江戸東京探訪シリーズ
奥の細道を読む
芭蕉 前途三千里の思い
胸にふさがりて…
本文目次
最初に
序章・旅立
関東地方へ
東北地方(白川の関〜武隈)へ
東北地方(宮城野〜石の巻)へ
東北地方(平泉〜最上川)へ
東北地方(羽黒山〜象潟)へ
越後地方(越後路〜那古の浦)へ
北陸地方(金沢〜等栽)へ
美濃の国へ(敦賀〜大垣)


参考情報索引
★ ここでは奥の細道本文に入る前の事前知識として下記の事項について簡単に触れています。
松尾芭蕉   河合曾良   【時代背景】元禄時代   和歌から俳諧まで   俳句と蕉風について   芭蕉の世界観について  

松尾芭蕉
寛永21年(1644)〜元禄7年(1694)

芭蕉は江戸時代前半に活躍した俳人です。 伊賀の国上野に武士の子として生まれたが、俳諧の道を志す。1675年に江戸に出るが、 1680年には深川に草庵を結び、弟子も置いて俳諧の道を究め、 「蕉風」 を確立する。 俳諧における芭蕉の影響は大きく、各地に 「蕉門」 の弟子がいた。 特に、生まれ故郷の伊賀上野に近い美濃国 大垣は、藩主の奨励もあり俳諧が普及しており、 蕉門の俳人たちも多かった。俳諧の道に進んで以降の生涯は旅に明け暮れ、 元禄2年(1689)には、河合曾良を伴ってみちのくへ旅立ち、紀行文「奥の細道」を完成させた。 奥の細道の旅の最終地として大垣を選んだ理由もその辺にありそうである。
辞世の句 「旅に病んで夢は枯野をかけ廻る」 を残して大坂御堂筋でこの世を去ったときも旅の途中であった。 まさに 「日々旅にして、旅を栖とする」 人生であったといえる。
河合曾良
慶安2年(1649)〜宝永7年(1710)

芭蕉の門弟 河合曾良は、信州上諏訪に生まれた。少年期に伊勢長嶋の親戚に引き取られ、 その後伊勢長嶋藩に仕えるが、この頃は河合惣五郎と名乗っていた。江戸に上り江戸蕉門に入門したのは、1681年頃のことであった。 芭蕉の信頼も厚く、奥の細道の旅に同行して 「曾良随行日記」 を残した。
【時代背景】元禄時代
元禄元年(1688)〜元禄17年(1704)

元禄年間は、第五代将軍徳川綱吉の世であり、 町人文化 が大きく花開いた時代である。 京都には初代坂田藤十郎(1647-1709)、江戸には初代市川団十郎(1660-1704)が出て、 歌舞伎が発達した。 また、紀伊国屋文左衛門や奈良屋茂左衛門などの豪商が出て、商業も栄えた。
学問や美術が盛んになり、多くの文人が活躍した時代でもある。 儒学では、朱子学の貝原益軒(1630-1714)、陽明学の熊沢蕃山(1619-1691)、兵学者の山鹿素行(1622-1685)、 古文辞学の荻生徂徠(1666-1728)、文学では、『日本永代蔵』『世間胸算用』『好色一代男』などを書いた井原西鶴(1642-1693)、 『曽根崎心中』『心中天網島』『女殺油地獄』などを書いた近松門左衛門(1653-1724)、 浄瑠璃の竹本義太夫(1651-1714)、美術では、「風神雷神図」で有名な俵屋宗達(生没年不詳)、 「紅白梅図屏風」で有名な尾形光琳(1658-1716)、「探幽縮図」で有名な狩野探幽(1602-1674)、 「見返り美人図」など浮世絵の大家である菱川師宣(1618-1694)、工芸では、有田焼の酒井田柿右衛門(1596-1666)など、 俳諧の世界で俳聖と言われた芭蕉(1644-1694)と同時代に活躍した人たちである。
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和歌から俳諧まで

和歌  和歌は、上の句(五・七・五)と下の句(七・七)の31文字から成る日本固有の形式を持った詩です。 「やまとうた(大和歌)」 とも言われ、中国の漢詩に対する日本の詩の呼び名です。

