江戸東京探訪シリーズ 奥の細道を読む
前途三千里の思い 胸にふさがりて… |
本文目次
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参考情報索引 |
東北地方
羽黒山
酒田
象潟
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本文中、解説付きの語句は 紫色の字 で示し、
旅の日付が分かる箇所は 茶色の字 で示している。
また、右側の欄の「曾良日記より」には、曾良日記中の日付に関する記述を示している。 |
羽黒山 | ページトップへ | |||||||||||||||||||
六月三日、羽黒山に登る。
図司左吉と云者を尋て、
別当代会覚阿闍梨に謁す。
南谷の別院に舎して、憐愍の情こまやかにあるじせらる。
四日、本坊にをゐて俳諧興行。
五日、権現に詣。 当山開闢能除大師は、 いづれの代の人と云事を知らず。 延喜式に「羽州里山の神社」と有。 書写、「黒」の字を「里山」となせるにや。 「羽州黒山」を中略して「羽黒山」と云にや。 出羽といへるは、「鳥の毛羽を此国の貢に献る」 と風土記に侍とやらん。 月山、湯殿を合て三山とす。 当寺武江東叡に属して、 天台止観の月明らかに、 円頓融通の法の灯かゝげそひて、 僧坊棟をならべ、 修験行法を励し、 霊山霊地の験効、 人貴且恐る。 繁栄 長にして、 めで度御山と謂つべし。 八日、月山にのぼる。 木綿しめ身に引かけ、 宝冠に頭を包、 強力と云ものに道びかれて、 雲霧山気の中に、氷雪を踏てのぼる事八里、 更に日月行道雲関に入かとあやしまれ、 息絶身こごえて頂上に臻れば、 日没て月顕る。 笹を鋪、篠を枕として、臥て明るを待。 日出て雲消れば、湯殿に下る。 谷の傍に鍛冶小屋と云有。 此国の鍛冶、霊水を撰て、 爰に潔斎して剣を打、 終「月山」と銘を切て世に賞せらる。 彼竜泉に剣を淬とかや。 干将・莫耶のむかしをしたふ。 道に堪能の執あさからぬ事しられたり。 岩に腰かけてしばしやすらふほど、三尺ばかりなる桜のつぼみ半ばひらけるあり。 ふり積雪の下に埋て、春を忘れぬ遅ざくらの花の心わりなし。 炎天の梅花爰にかほるがごとし。 行尊僧正の歌の哀も爰に思ひ出て、 猶まさりて覚ゆ。 惣て、此山中の微細、 行者の法式として他言する事を禁ず。 仍て筆をとゞめて記さず。 坊に帰れば、阿闍梨の需に依て、 三山順礼の句々短冊に書。
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6月3日に羽黒山入りしている。ここでは、知人の近藤左吉に世話になり、
羽黒山の高僧のもてなしも受けた。霊験新たかな出羽三山詣でも十分行うことができ、多くの人たちとの俳句の会も堪能している。
6月13日にここを立ち、舟で酒田に向かっている。
羽黒山 : 山形県庄内平野にある山。月山、湯殿山とともに出羽三山と呼ばれ、昔から人々の信仰を集めていた。羽黒山山頂に出羽神社があり、修験者の聖地として有名。 なお、羽黒山、月山、湯殿山の標高はそれぞれ414、1979、1504メートル。 図司左吉 : 芭蕉の知人で、染物屋の佐吉。佐吉も俳諧の道を志しており、俳号を呂丸と言った。 別当代会覚阿闍梨 : 別当とは、一山の法務を統括する長のことであり、代が付いているのでその代理を意味する。羽黒山の別当代が、会覚阿闍梨という僧である。 武江東叡 : 武江とは、武蔵野国江戸のこと。東叡とは、天台宗の東叡山寛永寺で徳川家の菩提寺。 現在の上野の寛永寺である。江戸時代、出羽三山は多くの人々の信仰を集めた東国一の信仰の地であり、 羽黒山は当時上野の東叡山寛永寺の末寺として位置づけられていた。 天台止観、円頓融通 : 延喜式 : 平安時代中期 延喜5年(905)に、醍醐天皇の命により編纂された格式すなわち律令の施行細則が延喜式である。 