江戸東京探訪シリーズ
奥の細道を読む
芭蕉 前途三千里の思い
胸にふさがりて…
本文目次
最初に
序章・旅立
関東地方へ
東北地方(白川の関〜武隈)へ
東北地方(宮城野〜石の巻)へ
東北地方(平泉〜最上川)へ
東北地方(羽黒山〜象潟)へ
越後地方(越後路〜那古の浦)へ
北陸地方(金沢〜等栽)へ
美濃の国へ(敦賀〜大垣)


参考情報索引
東北地方   白川の関 須賀川 あさか山 しのぶの里 佐藤庄司が旧跡 飯塚 笠島 武隈
【参考】 藤原清輔   白河の関越えのルート   白川の関について   奥州の三関   陸奥について   蝦夷とは   東山道とは  
行基菩薩   須賀川での逗留日数   黒塚の岩屋(安達ヶ原の鬼婆)   しのぶもぢ摺り   須賀川から佐藤庄司の旧跡までのルート   奥の細道と曾良日記の食い違い   伊達の大木戸   飯坂から武隈の松までのルート   藤中将実方   鐙摺   能因法師  

本文中、解説付きの語句は 紫色の字 で示し、 旅の日付が分かる箇所は 茶色の字 で示している。 また、右側の欄の「曾良日記より」には、曾良日記中の日付に関する記述を示している。
 白川の関 ページトップへ
心許こころもとなき日かず重るまゝに、 白川の関にかゝりて旅心たびごころさだまりぬ。 「いかで都へ」と便求たよりもとめしも断也ことわりなり。 中にも此関このせき三関さんかんいつにして、 風騒ふうさうひとこころをとゞむ。 秋風を耳に残し、紅葉もみぢおもかげにして、 青葉のこずえ なおあはれなりの花の白妙しろたへに、 いばらの花の咲そひて、雪にもこゆる心地ここちぞする。 古人こじんかんむりを正し衣装を改めし事など、 清輔きよすけの筆にもとゞめおかれしとぞ。

卯の花を かざしに関の 晴着はれぎかな       曾良


白河の関跡
白河の関跡
4月20日、福島の白河の関を越え、白坂の町に入りそこで1泊する。 いよいよこれからみちのくである。
 

「曾良日記」より
・廿日 芦野ヨリ一里半余過テヨリ居村有。是ヨリハタ村ヘ行バ、町ハヅレヨリ右ヘ切ル也。 関明神、関東ノ方ニ一社、奥州ノ方ニ一社・・・ 古関ヲ尋テ白坂ノ町ノ入口ヨリ右ヘ切レテ旗宿ヘ行。廿日之晩泊ル。
・廿一日 ・・・住吉・玉島ヲ一所ニ祝奉宮有。古ノ関ノ明神故ニ二所ノ関ノ名有ノ由、参詣。 ・・・ 関山ヘ参詣。行基菩薩ノ開基。成就山満願寺ト云。・・・コレヨリ白河ヘ壱里半余。


風騒ふうさうの人 : 
歌を詠む人、 風流を好む歌人。白河の関跡は、昔の歌人が好んで歌に詠もうと心に留め置いた場所であった。
 

清輔きよすけ : 平安時代末期の歌人 藤原清輔(長治元年(1104)〜治承元年(1177))のこと。百人一首にも取り上げられている次の歌
「ながらへば またこのごろや しのばれむ
    憂しと見し世ぞ 今は恋しき」
が有名。この歌は「もっと長生きすれば、この辛い時期も懐かしく感じることであろう。昔辛いと思った頃も今は恋しいのだから」 という思いを表したものであるが、芭蕉の現在の心境も同じであることを表している。そのような思いを抱いて、芭蕉は白河の関で、 みちのくへの旅立ちを決意したと言える。
なお、清輔は現在の栃木市の大神神社について次のような歌も詠んでいる。
「朝がすみ ふかく見ゆるや 煙たつ
    室の八島 の わたりなるらむ」

