江戸東京探訪シリーズ
奥の細道を読む
芭蕉 前途三千里の思い
胸にふさがりて…
本文目次
最初に
序章・旅立
関東地方へ
東北地方(白川の関〜武隈)へ
東北地方(宮城野〜石の巻)へ
東北地方(平泉〜最上川)へ
東北地方(羽黒山〜象潟)へ
越後地方(越後路〜那古の浦)へ
北陸地方(金沢〜等栽)へ
美濃の国へ(敦賀〜大垣)


参考情報索引
北陸地方   金沢 小松 山中温泉 那谷寺 全昌寺・汐越の松 天竜寺・永平寺 等裁
【参考】 くりからが谷   金沢での逗留日数   北陸路から美濃へのルート   太田の神社   松永貞徳   山中温泉での逗留日数  
天竜寺・永平寺を訪れるまでの4日間の空白   花山の法皇   那谷寺   全昌寺   天竜寺   永平寺   道元禅師  
等栽宅での逗留日数  

本文中、解説付きの語句は 紫色の字 で示し、 旅の日付が分かる箇所は 茶色の字 で示している。 また、右側の欄の「曾良日記より」には、曾良日記中の日付に関する記述を示している。
 金沢 ページトップへ
花山はなやまくりからが谷をこえて、 金沢かなざわ七月なかの五日なりここ大坂おおさかよりかよふ商人何処かしょ云者有いうものあり。 それが旅宿をともにす。 一笑いっしょうと云ものは、 此道にすける名のほのぼの聞えて、世に知人しるひとはべりしに、 去年こぞの冬、 早世そうせいしたりとて、其兄そのあに追善ついぜんもよおすに、

塚も動け 我泣わがなく声は 秋の風


ある草庵そうあんにいざなはれて

秋涼し 手毎てごとにむけや うり茄子なすび
7月15日に金沢入りし、たまたま金沢に来ていた知り合いの大阪の商人 何処と宿を共にしたが、 会いたいと思っていた一笑はすでに亡くなっていた。それでも、各所を訪れたり、俳句の会などで、金沢での滞在を楽しんでいる。
 

「曾良日記」より
(注) この頃から曾良の病が悪化していった様子が、 以下のようにつづられている。
・十五日 高岡ヲ立。埴生八幡ヲ拝ス。源氏山、卯ノ花山也。 クリカラヲ見テ、未ノ中刻、金沢ニ着。京や吉兵衞ニ宿カリ、・・・
・十六日 川原町、宮竹ヤ喜左衞門方ヘ移ル。
・十七日 翁、源意庵へ遊。予、病気故、不随行。
・廿一日 高徹ニ逢、薬ヲ乞。翁ハ北枝・一水同道ニテ寺ニ遊。
・廿二日 亦、薬請。此日、一笑追善會、・・・各朝飯後ヨリ集。予、病気故、未ノ刻ヨリ行。 暮過、各ニ先達テ帰。
・廿三日 翁ハ雲口主ニテ宮ノ越ニ遊。 予、病気故、不行。
北陸路 北陸路から美濃へのルート :
7月15日に金沢入りしてから約10日間を金沢で過ごした後、 日本海沿岸の北陸路を南下する。小松、加賀、福井などを経て、敦賀に到る。 この間、各所の神社仏閣に詣でたり、俳句の会に参加したりしながら、旅を続けている。

しかし、曾良は病気の悪化のため、金沢あたりから芭蕉と行動を共にできなくなっている。 そのため、山中温泉で芭蕉と別れ、一足先に伊勢長島に向けて出立している。

病気とはいえ曾良が芭蕉と別行動をとったことに対して、謎であるという説もある。
山中温泉から伊勢長島まではまだ距離もあり、厳しい地帯も通らなければならない。 一方、別れた場所はきしくも山中のいで湯である。もし本当に具合が悪ければ、 このいで湯につかってゆっくり静養するのが最も良いとする説である。
もちろん、伊勢長島藩はかって曾良が仕えたところであり、親戚もいることから、先を急いだのかもしれない。 なお、後に曾良は幕府の巡見使という職につき、特に九州地方の巡見にあたったことが記録に残っている。 そのようなことも相まって、曾良は幕府のお庭番であったといううわさが立つのも無理からぬことと言える。 ちなみに、芭蕉も伊賀上野生まれであることから、幕府のお庭番であったという説もある。

