江戸東京探訪シリーズ
奥の細道を読む
芭蕉 前途三千里の思い
胸にふさがりて…
本文目次
最初に
序章・旅立
関東地方へ
東北地方(白川の関〜武隈)へ
東北地方(宮城野〜石の巻)へ
東北地方(平泉〜最上川)へ
東北地方(羽黒山〜象潟)へ
越後地方(越後路〜那古の浦)へ
北陸地方(金沢〜等栽)へ
美濃の国へ(敦賀〜大垣)


参考情報索引
越後地方   越後路 一振の関 那古の浦
【参考】 乙宝寺   越後路から越中へのルート   鼠の関   親しらず・子しらず    有磯海

本文中、解説付きの語句は 紫色の字 で示し、 旅の日付が分かる箇所は 茶色の字 で示している。 また、右側の欄の「曾良日記より」には、曾良日記中の日付に関する記述を示している。
 越後路 ページトップへ
酒田さかた余波なごり日をかさねて、 北陸道ほくりくどうの雲にのぞむ遥々ようようのおもひ胸をいたましめて、 加賀の府かがのふまで百卅里ひゃくさんじゅうりきくねずの関をこゆれば、越後えちごの地に歩行あゆみあらためて、 越中えっちゅうの国いちぶりの関にいたる。 此間このかん九日、暑湿しょしつろうしんをなやまし、 やまいおこりてことをしるさず。

荒海や 佐渡によこたふ 天河あまのがわ
文月ふみつきや 六日も常の 夜には似ず

6月27日に新潟県の村上に入っている。日本海沿岸を南下し、 7月4日出雲崎を経て、7月12日に市振の関に至っている。この間約15日を要している。 本文中では9日間と記されているが、曾良日記からは新潟から市振の関までの所要期間に等しい。
 

「曾良日記」より
・二十八日 中村ヲ立、・・・(中略)・・・申ノ上刻ニ村上ニ着、宿借テ城中ヘ案内。
・廿九日 ・・・未ノ下尅、宿 久左衛門同道ニテ瀬波へ行。・・・
・七月朔日 巳ノ尅、村上ヲ立。午ノ下尅、乙村ニ至ル。次作ヲ尋、乙寶寺ヘ同道、 ・・・(中略)・・・暮、つゐ地村次市良へ着、宿。
・二日 辰ノ刻 立。・・・(中略)・・・新潟へ申ノ上刻、着。一宿ト云。・・・
・三日 新潟を立。・・・申ノ下刻、弥彦ニ着ス。宿取テ、明神へ参詣。
・四日 辰ノ上刻、弥彦ヲ立。・・・(中略)・・・寺泊ノ方ヘ来リテ左ノ谷間ヲ通リテ、 国上へ行道有。・・・(中略)・・・申ノ上刻、出雲崎ニ着、宿ス。
・五日 朝迄雨降ル。辰ノ上刻止。出雲崎ヲ立。・・・(中略)・・・至柏崎、 天や弥惣兵衛へ・・・(中略)・・・申ノ下尅、至鉢崎、宿たわらや六郎兵衛。
・六日 鉢崎ヲ昼時立。・・・(中略)・・・黒井ヨリスグ濱ヲ通テ、今町へ ・・・(中略)・・・宿、古川市左衛門方。夜ニ至テ各來ル。發句有。
・七日 雨不止故、見合中ニ聽信寺ヘ被招。・・・(中略)・・・其夜、佐藤元仙ヘ招テ俳有テ、宿
・八日 未ノ下刻、至高田。・・・(中略)・・・宿 六左衛門、・・・
・十一日 巳ノ下尅、高田ヲ立。五智・居多ヲ拝。名立ハ状不届。 直ニ能生ヘ通、暮テ着。玉や五良兵衛方ニ宿。
(注) 曾良日記には、 村上→瀬波→新潟→弥彦→寺泊→出雲崎→柏崎→鉢崎(現在の信越本線 米山駅あたり)→高田→能生と、 日本海沿岸を南下していったことが記されている。

乙宝寺おっぽうじ : 現在の新潟県胎内市乙(きのと)にある真言宗の寺で、天平8年(736)に聖武天皇の勅命により行基が開山した寺である。
越後路えちごじから 越中えっちゅうへのルート : 
6月27日、出羽(山形県)と越後(新潟県)の国境に位置する鼠ヶ関を越えて、いよいよ越後の国に入り、 中村で宿泊している。中村は、現在の新潟県岩船郡山北町北中である。 なお、鼠ヶ関付近に 奥州の三関 の1つ「念珠の関」の跡がある。

村上で2泊するが、このときに瀬波海岸に行っている。村上を立って、 乙村の乙宝寺(おっぽうじ)を尋ねている。 その後、日本海沿いを一路南下し、新潟、弥彦と来て、弥彦神社を参詣している。
7月4日には出雲崎で1泊するが、このとき詠んだ句が「荒海や 佐渡によこたふ 天河」である。