 
白河の関 白河の関越えのルート :
曾良日記によれば、芭蕉は、芦野で遊行柳を見た後、寄居を経て境の明神まで行き、そこから右へ折れて旗宿に向かっている。 旗宿には古来より有名な白河の関があり、芭蕉はここを訪れたが、どの辺が古関の跡かは確認できなかったようである。 旗宿で一泊した後、関山に行き、成就山満願寺を訪れてから、白河に入っている。
成就山満願寺は、聖武天皇の命により天平2年(730)に行基が開いた古刹で、関山の頂上付近にある。
古くは東山道がこのあたりの幹線道路であり、伊王野、芦野、旗宿は東山道沿いの宿場であった。 しかし、芭蕉の時代にはすでに現在の国道294号にあたる道が幹線道路になっていた。

なお、曾良日記では関明神としているが、境の明神のことと思われる。境の明神は、国道294号沿い、栃木(那須)と福島(白坂)の県境に位置し、 ちょうど白坂の町の入り口にあたるところに建てられている。
この明神様は、延暦8年(789)紀伊国から勧請したと伝えられる由緒ある神社で、福島県側に玉津島神社(女神を祀る)、 栃木県側に住吉神社(男神を祀る)という2つの神社から成り、このため2所の関とも言われている。 ただし、福島県側が住吉神社(男神を祀る)、 栃木県側が玉津島神社(女神を祀る)とも言われる。これは、女神が内を守り、男神が外敵を防ぐことから、 福島県側と栃木県側で見方が異なるためだそうである。


白川の関しらかわのせきについて :
奥州の三関 栃木県那須との県境近くに位置する白河の関のこと。所在地は白河市大字旗宿(はたじゅく)字白川内。
白河の関は、古代5世紀頃に蝦夷を防ぐ砦として、下野国(栃木県)と陸奥との境、東山道沿いに置かれていた関所。
白河市のホームページによれば、承和2年(835)に書かれた太政官符という資料に、 「白河の関」について「・・・旧記ヲ検スルニ?(せき)ヲ置キテ以来、今ニ四百余歳」という記述があると言う。 ということは、白河の関が設置されたのは5世紀前半ということになる。
ここから先は蝦夷(えみし)の国、いわゆる陸奥(みちのく)に踏み入ることになることから、 古来歌枕として多くの歌人に歌われた辺境の地でもあった。
芭蕉も、これから先は未知の国という思いから、厳しい陸奥への旅に踏み出すかどうかの迷いがあったが、 ここに至ってやっとそれが吹っ切れた様子が奥の細道の本文から分かる。

奥州おうしゅう三関さんかん :
福島県白河市に位置する「白河の関」、同じく福島県のいわき市に位置する「勿来の関(なこそのせき)」、 山形県西田川郡に位置する「念珠ヶ関(ねんじゅがせき)」(鼠ヶ関とも言う)を奥州の三関と言い、 昔はこのいずれかの関所を通らないとみちのくへ入ることはできなかった。 勿来の関や念珠ヶ関が設置された年代は定かでないが、その目的はやはり蝦夷対策のためであったと思われるので、 おそらく8、9世紀頃と想像される。