卯の花山 : 富山県小矢部市の歌枕。
 

くりからが谷 : 富山県小矢部市の倶利伽羅峠のこと。 石川県との県境開に位置する。芭蕉はこの峠を越えて金沢に入っている。
 


金沢での逗留日数 :
金沢は仙台と共に奥の細道のルートの中で最も大きな城下町である。
曾良日記によれば、芭蕉は7月15日に到着してから24日に出立するまでの約10日間を金沢で過ごしている。 これは、那須黒羽の14日間、尾花沢での11日間、羽黒山の10日間と共に長い滞在日数である。
俳諧の道で知り合いの大阪の商人何処がたまたま金沢に来ていたが、 芭蕉は一笑に会いたかったようである。一笑は、金沢では名の知れた俳人であり、 共に語り、共に俳句を作るのを楽しみにしていた。 しかし、一笑はすでに亡くなっており、芭蕉は落胆したに違いない。 もし一笑が存命であったならば、芭蕉は金沢にもっと長く滞在したかもしれない。

 小松 ページトップへ
途中ぎん

あかあかと 日は難面つれなくも あきの風


小松こまつ云所いうところにて

しほらしき名や 小松ふく はぎすゝき


此所このところ太田ただの神社もうづ実盛さねもりかぶとにしききれあり。 往昔そのかみ源氏げんじに属せし時、 義朝公よしともこうよりたまはらせたまふとかや。 げにも平士ひらさぶらいのものにあらず。 目庇まびさしより吹返ふきがへしまで、菊から草の ほりものこがねをちりばめ、竜頭たつがしら鍬形くわがたうつたり。 真盛(実盛)さねもり討死うちじにのち木曾義仲きそのよしなか願状がんじょうにそへて、 此社このやしろにこめられはべるよし、 樋口ひぐちの次郎使つかいせし事共ことども、 まのあたり縁起えんぎにみえたり。

むざんやな かぶとの下の きりぎりす
7月24日に小松に着いて3泊し、27日に山中に向かっている。 26日には俳句の会が催されている。
 

「曾良日記」より
・廿四日 ・・・金沢ヲ立。・・・(中略)・・・申ノ上尅、小松ニ着。北枝随之。 竹意同道故、近江ヤト云ニ宿ス。
・廿五日 小松立、・・・立松寺へ移ル。多田八幡ヘ詣デヽ、 真(実)盛が甲冑・木曾願書ヲ拝。終テ山王神主藤井伊豆宅へ行。此ニ宿。・・・
・廿六日 ・・・夜ニ入テ、俳、五十句。終而歸ル。庚申也。・・・

ぎん : 原本では口偏に金という字であるが、「吟」の誤りか。小松に行く途中に俳句を吟じたという意味と解釈する。
 

太田ただの神社 : 石川県小松市上本折町の多太(ただ)神社のこと。平維盛に仕えて木曽義仲を討伐する折、逆に討死した斎藤実盛(さいとうさねもり)の兜を祀っている。
 

実盛さねもり : 斎藤実盛。当初源義朝に仕えていた実盛は、平治の乱で義朝が失脚した後平宗盛に仕え、寿永2年(1183年)倶利伽羅峠における木曾義仲との戦では、白髪を染めて奮戦したが討死した。
 

平士ひらさぶらい : 下級武士のこと
 

樋口の次郎ひぐちのじろう : 斎藤実盛の親友。討死した実盛の首実験をしたときに、「あな むざんやな」と言って涙したと言われている。
 

 山中温泉 ページトップへ
温泉いでゆよくす。 其功そのこう有明ありまつぐいう

山中やまなかや 菊はたおらぬ 湯のにおい


あるじとする物は、久米之助くめのすけとて、 いまだ小童しょうどうなり。 かれが父俳諧はいかいを好み、らく貞室ていしつ若輩じゃくはいのむかし、ここきたりしころ風雅ふうがはづかしめられて、 らくかへり貞徳ていとくの門人となって世にしらる。 功名こうみょうの後、此一村判詞はんじりょううけずといふ今更いまさらむかしがたりとはなりぬ。 曾良は腹をやみて、伊勢いせの国長島ながしま云所いふところにゆかりあれば、 先立さきだちゆくに、

ゆきゆきて たふれふすとも 萩の原      曾良


書置かきおきたり。 ゆくものゝ悲しみ、残るものゝうらみ、 隻鳧せきふのわかれて雲にまよふがごとし。  も又、

今日よりや 書付かきつけ消さん 笠のつゆ
7月27日に山中温泉入りしている。 この月は大の月で30日まであるので、27、28、29、30、そして8月1日から4日まで山中温泉に滞在している。
しかし、ここに到り曾良は、病が悪化し、親戚のいる伊勢長島に向けて一足先に出立することになる。

