江戸東京探訪シリーズ 奥の細道を読む
前途三千里の思い 胸にふさがりて… |
本文目次
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参考情報索引 |
東北地方
宮城野
壷の碑
末の松山
塩竈
松島
石の巻
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本文中、解説付きの語句は 紫色の字 で示し、
旅の日付が分かる箇所は 茶色の字 で示している。
また、右側の欄の「曾良日記より」には、曾良日記中の日付に関する記述を示している。 |
宮城野 | ページトップへ | ||||||||||||||||||
名取川を渡て仙台に入。
あやめふく日也。
旅宿をもとめて、四、五日逗留す。
爰に画工加右衛門と云ものあり。
聊心ある者と聞て、知る人になる。
この者、年比さだかならぬ名どころを考置侍ればとて、
一日案内す。
宮城野の萩茂りあひて、秋の気色思ひやらるゝ。
玉田・よこ野、つゝじが岡はあせび咲ころ也。
日影ももらぬ松の林に入て、
爰を木の下と云とぞ。
昔もかく露ふかければこそ、
「みさぶらひみかさ」とはよみたれ。
薬師堂・天神の御社など拝て、
其日はくれぬ。
猶、松島・塩がまの所どころ画に書て送る。
且、紺の染緒つけたる
草鞋二足餞す。
さればこそ、風流のしれもの、
爰に至りて其実を顕す。
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5月4日に仙台入りし、5月8日に仙台を立つまで 画工 加右衛門の世話になっている。
あやめふく日 : 端午の節句を意味する。 端午の節句は5月5日であるが、あやめふく日は前日の5月4日とい説もあり、芭蕉は後者のようである。 あせび : 馬酔木と書いて「あせび」または「あしび」と読む。 躑躅(つつじ)科の植物で、3月から4月ごろにうす紅色や白色の壷の形をした花をいっぱい咲かせる。 枝葉に有毒成分を含むので、馬が食べると酔ったように足がしびれてしまうことから「馬酔木(あしび)」と呼ばれるようになった。 薬師堂 : 現在の宮城県仙台市木ノ下地区あたりに、奈良時代に創建された陸奥国分寺があった。この寺は、頼朝が奥州に攻め上った文治5年(1189)に焼失したが、 伊達政宗は国分寺の再建を念願して慶長12年(1607)にここに薬師堂を建立した。 天神の御社 : 榴岡(つつじがおか)天満宮のこと。学問の神様と言われている「菅原道真」を祀る神社。 平安時代山城国(現在の京都府)に創建された天満宮をこの地にも誘致したのが始まりと言われている。その後、 寛文7年(1667)に伊達家第3代網宗が榴岡の地に移し、丹塗りの社殿・唐門を造営した。 現在も仙台の天神様として親しまれている。 送る : 「贈る」の誤りと思われる。 「画工 加右衛門が松島や塩釜の名所を絵地図にして贈ってくれた。 さすがに彼は風流の人である」という意味からは、「送る」ではありえない。 | ||||||||||||||||||
宮城野での逗留日数 : 曾良日記によれば、5月4日に仙台に到着してから、5月8日に仙台を立ち多賀城、塩釜に向かうまでの滞在日数は約5日間になる。 この地には、芭蕉とも知り合いの風流を解する加右衛門がいた。加右衛門は絵描きであり、俳人でもあった。 | |||||||||||||||||||
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壷の碑 | ページトップへ | ||||||||||||||||||
かの画図にまかせてたどり行ば、
おくの細道の山際に十附の菅有。
今も年どし十附の菅菰を調て
国守に献ずと云り。 壷碑 市川村多賀城に有。 つぼの石ぶみは、高サ六尺余、横三尺計歟。 苔を穿て文字幽也。 四維国界之数里をしるす。 「此城、神亀元年、 按察使鎮守府将軍大野朝臣東人之所里也。 天平宝字六年、 参議 東海東山節度使、 同将軍恵美朝臣 朝かり修造而。 十二月朔日」と有。 聖武皇帝の御時に当れり。 むかしよりよみ置る歌枕、おほく語伝ふといへども、 山崩川流て道あらたまり、 石は埋て土にかくれ、木は老て若木にかはれば、 時移り、代変じて、其跡たしかならぬ事のみを、 爰に至りて疑なき千歳の記念、 今眼前に古人の心を閲す。 行脚の一徳、存命の悦び、 羇旅の労をわすれて、泪も落るばかり也。 |