陸奥みちのくについて : 
陸奥(みちのく)は、一般には東北地方一帯を指す呼び方であるが、 古代東山道(下記参照))における陸奥国は、白河の関以北を指していた。
7世紀頃の日本は、律令制度の下で行政単位を制定しており、陸奥の国や出羽の国も当時制定された地域であった。 陸奥や出羽の国は、より北に住む蝦夷の脅威から守るための重要な地域でもあった。
当時の陸奥の国の範囲は大体次の通りである。
・ 宮城県のほぼ全域
・ 山形県内陸部(奥羽山脈の西側の山形盆地、新庄盆地、米沢盆地群全て)
・ 福島県のいわき市南部を除いた全域
また、出羽の国はほぼ次の範囲を含む。
・ 山形県の大部分
・ 秋田県の大部分
その当時はまだ青森県や岩手県は未知の領域で、蝦夷が住むところと思われていた。 もちろん北海道の存在も分からなかったと思われる。
陸奥 陸奥の国や出羽の国の範囲は時代によってかなり変わっている。 奥州藤原氏の時代には、勢力範囲の拡大に伴って秋田県も陸奥の国に含まれていた時期があったが、 平安・鎌倉時代にはおおよ左図のような範囲がみちのくであった。 明治元年 (1868) になり、大きな陸奥国は次の5つの国に分割されている。
  ・ 陸前国(りくぜんのくに):岩手県の一部と宮城県の大部分
  ・ 陸中国(りくちゅうのくに):秋田県の一部と岩手県の大部分
  ・ 陸奥国(むつのくに):福島県の一部、宮城県の一部、岩手県の一部、および青森県
  ・ 岩代国(いわしろのくに):福島県の西側半分
  ・ 磐城国(いわきのくに):福島県の東側半分


蝦夷えぞとは :
古代には「毛人」と書いて「えみし」あるいは「えびす」と読んだ。 7世紀頃から「蝦夷」と書き、「えぞ」あるいは「えみし」と言うようになったが、「夷」は東方の異民族に対する蔑称であった。
当時、蝦夷は現在の宮城県中部から山形県以北の東北地方と北海道の大部分に広く居住していた集団であり、 政治的にも文化的にも当時の日本国の支配下に入ることを拒否していたと言われている。
日本が支配領域を北に拡大するにつれて、蝦夷はしばしば防衛のために戦い、反乱を起こしたと言われている。
このため、第50代の桓武天皇は、蝦夷を服従させて陸奥を平定することに執念を燃やし、 延暦16年(797)には坂上田村麻呂を征夷大将軍として陸奥国に送り、 蝦夷を討伐したことが伝えられている。


東山道とうさんどうとは : 
東山道は、7世紀飛鳥時代から10世紀平安時代頃までの日本の律令制度の下で制定された五畿七道の一つである。 五畿七道とは一種の行政区画であり、五畿は、京の都を中心とする畿内の5つの国、山城国(京都府南部)、大和国(奈良県)、 河内国(大阪府南東部)、和泉国(大阪府南部)、摂津国(大阪市と大阪府北部および兵庫県の神戸市以東)を指す。 なお、古来中国では天子のいる都を畿,その周辺地を畿内と呼んでいた。
また、七道は、律令時代の日本の幹線道路で、東海道、東山道、北陸道、山陰道、山陽道、南海道、西海道を指す。
東山道は、畿内を基点として、近江国、美濃国、飛騨国、信濃国、上野国、下野国、 そして陸奥国・出羽の国までの国府を結ぶ本州の内陸を縦断する幹線道路であった。 当初は、武蔵国も入っていたが、東海道に編入されたため東山道から外された。 また、陸奥国と出羽国は後に加わって東山道が延長されたが、 一般的に東山道と言えば、近江国、美濃国、飛騨国、信濃国、上野国、下野国の国府を結ぶ道路を指す。
五畿七道
芭蕉は、陸奥国の国府であった多賀城跡にも行っているが、下野国すなわち栃木県を越えるとそこから先は陸奥(みちのく)、 実質的には白河の関あたりが東山道の北の端という思いが深かったと思われる。
 須賀川 ページトップへ
とかくして越行こえゆくまゝに、あぶくま川を渡る。 左に会津根あいずね高く、 右に岩城いわき相馬そうま三春みはるしょう常陸ひたち下野しもつけの地をさかひて山つらなる。 かげ沼と云所いふところゆくに、 今日は空曇そらくもり物影ものかげうつらず。 すか川の駅に等窮とうきゅうといふものをたずねて、四、五日とゞめらる。 まず「白河の関いかにこえつるや」ととふ。 「長途ちゃうどのくるしみ、心身しんじんつかれ、 かつは風景に魂うばゝれ、 懐旧かいきゅうはらわたたちて、 はかばかしう思ひめぐらさず。