 

「曾良日記」より
・廿七日 巳ノ上刻、立。同晩 山中ニ申ノ下尅、着。泉屋久米之助方ニ宿ス。・・・
・廿八日 夕方、薬師堂其外町辺ヲ見ル。
・八月朔日 黒谷橋へ行。

(注)曾良の最後の句
曾良は、山中まで芭蕉に同行したが、病が悪化したため、ここで芭蕉と別れて先を急いだ。 奥の細道の本文中にも以下の記述がある。

「曾良は腹を病て、 伊勢の国長島と云所にゆかりあれば、 先立て行に、」
奥の細道本文中の曾良の俳句はこの山中で詠んだ次の句が最後になった。
「行ゆきて たふれ伏とも ・・・   曾良 」

有明 : 「有馬」の誤り。山中温泉は、有馬温泉に次いで効能があるということ。
 

久米之助くめのすけ : 芭蕉が泊まった温泉宿の主であるが、まだ子供だった。彼の父は俳諧に通じた人であった。
 

貞室ていしつ : 貞門の中心的俳人 安原貞室。
 

貞徳ていとく : 貞門俳諧の祖  松永貞徳
 

判詞の料はんじのりょう : 俳諧指導料のこと
 

隻鳧せきふ : 仲間と別れた一羽の鳧(せり)という鳥のこと。
 

山中温泉での滞在日数 :
曾良日記から、7月27日から8月4日までの8日間滞在していることが分かる。 やはり温泉地なので長期滞在している。
ただし、奥の細道からも曾良日記からも読み取れない 空白の4日間 がある。  もしこの空白の4日間も山中温泉に滞在したとしたら、合計12日間となる。

 那谷寺 ページトップへ
山中やまなか温泉いでゆゆくほど、 白根が嶽しらねがだけ跡にみなしてあゆむ。 左の山際に観音堂あり。 花山かざん法皇ほうこう、 三十三所の順礼じゅんれいとげさせたまひて後、 大慈大悲だいじだいひの像を安置あんちし給ひて、 那谷なた名付給なづけたもふとなり那智なち谷汲たにぐみの二字をわかちはべりしとぞ。 奇石きせきさまざまに、古松こしょう植ならべて、かやぶきの小堂しょうどう、 岩の上につくりかけて、殊勝しゅしょうの土地なり

石山の 石より白し 秋の風
芭蕉は、8月5日に那谷寺に趣いている。 曾良は、病のため山中温泉で芭蕉と別れて先に出立したので、那谷寺には行っていない。
なお、曾良日記によれば、曾良は8月5日に全昌寺で宿泊している。

 

「曾良日記」より
・五日 昼時分、翁・北枝、那谷へ趣。・・・(中略)・・・ 艮刻、立。  大聖寺ニ趣。全昌寺へ申刻着、宿。
(注)
上記の「艮刻、立。」は、曾良が芭蕉と分かれてすぐに山中温泉を出立したことを表していると思われる。


白根が嶽しらねがだけと : 石川県、福井県、岐阜県に跨る白山のこと。白山の山頂部は、御前峰(2,702m)、大汝峰(2,684m)、剣ヶ峰(2,677m)が連なる。 昔から信仰の山として知られ、御前峰山頂に白山奥宮がある。
花山かざん法皇ほうこう : 平安時代中期の第65代天皇。花山法皇は、西国三十三所の観音巡礼をしたことで有名で、西国三十三所巡礼は現在でも継承されている。

那谷寺なたでら : 養老元年(717) 奏澄大師が岩窟に千手観音を安置して開基した真言宗の名刹。現在の小松市那谷町にある。
那智なち谷汲たにぐみ : 和歌山県 勝浦にある那智観音と谷汲観音のこと。
那谷寺の那谷は、那智観音と谷汲観音にあやかって頭文字をとって名付けたものである。

 全昌寺・汐越の松 ページトップへ
大聖寺だいしょうじ城外じょうがい全昌寺ぜんしょうじといふ寺にとまる。 なお加賀の地なり。 曾良も前の夜、此寺このてらとまりて、

終宵よもすがら 秋風きくや うらの山


と残す。一夜いちやへだて千里に同じ。 われも秋風を聞て衆寮しゅりょうふせば、 あけぼのゝ空近う読経どきょう声すむまゝに、 鐘板しょうばんなつ食堂じきどういる。 けふは越前えちぜんの国へと、心早卒そうそつにして堂下どうかくだるを、 若き僧ども紙・すずりをかゝえ、きざはしのもとまで追来おいきたる。 折節おりふし庭中ていちゅうの柳散れば、