和歌は、飛鳥、奈良の時代に一挙に開花しましたが、 この時代は中国大陸との交流が盛んに行われ、東大寺や法隆寺などに代表される仏教文化が隆盛を極めました。 この頃仏教と共に漢詩も日本に入ってきました。 日本古来の和歌は、漢詩の影響を受けて、より人々の気持ちを表現するものに変わっていったようです。 たとえば、飛鳥から奈良中期に詠われた和歌を 大伴家持 が編纂したのが、 かの有名な『万葉集』ですが、 万葉集に恋の歌が多いのもその表れです。

和歌はずっと歌い継がれ、平安時代には、 紀貫之 らによって 『古今和歌集』 が編纂されました。
さらに、 鎌倉時代には、 藤原定家 らによって 『新古今和歌集』 が編纂されたことはよく知られています。

和歌の連歌  さらに、和歌は鎌倉、室町の時代へと歌い継がれ、この頃には31文字で成り立つ古来の形式に留まらず、 何人もの人が上の句(五・七・五)と下の句(七・七)を順ぐりに歌いつなげて楽しむ「和歌の連歌」がはやりました。 しかし、まだ上流階級の優雅な遊びであることに変わりはありませんでした。

俳諧連歌  室町後期、いわゆる戦国時代ですが、この頃に連歌師 山崎宗鑑 (寛正6年(1465)-天文22年(1553))が現われ、 滑稽さや洒脱さなど軽妙なタッチの連歌を追求しました。 形式的には和歌の連歌と同じですが、それまで上流階級の楽しみであった伝統的で格調の高い連歌が世俗的な滑稽味の強い 連歌になり、庶民の多くが気軽に楽しめるようになったのです。
宗鑑によって確立されたこのような連歌は「俳諧の連歌(俳諧連歌)」と呼ばれ、大いに隆盛しました。
その意味で宗鑑の果たした役割は極めて大きく、宗鑑は俳諧の祖と言われています。

「俳諧」という言葉はもともと「滑稽」とか「戯れ」という意味だそうです。 ちなみに、『古今和歌集』に載っている滑稽な和歌のことを「誹諧歌」と言ったそうですが、 ここから「誹諧」という言葉が生まれたようです。

連歌について  連歌は連句とも言い、三十六句を連ねる 「歌仙(かせん)」 、 五十句になるまで連ねる 「五十韻(ごじゅういん)」 、 百句になるまで連ねる 「百韻(ひゃくいん)」 などがあります。 鎌倉時代から江戸時代初期は「百韻連歌(ひゃくいんれんが)」が中心であり、 江戸中期以降は「歌仙連歌(かせんれんが)」が流行しました。
なお、連歌(連句)は、
(1) 発句(ほっく)通常、宗匠がまず最初の五七五を詠みます。 これが「発句」です。
(2) 脇句(わきく)発句に続けて、次の人が七七を付句します。 これが「脇句」です。
(3) 第三句さらに3番目の人が五七五を付け加えます。 これが「第三句」です。
これを繰り返していきますが、たとえば「歌仙」や「百韻」の最後の句、すなわち36句目あるいは100句目を「挙句(あげく)」といいます。 「挙句の果てに」という言葉はここから来ているわけです。 なお、句、脇、第三の句を合わせて「三つ物」というそうです。