風流の はじめやおくの 田植うた


無下むげにこえんもさすがに」と語れば、 脇・第三とつゞけて三巻みまきとなしぬ。 此宿このしゅくかたわらに、大きなる栗の木陰をたのみて、 世をいとふ僧有。 とちひろふ太山みやまもかくやとしずかに覚られて、 ものに書付侍かきつけはべる。  其詩そのことば、栗といふ文字は西の木とかきて、 西方浄土さいほうじょうど便たよりありと、 行基菩薩ぎょうぎぼさつの一生 杖にも柱にもこの木を用給もちひたまふとかや。

世の人の 見付みつけぬ花や 軒の栗
4月22日、福島の須賀川の町に入る。ここには、芭蕉の知人の等窮という俳人がいた。
4月29日、須賀川の等窮宅を後に郡山に向かう。この日は郡山に泊まる。 なお、当時4月は29日までである。

 

「曾良日記」より
・廿二日 須カ川、乍単斎宿、俳有。
・廿三日 同所滞留。
・廿四日 主ノ田植。昼過ヨリ可伸庵ニテ会有。会席、ソバ切。
・廿九日 石河滝見ニ行(此間、サゝ川ト云宿ヨリアサカ郡)。 須カ川ヨリ辰巳ノ方壱里半計有。・・・ 滝ノ上渡レバ ・・・ 阿武隈川也。川ハゞ百二、三十間も有 ・・・(中略)・・・ 守山宿と云馬次有。御代官諸星庄兵へ殿支配也。 ・・・(中略)・・・カナヤト云村へカゝり、アブクマ川ヲ舟ニテ越、日ノ入前、郡山ニ到テ宿ス。

等窮とうきゅう : 芭蕉の知人。同じ俳諧を志す仲間。
 

あぶくま川 : 福島県、宮城県、山形県の3県にまたがる一級河川で福島県西白河郡西郷村の旭岳を源流とする。 ( 地図参照 )
東北では北上川、最上川に次ぐ大河。
 

会津根あいずね : 現在の福島県側の磐梯山のこと。
 

岩城いわき相馬そうま三春みはるしょう常陸ひたち下野しもつけの地 : 岩城・相馬・三春は、現在の福島県いわき市、相馬市、三春市のこと。常陸は茨城県、下野は栃木県のこと。
 

脇・第三 : 連句の脇句・第三句のこと。

行基菩薩ぎょうぎぼさつ : 奈良時代の僧 行基(天智天皇の御世7年(668)-天平21年(749)。民衆を煽動するとして国の弾圧を受けたが、それにも屈せず民衆救済の布教活動に精力を注ぎ、 多くの民から慕われ、生きながら「行基菩薩」と呼ばれた。 天平15年(743) 聖武天皇が東大寺 盧舎那大仏(いわゆる奈良の大仏)造営の詔を発したとき、聖武天皇は行基に大仏造営の勧進の大役を命じた。 この功により、行基は同17年(745)朝廷より日本最初の大僧正の位を受けた。 また、行基は全国を行脚し、1400寺もの寺院の開基に尽力した。今も行基開基になる多くの寺院が現存する。
 