延喜式には、当時の神社の格式、たとえば祝詞(のりと)や、神名帳(じんみょうちょう)と呼ばれる神社の一覧表がある。 神名帳は、神社の名前、祭神、社格などを記載したものであり、 ここに記載された神社は当時の朝廷から格式が高いと認められた神社である。羽黒山神社もその1つであった。 風土記 : 和銅6年(713)に元明天皇が諸国の地名、その地名の由来、産物、土地の状態、言い伝えられている伝説などの編纂を命じ、それによって作られたのが風土記である。 完全版は現存していないが、出雲国風土記がほぼ完成本、 播磨国風土記、肥前国風土記、常陸国風土記、豊後国風土記は一部欠損しているが今に残っている。 日月行道雲関 : 仏経用語で、日月行道とは太陽や月が通る雲の中の道のこと。 雲関とは雲の関所のこと。 したがって、「雲関に入る」とは、頂上を目指して雲を越えて月山に登ることを形容したものである。 龍泉 : 中国湖南省にあったと伝えられる、 刀を鍛えるのに適した水を湛えていた泉。 淬ぐ : 焼きを入れること。 干将・莫耶 : 干将は、 中国春秋時代の刀鍛冶。その妻が莫耶。呉の王に刀の製作を命じられたとき、干将は妻の髪を炉に入れ刀に焼きを入れ、龍泉の水で鍛えて、 雌雄二振りの名剣を作った。雄剣には「干将」と名づけ、雌剣には「莫耶」と名付けたという言い伝えがある。 月山を降る途中にあった鍛冶小屋を見て、芭蕉が思いを馳せたのが「干将・莫耶」であった。 行尊僧正 : 平安時代末期、 比叡山延暦寺の最高位 天台座主に任ぜられた大僧正行尊(1055〜1135)。山伏修験者でもあり、また歌人としても有名であった。 芭蕉は、行尊の詠んだ次の歌を思い出していた。 「もろともに あはれと思へ 山桜
花よりほかに 知る人もなし」 | |||||||||||||||||||
羽黒山での逗留日数 : 曾良日記によれば、6月3日から12日までの約10日間という比較的長い期間を羽黒山一帯で過ごしている。 羽黒山は修験者の修行の地であり、当然大規模な寺院があり、見るべき所も多く宿にも困ることがなかったと思われる。 また、この地に染物屋の佐吉という知人がおり、その世話で寺院の僧のもてなしを受けたり、 俳諧を解する人たちとの俳句の会も数多く催され、 芭蕉にとっては、奥の細道の旅の中でも最も居心地のよい10日間の逗留であったに違いない。 | ||||||||||||||||||||
天台宗の教え : 天台宗の教えは「円頓止観」 という考え方が中心になっていると言われる。 止観とは、諸々の心の思いを一つの対象に止めてそそぎ、正しい知恵をもって対象を観るという教え。 止観は禅そのものをも意味すると言われている。 円頓とは、すべてが円やかに欠けることなく、たちどころに悟りにいたらしめる(頓はにわかにの意)という教え。 天台宗では、この世界のすべてのものごとを認識する根本的な考え方を「空観」に置いており、 すべてのものごとには普遍の真理や不変の実体があるわけではない。すべての存在をありのままに見、 何ものにもこだわらないものの見方、心のあり方を学ばなければならないと説いている(”天台寺門宗の教え”より)。 このような考え方が、芭蕉の世界観 「諸行無常の観念」 に結びついていったものと考えられる。 | ||||||||||||||||||||
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酒田 | ページトップへ | |||||||||||||||||||
羽黒を立て、鶴が岡の城下、
長山氏重行と云物のふの家にむかへられて、
俳諧一巻有。
左吉も共に送りぬ。
川舟に乗て、酒田の湊に下る。
淵庵不玉と云医師の許を宿とす。
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羽黒山で世話になった佐吉に見送られて、6月13日に鶴岡から舟で下り酒田に入っている。
淵庵不玉という医師のもとに滞在し、俳句の会も催されている。