5月8日に仙台から多賀城入りし、壷碑を見学する。
壷の碑 : 多賀城碑のこと。
芭蕉がこの地を訪れた15年〜30年程前の万治・寛文の頃(1658〜1673)に、この碑が発見されたと言われている。 古来「つぼのいしぶみ」は陸奥の国の歌枕として、西行や源頼朝などの和歌に詠まれている。 「みちのくの おくゆかしくぞ おもほゆる 壷の碑 外の浜風」 (西行) 現在、多賀城市市川字立石に壷碑がある。 おくの細道 : 当時、岩切の東光寺門前付近の冠川沿いの道が「おくの細道」と言われていた。 十附の菅菰 : 菅菰は菅を編んで作ったむしろ。 十附とは10筋の編み目のことで、良質の菅を意味する。 多賀城 : 日本の律令時代、 陸奥国 の国府が現在の宮城県多賀城市に置かれていた。 この地は、 東山道 の終点でもあった。 多賀城は、神亀元年(724)この地に大野東人(おおのあずまひと)が築城したとされる古代城柵で、 当時は蝦夷討伐のための最前線の重要な軍事基地であった。 野田の玉川 : 曾良日記中の「野田玉川」の野田は、 現在の多賀城市留ヶ谷のあたり。そこに流れていた小川が玉川。その昔このあたりまで汐が満ち、月見の名所であったことから、 よく歌に詠まれたと言われている。 おもわく橋 : 曾良日記中の「オモワクノ橋」は、 野田の玉川に架けられた小橋で、平安時代の武将 安部貞任が恋人「おもわく」と待ち合わせした場所と言い伝えられている。 | ||||||||||||||||||
聖武皇帝 : 第45代 聖武天皇(大宝元年(701) - 天平勝宝8年(756))、在位期間は神亀元年(724) - 天平勝宝元年(749)。 文武天皇の第一皇子(首皇子)、母は藤原不比等の娘 宮子。聖武天皇の皇后は藤原不比等の娘 光明子。 7歳のときに父 文武天皇と死別するが、まだ幼いため文武天皇の母 元明天皇(天智天皇皇女)が中継ぎの天皇として即位する。 和銅7年(714)に元服し立太子するが、外戚である藤原氏との対立により即位は先延ばしにされ、 霊亀元年(715)には文武天皇の姉である元正天皇が「中継ぎの中継ぎ」の天皇となる。 神亀元年(724) 24歳のときに、遅ればせながら元正天皇より皇位を譲られて即位する。 聖武天皇の在位期間であった天平年間は災害や疫病(天然痘)が大流行し、聖武天皇は仏教に深く帰依した。 天平13年(741)には国分寺建立の詔、天平15年(743)には東大寺盧舎那仏像の建立の詔を出し、 皇位を退いて後の天平勝宝4年(752)には東大寺大仏の開眼法要を行った。 なお、天平勝宝元年(749)に娘の阿倍内親王(孝謙天皇)に譲位、自らは出家する。生前譲位(太上天皇)した初の男性天皇となる。 | |||||||||||||||||||
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末の松山 | ページトップへ | ||||||||||||||||||
それより野田の玉川・沖の石を尋ぬ。 末の松山は、寺を造て末松山と云ふ。 松のあひあひ皆墓はらにて、はねをかはし枝をつらぬる契の末も、 終はかくのごときと、 悲しさも増りて、塩がまの浦に入相のかねを聞。 五月雨の空聊はれて、 夕月夜幽に、 籬が島もほど近し。 蜑の小舟こぎつれて、 肴わかつ声ゝに、 「つなでかなしも」とよみけん心もしられて、いとゞ哀也。 其夜目盲法師の琵琶をならして、 奥上(浄)るりと云ものをかたる。 平家にもあらず、舞にもあらず、ひなびたる調子うち上げて、枕ちかうかしましけれど、 さすが辺土の遺風わすれざるものから、 殊勝に覚らる。 |
5月8日中に塩釜に着き、末の松山を訪れる。この日は塩釜に泊まる。
野田の玉川・沖の石 : 野田の玉川は多賀城市と塩釜市の境あたりにある小川。平安時代の歌人能因法師が詠んだ 「夕されば 汐風こして みちのくの