須賀川での逗留日数 :
須賀川でも比較的長く滞在している。曾良日記によれば、4月22日に須賀川に着いてから、 4月29日にそこを出立するまでの約8日間逗留していることになる。 須賀川には知人の等窮がいた。等窮は俳人であり、芭蕉を大いにもてなしたり、 俳句の会を催したりして、芭蕉にとって居心地のよい場所であったと言える。
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等窮とうきゅうが宅をいでて五里ばかり檜皮ひはだの宿を離れてあさか山有。  路より近し。 このあたり沼多し。 かつみ刈比かるころもやゝ近うなれば、 いづれの草を花かつみとは云ぞと、人々にたづねはべれども、 更知さらにしる人なし。 沼をたずね、人にとひ、「かつみかつみ」と たずねありきて、日は山のにかゝりぬ。 二本松より右にきれて、黒塚くろづかの岩屋一見いっけんし、 福島に宿る。 5月1日、あさか山、二本松を経て福島に入る。 この日の宿は福島である。
 

「曾良日記」より
・五月朔日 日出ノ比、宿ヲ出。壱里半来テヒハダノ宿、 ・・・ アサカ山有。 ・・・(中略)・・・帷子ト云村(高倉ト云宿ヨリ安達郡之内)ニ山ノ井清水ト云有。 二本松ヨリ八町ノ目ヘハ二リ余。黒塚へカゝリテハ三里余有ベシ。 八町ノ目ヨリシノブ郡ニテ福島領也。 ・・・ スグニ福島ヘ到テ宿ス。日未少シ残ル。
あさか山 : 郡山の西方に位置する安積山。
はなかつみ : 当時何の花を指していたかはっきりしないが、まこもか、菖蒲やあやめという説がある。 郡山市では、花かつみをアヤメ科の多年草「姫シャガ」として市の花に指定している。
なお、平安期の万葉集や古今和歌集にも「花かつみ」を詠んだ歌が数多く見られる。たとえば、
  「みちのくの あさかのぬまの
      花かつみ
    かつ見る人に恋やわたらん」              (読み人知らず)

芭蕉は、本文の「かつみかつみ」をこの歌の
「・・・花かつみ●●● かつ見●●●る・・・」と掛けているのかも。
 

二本松にほんまつ : 現在の福島県二本松市。郡山市と福島市の中間に位置する。
黒塚ころづか岩屋いわや : 
現在の福島県二本松市安達ヶ原にある 「安達ヶ原の鬼婆」 の墓のことで、現在も、 平安時代の歌人平兼盛が詠んだ
  「みちのくの 安達ヶ原の 黒塚に 鬼こもれりと 聞くはまことか」
の歌碑がある。
ここには、鬼婆が「岩屋」に住んでおり、「血の池」で出刃包丁を洗っていたという 「安達ヶ原の鬼婆」の伝説が伝えられている。 現在も、黒塚の隣にある観世寺には、鬼婆が住んでいたその「岩屋」と「血の池」があると言われている。
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あくればしのぶもぢずりの石を尋て、 しのぶのさとゆくはるか山陰やまかげ小里こさと石半なかば土にうづもれてあり。 里の童部わらべきたりて教ける、「昔はこの山の上にはべりしを、 往来ゆききの人の麦草むぎくさをあらして、 この石を試侍こころみはべるをにくみて、 この谷につき落せば、石のおもて下ざまにふしたり」という。 さもあるべき事にや。

早苗とる 手もとや昔 しのぶずり


信夫文字摺
しのぶ摺りの句碑
(東北道国見サービスエリアに建てられている句碑)
5月2日、しのぶの里に行き「文知摺石」を見た後、阿武隈川の月の輪の渡しを渡り、 佐藤庄司が旧跡に向かう。
 

「曾良日記」より
・二日 福島ヲ出ル。・・・(中略)・・・アブクマ川ヲ舟ニテ越ス。岡部ノ渡リト云。 ソレヨリ十七八丁、山ノ方ヘ行テ、谷アヒニモジズリ(文字摺)石アリ。