貞門派  江戸時代に入ると、歌人であり、連歌師でもある 松永貞徳 (元亀2年(1571)〜承応2年(1653))が現れ、 即興性を重視し、それまで以上に俗言や滑稽さなどを取り入れた「俳諧連歌」を確立していきました。 そのため、庶民からも好まれる連歌として一般大衆化していき、俳諧連歌の大流行を見ることになります。
貞徳を師と仰ぐ一門を 「貞門派」 といい、この時代には貞門派が俳諧の世界の主役でした。
談林派  しかし、貞門派の俳諧連歌も次第に古風になり、より新しい連歌が求められるようになりました。 貞門派の俳諧が俗言や滑稽などを取り入れているとはいえ、当時の新風俗や不浄なはやりことばなどは規制していましたから、 古典重視の俳諧とみなされ、次第に新鮮味がなくなっていったものと思われます。
そのような時期に現われたのが、連歌師 西山宗因 (慶長10年(1605)〜天和2年(1682))でした。 宗因は、町人の感情を取り入れ、当時の遊郭や芝居なども題材として、さらに俗化した俳諧を目指したのです。
宗因を中心とする一派を 「談林派」 と言いますが、この一派には井原西鶴も加わっていました。 談林派は、その当時の俳諧連歌に新風を吹き込み、貞門派に取って代わっていったのです。
談林派の俳諧連歌は世間に受け入れられて一時大流行しますが、 俳諧に面白さだけを追求しすぎて深みがなく、次第にマンネリ化していきます。 そして、わずか十年ほどの短い期間で衰退してしまいます。
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俳句と蕉風について

芭蕉は、若くして俳諧の道に進みました。最初に師事したのは貞門派の北村季吟でした。 その後俳諧の道を極めるために江戸に出て、西山宗因を中心とする談林俳諧の一派に加わり、次第に頭角を表し、 江戸俳壇における俳人としての確たる地位を築いていきました。 当初は宗因に心酔した芭蕉も、次第に談林派の俳諧に飽き足らなくなってきました。 また、様々な欲望の渦巻く俗世間から離れ、深川草庵に隠遁し、 その生活の中で自らの俳諧のスタイル 「蕉風」 を確立し、 宗因に代わって俳諧の世界の中心人物になっていきます。

俳句  連歌の最初の句(五・七・五)を「発句(ほっく)」と言うことは前に述べたとおりですが、芭蕉は、この発句の中に全てを表現しようとしました。 その結果、連歌の発句だけが独立し、それが 「俳句」 となりました。 ただし、芭蕉の時代にはまだ「俳句」という言葉は使われていませんでした。 「俳句」という名称を初めて用いたのは、正岡子規と言われています。
また、俳句には必ず季語と切れ字を入れるという規則も出来上がっていきます。 俳句以前の連歌(連句)の時代にも、発句に挨拶の意味合いが含まれており、 昔から「必ず客より挨拶第一に発句をなす」という性格も持っていました。 そのため、発句には時宜にあった風物が読み込まれる約束が自然に出来上がっていったようです。

季語と切れ字  季語は、言うまでもなく季節を表す語句ですが、これにより言わず語らずのうちに季節感を生みだすことができます。 切れ字とは句を切るための文字のことです。「や」「かな」「けり」などはみな切れ字です。 切れ字の存在により、情緒、感動、余韻等々をかもしだすことができ、俳句の深みを増すことができるようになったのです。

蕉風  わずか17文字の中に様々な情景、情感を表現することができるようになったのは、芭蕉の功績です。 このような俳句の作風を「蕉風」と言いますが、これにより芭蕉は日本の俳聖としての地位を確たるものにしていきます。
蕉風の特徴は何と言っても 「わび・さび」 にありますが、 「わび・さび」とは一体何でしょうか。
辞書によれば、「わび」は「侘」と書き、「閑寂な美のおもむき」「さびしいこと」とあり、 「さび」は「寂」と書き、「閑寂なおもむき」「古びていて上品なおもむき」とあります。 すなわち、古さや静けさの中からにじみ出てくる美しさ、情景や心情など言葉に表せない細やかさ、 奥深さなどを表現しようとしたのが、芭蕉の目指すところであったように思います。 たとえば、次の俳句などは、「わび・さび」を表現した代表的な俳句としてよく知られているとおりです。

 ・ 古池や 蛙とびこむ 水の音
 ・ 閑さや 岩にしみ入いる 蝉の声

「わび・さび」に俳句の真髄を見出した芭蕉の世界観は、 「諸行無常」 にあると言われています。
芭蕉は「旅」をこよなく愛しましたが、当時の旅は、現代の旅とは全く異なっていたと思われます。それこそ諸行無常の思いを深くして行脚したのではないかと思います。 旅日記でもある「奥の細道」の最初と最後の句に、その思いが込められているようです。
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芭蕉の世界観について