日本海
日本海の荒波(新潟県柏崎海岸で撮影)。 晴れた日には、左の方向に佐渡が見える。また、写真奥の山の向こう側が出雲崎方面。
越後路
ねずせき : 出羽(山形県)と越後(新潟県)の国境の関。 現在の山形県鶴岡市鼠ヶ関(旧念珠関村)。鼠ヶ関には、平安時代中期から鎌倉時代初期にかけて利用された古代の関所「鼠ヶ関」跡と 江戸から明治にかけて設置されていた近世の関所「鼠ヶ関」跡がある。 古代の関所「鼠ヶ関」は、今から約1300年前に蝦夷を防ぐために設けられたもので、 勿来関、白河関と共に奥州の三大関所の一つであった。 なお、大正13年内務省により近世の関所跡を史蹟として指定する際に、 「史蹟念珠関址」という名称が与えられ、それ以降「念珠関」とも呼ばれるようになった。
 一振の関 ページトップへ
今日きょう親しらず・子しらず・犬もどり・駒返こまがえしなどいう北国一の難所なんしょこえて、 つかれはべれば、枕引よせて寝たるに、 一間ひとまへだておもてかたに若き女の声二人ばかりときこゆ。 年老としおいたるおのこの声もまじりて物語するをきけば、 越後えちごの国新潟にいがた云所いふところ遊女ゆうじょなりし。 伊勢参宮いせさんぐうするとて、此関このせきまでおのこの送りて、 あすは古郷ふるさとにかへすふみしたゝめて、 はかなき言伝ことづてなどしやるなり白浪しらなみのよするなぎさに身をはふらかし、 あまのこの世をあさましうくだりて、定めなきちぎり、 日々の業因ごういん、いかにつたなしと、物云ものいうをきくきく寝入ねいりて、 あした旅立たびだつに、我々にむかひて、 「行衛ゆくえしらぬ旅路たびじのうさ、 あまり覚束おぼつかなう悲しくはべれば、 見えがくれにも御跡おんあとをしたひはべらん。 衣の上の御情おんなさけ大慈だいじのめぐみをたれて結縁けちえんせさせたまへ」と泪をおとす。 不便ふびんの事にははべれども、 「我々は所々にてとゞまるかたおほし。 ただ人のゆくにまかせて行べし。 神明しんめい加護かごかならずつつがなかるべしと云捨いいすていでつゝ、 あわれさしばらくやまざりけらし。

一家ひとつやに 遊女もねたり 萩と月


曾良にかたれば、かきとゞめはべる。
7月12日、親不知の難所を越えて一振の関で泊まり、 翌日富山の滑川に向かっている。
 

「曾良日記」より
・十二日 能生ヲ立。午ノ尅、糸魚川ニ着、申ノ中尅、市振ニ着、宿。
・十三日 市振立。・・・(中略)・・・申ノ下尅、滑川ニ着。

一振いちふりせき : 越中(富山県)との国境近くにあった越後(新潟県)側の関所。現在の新潟県西頚城郡青海町市振。  (越中の国一ぶりの関と記しているのは、芭蕉の勘違い!)
このあたりは、北アルプスの険しい山並みが日本海に落ち込み断崖絶壁が多く、「親不知子不知」などの難所で有名なところ。


親しらず・子しらず : 新潟県糸魚川市の西端、富山県との境に位置する難所。飛騨山脈の北端が日本海に落ち込んで険しい断崖絶壁となっている。 越後国と越中国の間は日本海の海岸線に沿って進まねばならず、必ずこの断崖絶壁地帯を越える必要があり、 古来北陸道最大の難所として恐れられてきた。現在は、国道8号や北陸自動車道が通り、トンネルの多い地帯である。

結縁けちえん : 仏門に入るための縁結びをすること。たまたま宿を共にした遊女たちが涙ながらに、行方定めぬ旅路ゆえ坊様の後についていきたい。そのために縁を結んでほしいと、僧のいでたちをした芭蕉に懇願した様子を記したもの。
 

 那古の浦 ページトップへ
くろべ四十八がとかや、数しらぬ川をわたりて、 那古なご云浦いふうらいづ担籠たこ藤浪ふじなみは、春ならずとも、 初秋しょしゅうあはれとふべきものをと、 人にたづぬれば、「これより五里、いそ伝ひして、 むかふの山陰やまかげにいり、あまとまぶきかすかなれば、 あし一夜ひとよの宿かすものあるまじ」といひをどされて、 かゞの国にいる

わせの香や 分入わけいる右は 有磯海ありそうみ
7月14日、黒部川を渡り、高岡に着いている。 芭蕉は、本当は氷見に直行し担籠の藤浪を見たかったが、一夜の宿を借りることも無理と言われ、 高岡から金沢のルートをたどることになったようである。
 

「曾良日記」より
・十四日 氷見ヘ欲行、不往。高岡ヘ出ル。二リ也。ナゴ・二上山・イハセノ等ヲ見ル。 高岡ニ申ノ上刻、着テ宿。・・・

くろべ四十八が瀬 : 富山湾に流れ込む黒部川のこと。河口に数多くの瀬が流れ込んでいることから四十八が瀬と表現したもの。
 

那古なごうら : 富山湾伏木港(高岡市)にある現在の奈呉の浦のこと。
 

担籠たこ : 富山県氷見の西南にあった潟湖の入江で、藤の名所であった。万葉の時代から歌枕として詠われた。 なお、藤浪とは、藤の花が波のように揺れる様子を表現した言葉。
 

あまとまぶき : 蜑とは海人すなわち漁師のこと。苫とは茅で編んだ雨露をしのぐ用具のことで、苫ぶきとは苫で葺いた小屋。したがって、漁師の粗末な小屋を意味する。
 

有磯海ありそうみ : 富山県氷見あたりの海岸を指すと思われる。
もともとは具体的な海岸の名前ではなく、 海岸に突き出している荒々しい岩々の様子を表した「荒磯」が「有磯」に変化したと言われている。
「有磯海」という言葉は、万葉の時代から北陸を代表する歌枕であり、 大伴家持が越中で詠んだ次の歌は有名である。

かからむと かねて知りせば 越の海の    
              荒磯の波も 見せましものを
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