しのぶのさと : 現在の福島市山口あたりのこと。現在この山口に「文知摺観音」がある。

しのぶもぢずり : 草の上で転んだりすると、衣服に草がこすり付けられて緑色に染まってしまうことがあるが、「しのぶもぢ摺り」はこれと同じような染め方のことで、乱れた線の模様が入った石に布をあてがい、その上から忍(しのぶ)草などの葉や茎を摺り(すり)付けて布に色素を沈着させて染める方法である。
しのぶもぢ摺りで染めた絹は「文知摺絹」と呼ばれ、ここが発祥の地である。古来、文知摺絹は 都人に珍重され一世を風靡したと言われる。また、そのみだれ模様が心の乱れを表す歌枕「しのぶもちづり」、「しのぶずり」となっていることでも有名である。

 佐藤庄司が旧跡 ページトップへ
月の輪つきのわのわたしを越て、 瀬の上せのうえ云宿いうしゅくづ。 佐藤庄司が旧跡さとうしょうじがきゅうせきは、 左の山際一里半ばかりに有。 飯塚いいづかの里 鯖野さばのきき尋尋たずねたずね行に、 丸山というたづねあたる。 これ庄司が旧館也。 ふもと大手の跡など、人の教ゆるにまかせてなみだを落し、 又かたはらの古寺一家いっけ石碑せきひを残す。 中にも二人の嫁がしるし、まづ哀也あわれなり。 女なれどもかひがひしき名の世に聞えつる物 かなとたもとをぬらしぬ。堕涙だるいの石碑も遠きにあらず。 寺にいりて茶をへば、ここに 義経の太刀・弁慶がおひをとゞめて什物じゅうもつとす。

おいも太刀も 五月にかざれ 帋幟かみのぼり


五月朔日さつきついたちの事也。
5月2日に佐藤庄司が旧跡を訪れる。
 

「曾良日記」より
・二日 ・・・(中略)・・・ 月ノ輪ノ渡ト云テ、岡部渡ヨリ下也。 ソレヲ渡レバ十四、五丁ニテ瀬ノ上也。瀬ノ上ヨリ佐場野ヘ行。佐藤庄司ノ寺有。

月の輪つきのわのわたし : 現在の福島市瀬上町の阿武隈川に架かる月の輪大橋あたりにあった渡し。
 

瀬の上せのうえ : 現在の福島市瀬上町のこと。
 

鯖野さばの : 現在の福島市飯坂町平野字鯖野のあたり。現在も医王寺、大鳥城跡の石碑などがある。
 

佐藤庄司さとうしょうじ旧跡きゅうせき : 佐藤庄司は、奥州藤原三代秀衡の家臣 佐藤基治のこと。平安末期、信夫郡・伊達郡を支配した豪族で、「庄司」というのは荘園を管理する職名である。 基治の子 継信、忠信兄弟は、義経の家臣となったが、源平の戦で義経の身代わりとなり壮絶な最後を遂げた。
 

大手の跡おおてのあと : 佐藤基治の館「大鳥城」の大手門の跡。現在の飯坂温泉近くに位置する。
 

古寺ふるでら : 佐藤基治一族の菩提寺 瑠璃光山医王寺のこと。曾良日記中の佐藤庄司ノ寺もこの医王寺のこと。平安時代 天長3年(826)に弘法大師が作った薬師如来を祀って開基したと伝えられている真言宗の寺である。
須賀川から佐藤庄司の旧跡までのルート
福島ルート1
奥の細道と曾良日記の食い違い :
佐藤庄司の寺「医王寺」に訪れた日を、奥の細道では「五月朔日」、曾良日記では5月2日と記している。 曾良日記によれば、5月1日にあさか山から黒塚の岩屋を見て、福島に泊まっている。 2日に福島を立ち、文字摺の石を見学し、医王寺まで行っている。 このことから、芭蕉が勘違いしているか、またはあえて月の最初の日として佐藤庄司の寺を訪れた日を強調しているようである。
 飯塚 ページトップへ
其夜そのよ飯塚いいづかにとまる。温泉いでゆあれば、 湯に入て宿をかるに、土坐どざむしろしきて、 あやしき貧家ひんか也。 ともしびもなければ、 ゐろりのかげに寐所ねどころをまうけてす。 夜に入て、雷鳴かみなり雨しきりに降て、ふせる上よりもり、 のみにせゝられて眠らず。持病さへおこりて、消入計きへいるばかりになん。 短夜みぢかよの空もやうやうあくれば、 又旅立ぬたびだちぬなお夜の余波なごり、心すゝまず。  馬かりて桑折こおりの駅にいづる。 はるかなる行末ゆくすゑをかゝえて、 斯るかかるやまひ覚束おぼつかなしといへど、 羇旅辺土きりょへんど行脚あんぎゃ捨身無常しゃしんむじやうの観念、 道路にしなん、これ天のめいなりと、気力いささかとり直し、 路縦横みちじゅうおうふん伊達だて大木戸おおきどをこす。 5月2日は飯坂に泊まり、3日は白石に泊まる。
 