庭掃にわはきて いでばや寺に 散柳ちるやなぎ


とりあへぬさまして、草鞋わらじながら書捨かきすつ。 越前えちぜんさかい吉崎よしざき入江いりえを舟に さおさして、 汐越しおこしの松たづぬ 。
終宵よもすがら 嵐に波をはこばせて 月をたれたる汐越しおこしの松 西行
この一首にて、数景すけいつきたり。 もし一弁いちべんくわうるものは、無用むようの指を立るがごとし。
加賀の国に入り、大聖寺藩の城下町にある全昌寺に宿をとった。
なお、これ以降の芭蕉の旅の日程については、曾良日記に記述されていないので、定かではない。

(注) 全昌寺,汐越の松を訪れた期日は :
曾良日記から、曾良は8月5日に全昌寺に着き、その日宿泊し、さらに6日の日も雨で滞留している。 6日は小松の安宅の関あたりの菅生石天神を参拝して過ごしている。したがって、全昌寺を出立したのは8月7日である。 奥の細道のこの項には「曾良も前の夜、此寺に泊て、 」とあり、すれ違いであったことが明記されているので、 芭蕉が全昌寺に泊まったのは8月7日ということになる。

さらに推測を進めると、この項に「一夜の隔千里に同じ。 吾も秋風を聞て衆寮に臥ば、 明ぼのゝ空近う読経声すむまゝに、 鐘板鳴て食堂に入。けふは越前の国へと、・・・」というくだりがあり、 この文は、芭蕉が全昌寺で過ごしたのは8月7日の1泊だけと解釈してもよさそうである。なぜならば、 曾良との別れの悲しさが覚めやらないうちに迎えた明くる8日の早朝には、朝食をとってから早速出立したと読み取れる。


大聖寺だいしょうじ : 加賀百万石の支藩であった大聖寺藩の城下町として栄えた町。
 


全昌寺ぜんしょうじ : 現在の石川県加賀市大聖寺神明町にある寺で、大聖寺城主山口玄蕃頭宗永公の菩提寺。 慶応3年(1867)に完成した比較的新しい曹洞宗の寺で、五百羅漢が有名。
 

折節おりふし : 折良くの意。ちょうど折良く庭の柳が散るのを見たので1句詠んだという意味。
 


吉崎よしざき入江いりえ : 現在の福井県あわら市吉崎あたりで、当時は大聖寺川が日本海に流れ込む入江であった。  この地には、文明3年(1471) 本願寺の蓮如が浄土真宗の布教拠点として寺を建立した。現在も吉崎御坊として有名である。
 


汐越しおこしの松 : 福井県あわら市浜坂に有った松。浜坂は吉崎の入江にある町。ここの松は、汐が満ちてくると枝まで海水につかることから、この名が付けられた。古来歌枕として有名な松であった。


 天竜寺・永平寺 ページトップへ
丸岡天竜寺まるおかてんりゅうじの長老、古きちなみあればたづぬ。 又、金沢の北枝ほくしといふもの、かりそめに見送りて此処ところまでしたひきたる。 所々の風景すぐさず思ひつゞけて、 折節おりふしあはれなる作意さくいなどきこゆ。 今既別すでにわかれのぞみて、

物書かきて 扇ひきさく 余波なごりかな


五十丁山にいりて、永平寺えいへいじらいす。 道元禅師どうげんぜんじ御寺みてらなり邦機(畿)ほうき千里をさけて、 かゝる山陰やまかげに跡をのこし給ふも、とうときゆへ有とかや。
福井で永平寺とその末寺の天竜寺を訪れている。 金沢の知人北枝がここまで同行しているが、山中で曾良と別れ、今また北枝と別れる切なさを感じているようである。

(注) 天竜寺・永平寺を訪れた期日は :
等栽の項に「福井は三里計ばかりなれば、 夕飯したゝめて出るに、たそかれの路たどたどし。 」というくだりがある。 この文から、等栽宅に着くのは夕方以降になることを予想している。等栽宅で過ごしたのは8月12日、13日であるから、 夕飯をしたためたのは8月12日の午後から夕方の間と考えられる。

奥の細道の本文からは、どこで夕飯をしたためたのか定かではない。
ここで、全昌寺を立ったのが8月8日、等栽宅に着いたのは8月12日、その間に天竜寺と永平寺を訪れたことは明らかであるが、 8月8日、9日、10日、11日の4日間をどこで宿泊し、 天竜寺と永平寺を訪れたのが何日であるかは不明である。