に由来する多賀城の歌枕。沖の石も、小野小町や二条院讃岐の歌に由来する多賀城の歌枕。のだの玉河 千鳥なくなり」 末松山 : 現在の宮城県多賀城市にある末松山宝国寺のこと。この寺の裏には、末の松山という小山が作られていたという。 現在もこの小山に相生の松が植えられている。 入相のかね : 夕暮れの鐘のこと。 籬が島 : 現在の宮城県塩釜湾にある小島。この小島に塩竃神社14末社の一つ曲木(まがき)神社(籬島明神)がある。 蜑 : 海人すなわち漁師のこと。 「つなでかなしも」・・・ : 陸奥の名所 塩釜の浦を小船が綱で牽かれてゆくのを見て、古今集の東歌である次の歌を思い出しながら、その情景に感動している様子を表したもの。 「みちのくは いづくはあれど しほがまの 浦こぐ舟の つなでかなしも」 | ||||||||||||||||||
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塩竈 | ページトップへ | ||||||||||||||||||
早朝、塩がまの明神に詣。 国守再興せられて、宮柱ふとしく、 彩椽きらびやかに、石の階九仭に重り、 朝日あけの玉がきをかゝやかす。 かゝる道の果、塵土の境まで、 神霊あらたにましますこそ、吾国の風俗なれと、 いと貴けれ。 神前に古き宝燈有。 かねの戸びらの面に、 「文治三年和泉三郎奇(寄)進」と有。 五百年来の俤、今目の前にうかびて、そゞろに珍し。 渠は勇義忠孝の士也。 佳命(名)今に至りて、したはずといふ事なし。 誠「人能道を勤、 義を守べし。 名もまた是にしたがふ」と云り。日既午にちかし。 船をかりて松島にわたる。其間 二里余、 雄島の磯につく。 |
5月9日に塩釜神社を参拝する。塩釜から松島まで舟で渡り、
昼ごろ松島 雄島が磯で船を下りる。 塩がまの明神 : 現在の塩釜神社。古来陸奥国一之宮として朝廷や庶民の崇敬を集めており、 多賀城の精神的な支えにもなっていた。 江戸時代、国主伊達政宗がこの神社を再建した。 塵土の境 : 田舎のこと。 宝燈 : 燈籠のこと。ここに芭蕉が訪れた時より約500年前の文治三年(1187)に和泉三郎忠衡が寄進したもの。 和泉 三郎 : 藤原氏第3代秀衡の三男 和泉三郎忠衡のこと。義経は、奥州に落ちのび、藤原秀衡の下に滞在していたが、その間に秀衡が死んでしまう。 秀衡亡き後、藤原一族はことごとく義経に反逆するが、その中でひとり忠衡は父秀衡の言いつけを守り、 義経への忠義から義経に味方して戦うが、ついに高館にて戦死してしまう。このため、忠衡は勇義忠孝の士と言われている。 雄島の磯 : 松島湾の南に位置する海上に突き出あした小島のこと。 | ||||||||||||||||||
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松島 | ページトップへ | ||||||||||||||||||
抑ことふりにたれど、松島は扶桑第一の好風にして、
凡洞庭・西湖
を恥ず。
東南より海を入て、江の中三里、
浙江の潮をたゝふ。
島々の数を尽して、欹ものは天を指、
ふすものは波に匍匐。
あるは二重にかさなり、三重に畳て、
左にわかれ右につらなる。
負るあり抱るあり、児孫愛すがごとし。
松の緑こまやかに、枝葉汐風に吹たはめて、
屈曲おのづからためるがごとし。
其気色えう然として、
美人の顔を粧ふ。
ちはや振神のむかし、大山ずみのなせるわざにや。
造化の天工、
いづれの人か筆をふるひ詞を尽さむ。
雄島が磯は地つゞきて海に出たる島也。
雲居禅師の別室の跡、坐禅石など有。
将、松の木陰に世をいとふ人も稀ゝ見え侍、
落穂・松笠など打けふりたる草の菴閑に住なし、
いかなる人とはしられずながら、先なつかしく立寄ほどに、
月海にうつりて、昼のながめ又あらたむ。
江上に帰りて宿を求れば、窓をひらき二階を作りて、
風雲の中に旅寐するこそ、あやしきまで妙なる心地はせらるれ。
余は口をとぢて眠らんとしていねられず。 旧庵をわかるゝ時、素堂、松島の詩あり。 原安適、松がうらしまの和歌を贈らる。 袋を解て、こよひの友とす。 且、 杉風・濁子が発句あり。 十一日、瑞岩(厳)寺に詣。 当寺三十二世の昔、 真壁の平四郎出家して入唐、 帰朝の後開山す。 其後に、雲居禅師の徳化に依て、 七堂甍改りて、 金壁荘厳光を輝、 仏土成就の大伽藍とはなれりける。 彼見仏聖の寺はいづくにやとしたはる。 |
5月9日、瑞巌寺に詣で、松島の眺望を楽しむ。この日は松島に泊まる。