鶴が岡 : 現在の山形県鶴岡市。当時は、酒井14万石の城下町。 物のふ : 武士(もののふ)の誤りか。 淵庵不玉 : 酒田の医師で、蕉門の一人。 | |||||||||||||||||||
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象潟 | ページトップへ | |||||||||||||||||||
江山水陸の風光数を尽して、
今象潟に方寸を責。
酒田の湊より東北の方、
山を越、礒を伝ひ、
いさごをふみて其際十里、日影やゝかたぶく比、
汐風真砂を吹上、
雨朦朧として鳥海の山かくる。
闇中に莫作して「雨も又奇也」とせば、
雨後の晴色 又 頼母敷と、
蜑の苫屋に膝をいれて、
雨の晴を待。
其朝天能霽て、
朝日花やかにさし出る程に、象潟に舟をうかぶ。
先能因島に舟をよせて、
三年幽居の跡をとぶらひ、
むかふの岸に舟をあがれば、「花の上こぐ」とよまれし桜の老木、
西行法師の記念をのこす。
江上に御陵あり。
神功皇宮の御墓と云。
寺を干満珠寺と云。
此処に行幸ありし事いまだ聞ず。
いかなる事にや。
此寺の方丈に座して簾を捲ば、
風景一眼の中に尽て、
南に鳥海、天をさゝえ、
其陰うつりて 江にあり。
西はむやむやの関、路をかぎり、東に堤を築て、
秋田にかよふ道遙に、海北にかまえて、
浪打入る所を汐こしと云。
江の縦横一里ばかり、
俤松島にかよひて、又異なり。
松島は笑ふが如く、象潟はうらむがごとし。 寂しさに悲しみをくはえて、 地勢魂をなやますに似たり。
祭礼
岩上に雎鳩の巣をみる
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6月15日に象潟に行き、松島とはまた趣のことなる象潟の景色や鳥海山の眺望を楽しみ、
また蚶満寺を訪れている。6月18日には、象潟を立ち、酒田に戻っている。
象潟 : 現在、象潟は秋田県に位置するが、当時は秋田県、山形県を含めた地域を出羽の国と呼んでいた。したがって、 酒田より北に位置する象潟も出羽に属していた。 蜑の苫屋 : 蜑とは海人すなわち漁師のこと。苫屋とは茅で編んだ雨露をしのぐ用具で葺いた粗末な小屋。 能因島 : 現在の秋田県にかほ市象潟町能因島。昔、みちのくを行脚していた能因法師がこの地に3年間幽居したことから、能因島と呼ばれている。 その当時は島であったが、現在は陸地になっている。 能因法師はこの地で次の歌を詠んでいる。 「世の中は かくてもへけり象潟の 海人の苫屋を わが宿にして」 西行法師 : 元永元年(1118)生まれ。平安末期から鎌倉時代初期にかけて活躍した歌人。23歳で出家して西行となり、多くの和歌を残した。 歌人として西行が後世に与えた影響は大きく、芭蕉もその影響を強く受けていたと言われている。 西行は旅に出ることも多く、天養元年(1144)頃には陸奥・出羽を旅行し、歌枕に出てくる各地を訪れ歌を詠んでいる。 象潟でも次の歌を詠んでいる。 「象潟の 桜は波に 埋れて 花の上漕ぐ 海士の釣り舟」 神功皇宮 : 成務40年(170)-神功69年(269) 仲哀天皇の皇后。第15代応神天皇の母。 干満珠寺 : 現在の秋田県象潟にある蚶満寺(かんまんじ)のこと。平安時代 任寿3年(859)に建立された曹洞宗の古刹で、比叡山廷暦寺の慈覚大師が開山したと伝えられる。 鳥海 : 鳥海山のこと。山形と秋田の県境にあり、日本海からせり上がるように聳える標高2236メートルの活火山。またの名を出羽富士とも呼ばれる。 雎鳩 : 海岸や河口などに住むたか科の鳥。 全長は60cmほど、羽を広げると約百数十cmほどになる。魚類をえさとするが、最近は海岸線の開発が進み、準絶滅危惧種に指定されている。 | |||||||||||||||||||
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