り也。
いかに老さらぼひて有にや、
将死けるにやと人に尋侍れば、
いまだ存命して、そこそこと教ゆ。
市中ひそかに引入て、あやしの小家に、
夕貌・へちまのはえかゝりて、
鶏頭・はゝ木ゞに戸ぼそをかくす。
さては、此うちにこそと門を扣ば、
侘しげなる女の出て、
「いづくよりわたり給ふ道心の御坊にや。
あるじは此あたり何がしと云ものゝ方に行ぬ。
もし用あらば尋給へ」といふ。 かれが妻なるべしとしらる。 むかし物がたりにこそ、かゝる風情は侍れと、 やがて尋あひて、 その家に二夜とまりて、名月はつるがのみなとにとたび立。 等栽も共に送らんと、裾おかしうからげて、 路の枝折とうかれ立。 |
永平寺から福井までは3里ほどであるので、夕飯を食べてから福井に向かい、
古くからの知人である等栽宅を訪れている。 (注) 等栽宅で過ごした期日は : 敦賀の項に「十四日の夕ぐれ、つるがの津に宿をもとむ。」というくだりがある。 この等栽の項には「二夜とまりて、名月はつるがのみなとにたび立」とある。 すなわち、等栽宅で過ごしたのは8月12日、13日ということになる。 等栽 : 福井俳壇の古老で、芭蕉の知り合い。 鶏頭・はゝ木ヾ : 鶏頭はけいとうの花、はゝ木ヾはほうき草のこと。それらが戸を隠すほどに伸び放題であることの意。 枝折 : 枝を折って道しるべとしたもの。ここでは、北枝が道しるべとなることを意味する。 | ||||||||||||||||||
等栽宅での逗留日数 : 芭蕉は等栽宅に2泊していることが、奥の細道本文に記されている。 最初等栽宅を尋ねたとき、しっかり者の等栽の妻は、 見ず知らずの芭蕉に対して丁重に「主人は今何がしと云うところに行っているので、 そちらを尋ねて欲しい」と断わっている。 芭蕉は等栽と会った後意気投合し、結局等栽宅に2日間逗留したが、等栽の妻に対しても遠慮があったであろうし、 やはり個人の家に長居はできず、2日間で去っている。 |