(注) この項の下段の注記を参照。

丸岡まるおか : 現在の福井県坂井郡丸岡町であるが、天竜寺は同吉田郡永平寺町松岡にあるので,松岡の誤記と思われる。
 

北枝ほくし : 蕉門十哲の一人で、金沢の刀研師の立花 北枝。金沢で芭蕉と北枝が会って以来、ここまでずっと北枝は芭蕉についてきて世話をやいている。
 

天竜寺てんりゅうじ : 現在の福井県吉田郡永平寺町松岡にある寺で、永平寺の末寺。
 

永平寺えいへいじ : 現在の福井県吉田郡永平寺町にある曹洞宗の大本山。 寛元2年(1243)に道元禅師の開基になる。
道元禅師どうげんぜんじ : 鎌倉時代初期の禅僧で、曹洞宗の開祖。 
天竜寺・永平寺を訪れるまでの4日間の空白 :
等栽宅に8月12日夕刻に着くように、永平寺またはそのあたりで夕餉をしたためて出立すると仮定すれば、 8月12日の午後で十分な距離である。ということは、次のようなことが考えられる。
 1.全昌寺を立ったのは8月8日であるが、全昌寺と山中温泉は近い。
    ゆえに、天竜寺・永平寺に向かうまでの数日間 山中温泉 で休養した。
 2.全昌寺を立った足で天竜寺・永平寺に向かい、天竜寺か永平寺に数日間滞在した。
1.の場合、温泉休養なのでその様子を奥の細道本文に記述するわけにはいかないであろう。  2.の場合、永平寺に滞在した様子などを奥の細道に記述するはずである。 したがって、1.の方に軍配をあげたい。

 等裁 ページトップへ
福井ふくいは三里ばかりなれば、 夕飯ゆうげしたゝめていづるに、 たそかれの路たどたどし。 ここ等栽とうさいいふ古き隠士いんしあり。 いづれの年にか、江戸にきたりて予をたづぬはるか十とせあまなり。 いかにおいさらぼひてあるにや、 はたしにけるにやと人に尋侍たづねはべれば、 いまだ存命ぞんめいして、そこそことおしゆ。  市中ひそかに引入ひきいりて、あやしの小家しやうけに、 夕貌ゆうがお・へちまのはえかゝりて、 鶏頭けいとう・はゝ木ゞに戸ぼそをかくす。 さては、このうちにこそと門をたたけば、 わびしげなる女のいでて、 「いづくよりわたり給ふ道心どうしん御坊ごぼうにや。 あるじはこのあたり何がしといふものゝ方にゆきぬ。 もし用あらばたづねたまへ」といふ。
かれがつまなるべしとしらる。 むかし物がたりにこそ、かゝる風情ふぜいはべれと、 やがてたづねあひて、 その家に二夜ふたよとまりて、名月はつるがのみなとにとたびだつ等栽とうさいも共に送らんと、すそおかしうからげて、 路の枝折しおりとうかれたつ
永平寺から福井までは3里ほどであるので、夕飯を食べてから福井に向かい、 古くからの知人である等栽宅を訪れている。

(注) 等栽宅で過ごした期日は :
敦賀の項に「十四日の夕ぐれ、つるがの津に宿をもとむ。」というくだりがある。 この等栽の項には「二夜とまりて、名月はつるがのみなとにたび立」とある。 すなわち、等栽宅で過ごしたのは8月12日、13日ということになる。


等栽とうさい : 福井俳壇の古老で、芭蕉の知り合い。
 

鶏頭・はゝ木ヾけいとう・ははきぎ : 鶏頭はけいとうの花、はゝ木ヾはほうき草のこと。それらが戸を隠すほどに伸び放題であることの意。
 

枝折しおり : 枝を折って道しるべとしたもの。ここでは、北枝が道しるべとなることを意味する。
 

等栽宅での逗留日数 :
芭蕉は等栽宅に2泊していることが、奥の細道本文に記されている。 最初等栽宅を尋ねたとき、しっかり者の等栽の妻は、 見ず知らずの芭蕉に対して丁重に「主人は今何がしと云うところに行っているので、 そちらを尋ねて欲しい」と断わっている。 芭蕉は等栽と会った後意気投合し、結局等栽宅に2日間逗留したが、等栽の妻に対しても遠慮があったであろうし、 やはり個人の家に長居はできず、2日間で去っている。
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