「曾良日記」より
・二日 ・・・(中略)・・・飯坂ニ宿、湯ニ入。
・三日 ・巳ノ上尅止。飯坂ヲ立。桑折ト貝田ノ間ニ伊達ノ大木戸ノ場所有(国見峠ト云山有) コスゴウ(越河)トカイタトノ間ニ福島領ト仙台領トノ境有。サイ川ヨリ十町程前ニ、万ギ沼・万ギ山有。ソノ下ノ道、アブミコ ブ(ワ)シト云岩有。 ・・・ 次信・忠信が妻ノ御影堂(興福寺内)有。同晩、白石ニ宿ス。

飯塚いいづか : 現在の福島市飯坂町。本文中の温泉は飯坂温泉のこと。当時は、飯坂を飯塚ということもあったようである。
 

桑折こおり : 現在の福島県伊達郡桑折町のこと。この町は、仙台伊達藩発祥の地として知られている。また、古来東山道におけるうまやが置かれた場所であり、芭蕉も「駅」と表現している。
 

羇旅辺土きりょへんど行脚あんぎゃ : 馬の手綱を引きながら、辺鄙(へんぴ)な片田舎を行脚することの意であるが、 実際に馬を引き連れて旅していたわけではない。
 

捨身無常しゃしんむじやう観念かんねん : 俗身を捨てて、全ては無常であることを悟った心情。
 

伊達だて大木戸おおきど : 現在の福島県伊達郡国見町にあった伊達藩への出入り口にあたる場所。 このあたりは、奥州街道の国見峠越えの難所であったと言われている。
飯坂から武隈の松までのルート
福島ルート2
曾良日記中の「サイ川ヨリ十町程前ニ、万ギ沼・万ギ山有。ソノ下ノ道、アブミコブシト云岩有。」 の記述は、白石市斎川の「馬牛沼」のこと。この近くの4号線沿いに鐙摺の石(次の笠島の項 参照)の跡があるとのこと。
 笠島 ページトップへ
鐙摺あぶみずり白石しろいしの城すぎ笠島かさしまこほりに入れば、 藤中将とうのちゅうじょう実方さねかたの塚はいづくのほどならんと、人にとへば、 「これよりはるか右に見ゆる山際の里を、 みのわ・笠島といひ道祖神どうそじんやしろ、 かた見のすすき、今にあり」と教ゆ。 此比このごろ五月雨さみだれに道いとあしく、身つかれはべれば、 よそながらながめやりてすぐるに、 簑輪みのわ・笠島も五月雨さみだれの折にふれたりと、