五大堂(曾良日記に記述あり) 扶桑 : 日本のこと。 大山祇 : 大山祇神(おおやまずみのかみ)のことで、日本の全ての山を統括する神。大山祇神の娘が木花咲耶姫(このはなさくやひめ)。 木花咲耶姫は、海幸彦・山幸彦の母であり、神武天皇の曾祖母にあたる。 なお、愛媛県今治市大三島には、全国の三島神社の総本山で日本総鎮守とも呼ばれる伊豫國一宮「大山祇神社」がある。 雲居禅師 : 天正10年(1582)伊予国(愛媛県伊予市)に生まれる。寛永13年(1636)、政宗は雲居禅師に瑞巌寺の住職を要請するが、実現する前に 政宗は生涯を閉じる。その後、二代忠宗の強い願いもあり第99代住職となる。 素堂 : 山口素堂のこと。 芭蕉と共に京都で北村季吟に俳諧を学んだ。芭蕉は、素堂と親密な付き合いをし、素堂の影響を大いに受けて大成していった。 素堂の有名な俳句に以下がある。 目に青葉 山ほととぎす はつ鰹
原安適 : 深川に住んでいた歌人。杉風 : 蕉門の代表的俳人 杉山 杉風。 濁子 : 大垣藩江戸詰めの武士で中川甚五兵衛のこと。芭蕉門下に入り、俳号を濁子と言った。 瑞岩(厳)寺 : 現在の正式名称は「松島青龍山瑞巌円福禅寺」といい、臨済宗に属す。 元は、平安の始め天長5年(828)天台宗比叡山延暦寺第三代座主慈覚大師円仁が、淳和天皇の詔勅を受けて天台宗延福寺として建立し、開創以来28代約400年続いた。 しかし、鎌倉時代中期時の執権北条時頼が延福寺を攻め滅ぼし、 正元元年(1259年)ごろ法身禅師を開山として臨済宗を創建し円福寺と命名した。 法身禅師は、常陸国(茨城県)真壁郡の出で、俗名を真壁平四郎といい、出家し、宋に渡って修行した。 なお、江戸時代瑞巌寺は伊達政宗の厚い庇護を受けていた。 | ||||||||||||||||||
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松島での不思議 :
また、曾良日記によれば、仙台から松島に着いたのは5月9日の午ノ刻(正午)である。 松島で一泊したが明くる10日にはもう松島を立ち、石巻に到着している。 芭蕉は「松島」の章で「十一日、瑞岩(厳)寺に詣づ」と記しており曾良と食い違うが、これは芭蕉の創作のようである。 と言うことは、松島での逗留日数はわずか1日である。 さらに、奥の細道の旅は神社仏閣を訪ねることが1つの目的であるとも言われているが、 それにしては瑞巌寺に関する観察も少ないような気がする。 以上のように、松島に関しては不思議に思わざるを得ない状況がいくつかある。 当時から数十年遡る伊達政宗の時代から、伊達藩は天下取りも狙っていた奥州の一大勢力であり、 瑞巌寺も伊達家の菩提寺でもあったこと、また芭蕉の生まれが伊賀上野であったことなども合わせて、 芭蕉が幕府の密偵ではなかったのかという憶測が生まれることにもなる所以であろう。 | |||||||||||||||||||
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石の巻 | ページトップへ | ||||||||||||||||||
十二日、平和泉と心ざし、 あねはの松・緒だえの橋など聞伝て、 人跡稀雉兎蒭蕘の往かふ道そこともわかず、 終に路ふみたがえて、 石の巻といふ湊に出。 「こがね花咲」とよみて奉たる金花山、 海上に見わたし、数百の廻船入江につどひ、 人家地をあらそひて、竈の煙立つゞけたり。 思ひかけず斯る所にも来れる哉と、 宿からんとすれど、更に宿かす人なし。 漸まどしき小家に一夜をあかして、明れば又しらぬ道まよひ行。 袖のわたり・尾ぶちの牧・まのゝ萱はらなどよそめにみて、 遥なる堤を行。 心細き長沼にそふて、 戸伊摩と云所に一宿して、 平泉に到る。 其間廿余里ほどゝおぼゆ。 |
5月10日松島を立ち、石巻に至り、四兵という宿に泊まる。
あけて11日には石巻を立ち、戸伊摩に泊まる。12日には、戸伊摩を立ち、一ノ関で宿泊している。
雉兎蒭蕘 : 雉はきじ、兎はうさぎ、蒭は猟師、蕘はきこりを意味し、それだけしか歩かない奥深い道のこと。いわゆる人も通らない獣道の意。 金花山 : 現在の宮城県石巻市 牡鹿半島先端に位置する島。昔、日本で初めて金を産出し、朝廷に献上したという伝説がある島。 戸伊摩 : 現在の宮城県登米郡登米町のこと。登米は「とよま」と読む。 |