奥の細道という紀行文は、「行春や・・・」という句に始まり、「行秋ぞ・・・」という句で締めくくられており、 そこには諸行無常の観念がある。
「旅立ち」の章 :  行春や 鳥啼 魚の目は泪
「大垣」の章 :  蛤の ふたみにわかれ 行秋
「旅立ち」の章の「行春や」と「大垣」の章の「行秋ぞ」に、 「日々旅にして、旅を栖(すみか)とする」 のが自分の定めであり、旅は自分の人生そのものという芭蕉の思いが込められている。
最初の句では、故郷を離れ友人との別離の悲しさを詠んでいるが、 「行く春」という語句の響きから、旅の前途に対する希望や、別れてもまた再会するときがきっと来るという期待、 あるいはそうなる定めという気持ちが伝わってくる。
最後の句は、蛤のふたが開き2つに分かれることを伊勢の二見が浦にかけ、 長旅の疲労もまだ癒えぬうちに伊勢の遷宮(9月6日)に合わせて再び旅立つ心境を詠んでいる。 二見が浦には、岩の間から朝日が差し込むことで有名な夫婦岩がある。その夫婦岩には永遠に別れの日が来ることはないのに、 自分には今度もまた友人たちとの別れが訪れる。 別離はなんとも辛いが、貝のふたが開いて分かれるように友人たちとの別離も避けることのできない定めであるという気持ちが伝わってくる。

いずれの句も、別れの辛さ、悲しさが表れているが、しかし根底にあるのは 諸行無常 の観念である。
すなわち、世の中のあらゆる事は変化していくものである。 悠久の時の流れや大自然のように休むこともなく絶えず変わっていく。春が過ぎ、秋が過ぎるのも自然の慣わし。 ましてや俗世間の事は常に同じ状態であろうはずはない。出会いや別れもまた定めである。 変化に逆らうことはできない。あるがままを受け入れることこそ、真のあるべき姿である。 あるがままを受け入れてこそ、真の美や真の楽しさを感じ取ることができる。 それが人の本来の生き方であると言っているようである。

芭蕉が追求した 「わび・さびの世界」 もそこに根源を置いているに違いない。
芭蕉は、当初談林派の俳諧に傾倒したが、その俳諧は一種の言葉の遊びであり、表面的な諧謔性を楽しむことが第一義であった。
しかし、芭蕉はそれに飽き足らず、より深みのある俳句の道を究めていった。
芭蕉は、俳句に、より内面的なものを追求していったわけであるが、わずか17文字の中で言葉を用いて 内面的な深みを表すことはなかなか難しい。 たんなる言葉の遊びでは為しえない技であり、逆に芭蕉はあるがままの情景を描くことで、文字で表せないことを表わそうとしたのである。 その技法が蕉風であった。 たとえば、静寂な自然と小さな生き物の営みを対比した代表的な俳句 「閑かさや 岩にしみ入る 蝉の声」「古池や 蛙とびこむ 水の音」などは、 あるがままの情景を表現しているが、私たちの想像力がいろいろとかきたてられる。
表現された文字の裏に意図的に盛り込まれた内面的な深みが、「わび・さび」につながる。

読み手の人それぞれに、何かを想像させ、何かを感じさせる。 同じ事柄や同じ表現に対しても、人それぞれによって感じ方が異なる。 また、同じ人でも、そのときどきの心境などによって感じ方も変わってくる。 感じ方それ自体が「常にはあらず」の観念であり、どのような感じ方も真実に違いない。

芭蕉は、あるがままの感じ方を大切にすることで、物事の真実を追究しようとしたわけであるが、 また同時にそれぞれの読み手の想像力や感性を大事にしたとも言える。 それにより、俳句を芸術的な域に高めることに成功し、俳聖とまで言われるようになった。
明らかに芭蕉は自分の人生観、世界観そのものを俳句の中に実現したと言えそうである。
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