笠島は いづこさ月の ぬかり道


岩沼いわぬまに宿る。
5月4日白石を立ち、笠島、武隈ノ松、岩沼を経て名取川を越え、仙台に到着している。
 

「曾良日記」より
・四日 辰ノ尅、白石ヲ立。・・・(中略)・・・岩沼入口ノ左ノ方ニ竹駒明神ト云有。  ソノ別当ノ寺ノ後ニ武隈ノ松有。笠島(名取郡之内)、岩沼・増田之間左ノ方一里計有、三ノ輪・笠島と村並テ有由、 名取川、中田出口ニ有。若林川、長町ノ出口也。此川一ツ隔テ仙台町入口也。 ・・・(中略)・・・夕方仙台ニ着。其夜、宿国分町大崎庄左衛門 。

藤中将とうのちゅうじょう実方さねかた  : 平安時代の代表的歌人。清少納言、和泉式部、赤染衛門、能因法師、伊勢大輔などと共に中古三十六歌仙の一人に数えられる。 実方は、長徳元年(995)朝廷より命じられて陸奥守となり陸奥へ赴任したが、3年後の長徳4年(998) 笠島の道祖神の前を通ったときに馬が暴れて落馬し、 それがもとで命を落としたと言われている。その実方の墓が名取市愛島笠島にある。
 

鐙摺あぶみずり : 現在の宮城県白石市斎川に位置する当時の山峡の難所で、巨大な岩石があった。義経一行が平泉に向かう際に、この狭い難所地帯を越えるために鐙を摺ったという言い伝えがある。なお、鐙は乗馬時に足をのせるための馬具。
 

白石しろいしの城 : 現在の宮城県白石市にある白石城。鎌倉時代土豪白石氏の居城であったが、慶長7年(1602)以降仙台城の支城となり、伊達家重臣 片倉氏が居城した。
 

笠島かさしま : 現在の宮城県名取市愛島笠島。
 

岩沼いわぬま : 現在の宮城県岩沼市。
 武隈 ページトップへ
武隈の松たけくまのまつにこそ、めさむる心地はすれ。 根は土際つちぎはより二木ふたきにわかれて、昔 の姿うしなはずとしらる。 まず能因法師のういんほうし思ひいづ往昔そのかみ、むつのかみにて下りし人、 この木をきり名取川橋杭はしぐひにせられたる事などあればにや、 「松はこのたび跡もなし」とはよみたり。
代々よよ、あるはきり、 あるひは植継うゑつぎなどせしと聞に、 今将いまはた千歳ちとせのかたちとゝのほひて、 めでたき松のけしきになんはべりし。 「武隈たけくまの松 みせ申せ 遅桜おそざくら」と、 挙白きょはくいうものゝ餞別せんべつしたりければ、


桜より 松は二木ふたきを 三月越みつきご
5月4日に、武隈ノ松を訪れ、感慨にふけっている。
 

武隈たけくまの松 : 宮城県岩沼市にある竹駒神社の別当寺であった竹駒寺の後にあったと言われている松の木。(前項「笠島」の曾良日記参照)
竹駒寺は能因法師の開基になる寺である。寺の縁起に、 能因法師がみちのくを行脚し竹駒神社で歌の道に励んだときに使用した庵が竹駒寺になったと伝えられている。
 

能因法師のういんほうし : 平安時代中期の歌人。永延2年(988)に生まれて26歳で出家して摂津の国(現在の大阪府高槻市)に住んだと伝えられている。  諸国行脚の旅をし、特にみちのくに旅したときに作った
  「都おば 霞と共に 立ちしかど
    秋風ぞ吹く 白河の関」

の歌は有名である。
西行法師と共に、芭蕉が尊敬していた歌人の一人である。
 

名取川なとりがわ : 宮城県南部を流れる川。仙台を流れる広瀬川と合流し、名取市の北で仙台湾に流れ込む。 古来より、ここを越えると仙台入りということで有名な川。
 

挙白きょはく : 江戸 蕉門の一人。芭蕉が旅立つときに餞に「武隈の松 みせ申せ 遅桜」の句を送った。 この句は「もう桜は遅いけど、武隈の松だけはぜひ見せたい」という挙白の気持ちを詠んだものである。
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